■その329 春休みの美術室3■
廊下の電気が音もなく消えて、主達の背筋に冷たいものが落ちました。包装されたままのチョコレートバーで、シィー… とジェスチャーをする主のすぐ後ろで、百田さんと瀬田君は自分の口を両手で押さえながら、階段下の様子を伺っています。
居るんです。
音は聞こえません。でも、確かに居るんです。言葉に言い表すことが難しい、何かが。禍々しい圧力が、下から少しずつ上がってきているんです。
そんな3人の後ろでは、
「戻るよ」
のジェスチャーに、百田さんと瀬田君は口を両手で押さえたまま大きくうなずいて、音を立てないようにゆっくりゆっくり、確実に美術室前まで戻りました。
静かに鍵を開けて中に入ると、何やらヒソヒソと数人の話し声が聞こえます。三鷹さん、誰もいないのを確認してから鍵を閉めたので、美術部員の誰かが居るって言うことはないんです。
「先輩…」
後ろから迫りくる禍々しい圧に脅えて、小さく囁きながら百田さんが主の腕にすがりつきます。
「ほらほら、今日も来たわよ…」
「シスター・クレアレンツ、今日も怖いわね~」
「あら、誰か居るわよ? 生徒かしら?」
「どうせ、私達の声なんて聞こえてないわよ」
「バカな子達ね。早く帰ればいいのに」
「シスター・クレアレンツに見つかったら、ただじゃすまないわよ」
ヒソヒソヒソヒソ… その声は黒板の横にある準備室のドアから洩れています。ドアはピッタリと閉まっているのに、そのヒソヒソ声は確りと主達の耳に届いています。ヒソヒソヒソヒソ… それは、美術室に充満しました。
後ろからは、禍々しい圧力がどんどん増してきます。
「せ、先輩、どうしましょう…」
カタカタ震える百田さん。口を両手で押さえたまま、美術室をオロオロする瀬田君。三鷹さんはとりあえず静かにドアを閉めて、その大きな体をドアにピッタリと付けて上のガラス部分から廊下を
主は深呼吸を1回して、出しっぱなしのキャンパスの前に座って鉛筆を構えました。
「三鷹さん」
そして、小さな声で三鷹さんを呼んでキャンパスの前、窓際に立ってもらいます。主は、窓の外を指さします。三鷹さんはその指示の通り、窓の外を向きました。廊下に背中を向けて、主からは右後ろ45度位の角度です。
「百田さん、瀬田君、机の下に」
主に名前を呼ばれて、2人はアタフタと近くの机の下に潜り込みました。
「あら、美術部の白川さんじゃない?」
「この子なら、遅くまで残っていてもおかしくないわよね」
「でも、よく今までシスター・クレアレンツに見つからなかったわよね」
「私、あの子にデッサンしてもらうの、好きだわ」
「そうそう、他の子達と違って、見つめてくれる瞳が素敵なのよね。優しくて柔らかいのに、どこまでも見透かされそうで…」
「今日のデッサンモデルは人間よ?」
「あの視線に、耐えられるのかしら?」
「水島先生だから、大丈夫でしょう」
「来たわよ、来たわよ、シスター・クレアレンツ…」
ヒソヒソヒソヒソ… まるで、生徒達の会話を聞いているようです。主はそんなヒソヒソ話を気にもせず、キャンパスに鉛筆を走らせ始めました。傍らの机の上には、色の濃さの違う鉛筆が十数本と、練消しと、カエルのお顔の土鈴が置かれています。月明かりの中、主は三鷹さんのデッサンに集中します。そんな主の横顔に、百田さんと瀬田君は一瞬見とれてしまいました。
けれど、いよいよ禍々しい圧力がすぐそこまで来たと、体中の毛という毛が逆立って教えてくれました。美術室のヒソヒソ話もピタッと止まりました。
「こんな時間まで、何をしていますか?」
主に掛けられた声は、凍った湖を思わせる程冷たく、鋭さを持っていました。その質問に答えず、主はジッと三鷹さんを見つめて手を動かしています。
ドアは1ミリ開いていません。ヒソヒソ声が言う『シスター・クレアレンツ』は、スッと主の横に現れたんです。百田さんも瀬田君も、自分の口を両手で覆って叫ばない様にするので精一杯です。
「答えなさい。貴女は、こんな時間まで何をしているのですか?」
シスター・クレアレンツは、その名前の通り黒いシスターの服に、髪や首元を白いウィンプル(女性用頭巾)で覆っています。目、なんでしょうか? 黒く落ちくぼんだ2つの穴にのっぺりとした細面。目立つのは真っ赤な薄い唇。その唇が微かに開いて、主の耳の横で問いかけます。
「私の問いに、答えなさい。貴女は…」
背中を大きく丸めて、主のお顔の横で聞き返します。冷たく鋭い声と共に、手が出て来ました。半透明の白い手が、主の鉛筆を動かす手に振れようとした瞬間でした。
カロンカロン…
傍らの机に置いておいたカエルの土鈴が、床に落ちて音を立てました。主は確りと、机の真ん中に置いたんです。鉛筆を取り換える時、指や鉛筆に引っ掛けて落とさない様に、鉛筆の奥に置いたんです。それが、誰も触っていないのに落ちました。