警備会社本部の地下には、訓練所の他に書庫がある。ニェーズの長い歴史の中で蓄積された知識を保護するにあたって最も安全なのはどこか、という議論の末選ばれた場所だった。
そこで、ヨウマはある古文書を読んでいた。デスクライトが黄ばんだ本を照らす。
「ここにいたのか」
下りてきたキジマが、机に向かう彼にそう声を掛けた。
「珍しいな」
「オパラがさ、イニ・ヘリス・パーディについての新しい資料が見つかったって言うから」
「へえ」
「でも古いニェーズ語だから読みにくいんだよね」
「何だってそうだろ。で、どんな内容なんだ?」
「イニ・ヘリス・パーディの更に先……
「……なんか胡散臭くないか?」
「どこまで真実かはわからないけど、強くなれるならそれに越したことはないかな」
「お前がそう言うならいいんだが……」
キジマは壁に凭れる。打ちっ放しのコンクリートは冷たく、慌てて体を離した。
「オパラは影術師団にまだ隠し玉があるかもって言ってた。なら縋れるものには縋った方がいい……と思う」
「俺もイニ・ヘリス・パーディになれりゃいいんだが」
「イータイの方でいけたりして」
「そうなったらおんぶにだっこだ。俺のプライドが許さねえよ」
「僕が死んだら?」
「……やめろよ」
ヨウマは沈黙を苦にしない男だ。黙り込んだキジマを放置して、読書をする。20分ほど、奇妙な時間が流れた。
「鄭目、殺せそうか?」
「穿岩を当てれば式神の鎧は貫通できると思う。ただ、穿岩は魔力の消費が重いんだ。連発はできない」
「二人でかかりたいが……」
「でもキジマも結界の破壊はできるんでしょ? なら鄭目の鎧だって壊せるはずだ」
「そうなのか?」
「うん。ゴス・キルモラで見たんだけど、式神の表面は結界と同じ状態なんだ。だからやり方は変わらないし、結界破壊に特化した穿岩も効果的」
キジマは感心して何度か頷いた。
「そういやお前って穿岩使う時は右手でやってるよな」
「呪縛だよ。刀を納める代わりに貫通力を上げてる。左手でも使えるけど、魔力の無駄遣いになるかもしれないから」
「俺も取り入れるべきか?」
「多分何か縛って戦えるほどキジマに余裕はないと思う」
真っ直ぐに言われて、彼は苦笑いを浮かべた。兄貴分として本来は導いてやるべきだというのに、今はこうして伺っている。悔しくない、と言えば嘘になる。
「まあ、俺に捨てられるものはないからな」
やっと叶った、身体強化と他の術との両立。それを封印してしまうのはあまりにも勿体なかった。イータイの助力がなければ、完璧だというのに。
「面白そうな話してるじゃん」
グリンサが入ってきた。
「ヨウマ、なんだっけ、ファミリーみたいなやつ」
「デス・ファリーベ」
「それそれ。わかった?」
「あるってだけ。どうやったらなれるとかは書いてなかった」
ヨウマは本を閉じる。
「最強への道は遠いねえ」
「別に目指してるわけじゃないよ。本戻してくる」
無数に並ぶ本棚の合間に彼は入っていった。
「キジマくん、焦らないでね」
視線を向けないままグリンサが言った。
「急になんです?」
「ニーサオビンカがホントのことを言うとは思えない。何か隙を見つけて奪いに来るかもしれないんだ」
「精神世界で手合わせしました。確かに弱ってます。ケサンの出力も特別高いわけじゃない。体を乗っ取れないというのは事実だと思います」
「……ならいいんだけど」
向けられる疑いの目も、キジマは納得できた。だからイータイのことはあまり明かしていない。七幹部と、命を預け合ったヨウマくらいだ。
ヨウマが戻ってきた。
「グリンサって非番じゃなかった?」
「ちょっと用事があってね」
とその時。
「グリンサさーん」
という若い声がした。
「ここ、ここ!」
彼女は大声を出す。階段を下りてきたのはジャグだった。
「すみません、待たせてしまって」
ニェーズ特有の赤い髪をマンバンヘアにしている彼は、パリッとした身形をしていた。
「じゃ行こっか」
グリンサは自然な動きで彼の手を掴んだ。
「そんな仲良かったっけ」
ヨウマが疑問を呈する。
「あ、報告してなかった。実は私たち付き合ってまーす」
ジャグは恥ずかし気に頭を掻いた。
「いつから?」
「先週。私もそろそろ別の幸せを考えるべきかなって思ってさ」
その意味をどこまでヨウマが解したかは明らかではないが、否定するような思いは抱かなかった。
「おめでとう、でいいのかな」
「正解。ありがとね」
ヨウマとキジマは心からの祝福を以て二人を見送った。
「上戻るか?」
「そうだね。長居する理由もないし」
階段に足を乗せたヨウマ。なぜ警備会社が安全なのか、その理由を思い出した。本部と支部には、警備会社に対して害意を持つ者が社員の同伴無しで入れない様に結界が張られている。故に、ニーサオビンカも影術師団も警備会社を直接狙うことができないのだ。
イータイの魂と戦った時、実はその警備会社の結界もなくなっていた。それでも被害がほとんどなかったのは、多くの社員が常に待機しているという抑止力があったからだ。
その一つとしてヨウマは存在する。今のような非常事態においては、その存在は何より重かった。
「暇だね」
彼は談話室のソファに沈み込みながら言った。
「いいことだろ」
「そうなんだけど」
キジマはその後ろでシャドウボクシングをしていた。
「落ち着かない?」
「いつ出るかわからないからな」
右ストレートが風切音と共に放たれて、止まった。
サイレンが鳴る。
「第3保育園にて影術師団の活動を確認。ヨウマさんとキジマさんは出動してください。繰り返します」
「これで終わりにしてやろうぜ」
「うん、そのつもりだ」
現着は12分後。陽光の差す中、スモックを着た幼い子供の死体がナイフを握った鄭目に踏みつけられていた。肌は灰色だが、その体躯は地球人のそれ。キジマと同じハーフだった。
「趣味の悪い奴だな」
キジマは鄭目の背後にいる妖狐を睨んでいた。
「勝手に言えばいい」
鄭目は血塗れのナイフを捨て、手を叩く。
「限りなき黒。満たされぬ器。虚ろなる心。現れよ、呪怨の狼」
影から現れた黒い狼は、皮だけが剥がれたように薄っぺらくなり、鄭目の体に纏わりつく。
「今度こそ殺すぞ、ヨウマ」
「こっちのセリフだよ」
爪と刃が何度も打ち合わされた。攻防は一進一退。
「どうした、太刀筋が鈍いじゃないか!」
「話さないと死ぬの?」
ヨウマは殴り飛ばされる。保育園のゲートにぶつかり、痛む背中を摩りながら立ち上がる。そこに追撃。鋭い爪が鉄製の門を抉った。
「まさか妖狐が殺されるまで時間を稼ぐつもり?」
「だったら何?」
「無謀な賭けだと思うよ、それ」
ヨウマは答えないまま刀を正眼に構えた。
一方でキジマ。妖狐は結界弾による遠距離攻撃を主体に、距離を置く立ち回りをしてくる。それが面倒だった。1歩踏み込めば1歩逃げられる。
「ケサンを脚に集めて一気に距離を詰めるしかないぞ」
イータイが助言してくる。
「わかってらあ!」
勧められた通りに強化をかける。飛来する弾丸を紙一重のところで躱し続けながら、拳の間合いに敵を捉える。出現した結界を紙のように破って、拳に風の刃を纏わせる。左腕で受けた妖狐だが、骨も捩じ切れて、皮1枚で繋がるところまでダメージを受けた。
そのまま左アッパーを喰らわせんとするキジマだが、それは見透かされて避けられた。しかし止まらない。右ストレート。外れ。結界の刀が横に振り抜かれる。飛び上がり、回し蹴りを側頭部に見舞った。頭蓋骨に罅が入ったことを彼は確信した。脳を揺らされて足取りが覚束ない彼女の右顔面にフックが入った。
「これで、終わり!」
叫びながらキジマは右ストレート──甘かった。地面から飛び出した半透明の刃が、右腕を貫いたのだ。切断までは至らなかったが、穴のできた腕はもう使い物にならなかった。
「終わりなのは貴方よ」
ついで、背後から結界弾。完全に意識の外。気づかないまま今度は左腕を潰された。
「治してくれ」
イータイに頼む。
「ケサンの提供ができなくなるぞ」
「いい。一撃で決める」
イータイは無言のままケサンで右腕を修復した。だが不完全。衝撃があれば簡単に骨が砕ける。それでよかった。
「お話は済んだかしら!?」
弾幕が展開される。臆すことなくキジマは突っ込んだ。結界弾が皮膚を削って過ぎていく。止まらない。止められない。妖狐はその闘志に怯んだ。
キジマは雄叫びを上げながら右腕を振るう。何重にも張られた結界を打ち砕き、狙うのは頭──否、首。予想外の攻撃を阻む結界はなく、狙い通りに突き刺さった拳。
「発!」
残るケサンの全てが送り込まれ、耐え切れなくなった妖狐の肉が破裂した。鮮血が激しく飛び散る。頸動脈が千切れた彼女は力なく倒れた。
「ケサン量が足りないから脆い首を狙ったのか。いい判断だ」
「ありがとよ」
キジマは膝をつく。視界がぼやける。
「ヨウマ──」
そこで意識は途切れた。
ヨウマはそれを確認すると、すぐに刀を納めた。そしてイニ・ヘリス・パーディの力を解放して一時的に魂の出力を上げる。
「後ろ見なよ」
そう促されて、鄭目は振り返った。死体。
「妖狐……?」
呟いてしまった。呆けてしまった。
「ベルザ・ハバス、龍の継承。形無きものに形を。決して見捨てられぬ一つの輝き。回転する空の果て」
その隙にヨウマは詠唱を済ませる。
「お前から殺す!」
鄭目が顔をヨウマに戻し、突撃をかけてくる。
「穿岩!」
雷の龍がヨウマの右手から飛び出す。鄭目はギリギリのところで体を傾け、左腕を犠牲にした。
「死ねよおお!」
影の鎧は右手に集まる。爪は伸び、剣となる。それを半身で避けたヨウマは、龍の頭を纏った左手を胸にぶつけた。そう、ヨウマは右手だけでなく左手でも穿岩を発動していたのだ。鎧を砕き、心臓を穿ち、背中から突き出す彼の左手。
「じゃあね、鄭目」
ズルッと腕が引き抜かれると、鄭目は崩れ落ちた。
「妖狐……」
最愛のヒトの名前を口にしながら鄭目は死んだ。だがヨウマたちは知らない。それが最悪の選択であったことを。