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第66話

いつか連れて行った蕎麦屋がいいと彩葉に言われ暖簾をくぐる。


「いらっしゃい。空いてる席にど〜ぞ〜」


忙しく動き回るおばちゃんに軽く会釈して奥の席に座った。


「何にします?」


ほとんど用をなしてないようなお品書きを彼女に見せるが、彼女はそれをチラリと見ただけで首を傾げた。


「今日は聞いてくれるの? 勝手に注文しちゃうのかと思った」

「あ、それは……」


そうだ――と思い出す。前回苛立ちのままに月見そば二つ、と勝手に注文した事を根に持っているらしい。


「すみません。あの時は……」

「いいよ、いいよ、別に怒ってる訳じゃないしね」

「あいよ、何にする?」


その時、お冷を持ったおばちゃんが注文を取りに来た。


「あっ」

まだ――と言おうとした僕の上から彩葉が、月見そば二つ、と笑顔でおばちゃんに言う。

注文を取ったおばちゃんが戻って行くのを見送って僕は彩葉に聞いた。


「良かったんですか、月見そばで?」

「え? ダメだった? 歩くん好きなんだと思ったんだけど……。前の時はさ、ちゃんと味わって食べれなかったから今度はちゃんと味わいたいな、って思ってたんだよね」

「彩葉がいいなら、僕は……」

「ふふっ、ごめん」

「?」

「ちょっとだけ仕返しのつもりもあったんだ、ごめんね?」


悪びれているのに、優しく微笑んでいるから、僕はその可愛くて愛おしい顔を見ただけで許してしまえる。

いや、許すなんておこがましい。

そもそも僕が悪いのだから。


「じゃあこれでおあいこですね」

「そうだね」


僕たちの間に優しく温かい空気が広がる。

それはきっと彩葉のお蔭。


僕のギスギスしていた棘がころりと落ちた。だから今、聞こう。聞きたい事全てを聞いてしまおう。


「あの、彩葉?」

「なに?」


僕の緊張が彩葉にも移っていくようだった。乾きそうな喉をお冷で潤すと僕は覚悟を決めて口を開いた。



「昨日の会社帰り、一緒に帰りたくて追い掛けたんです。彩葉昨日【キッチン みやび】に行きましたよね?」

「え? いや、あのね……」

「もしかして最近仕事終わりに予定があるって言ってたのって、あいつの所に行くためですか?」

「あいつって、雅くん? 待って待ってちょっと違うって言うか、……ああ、でも違わないって言うか……」


眉を寄せて困り顔をする彩葉は、何かを言う事を躊躇っていた。

何かを隠しているのは間違いない。


「僕には言えない事ですか?」


僕たちは恋人同士とはいえ所詮は他人。隠したい事の一つや二つあるのかもしれない。だけど僕には隠しておいて、あのオレンジ頭は全て知っているような気がして、悲しくなる。


「言えない。ごめんね」

「そうですか」


掴めたと思っていた彼女の手はまやかしだったのだろうか?

僕は誰と手を繋いでいたのだろう。


「僕たちの関係って何なんでしょう?」

「えっと……、恋人?」


そこははっきり断言して欲しかったのに、疑問系なのがまた僕の胸を苦しくさせる。


それきり黙り切った僕に、歩くん? と覗き込まれるが真正面から視線を受け止める事は出来なかった。





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