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第131話 真名奪還

 また、視点が変わる。


 今度は真っ暗な闇の中にいて、狛は自分の身体も認識でき、動く事も出来た。そこには一切の光がなく、風や匂いも感じられないが、遠くで誰かが泣いている声がする。

 これは心象風景というものだろう。つまり、ここで泣いている誰かはこの暗く沈んだ闇の中に囚われているのだ。そして、今までの夢を見ていたことで、狛には泣いているのが誰なのか、わかるような気がする。


 泣き声のする方へ歩いていくと、古代の人々が着ているシンプルな貫頭衣に身を包んだ女性が蹲ってうずくま泣いていた。


『貴女が、私を呼んだの?』


『誰…?私は誰も呼んでない。近寄らないで、私の傍にいたら、皆化け物になってしまう』


 蹲って顔を伏せたまま話す女性は、少女なのか大人なのか、それが本心なのかもよく解らない。だが、その悲痛な言葉は、決して無視できるものではなかった。狛は女性の真横にしゃがんで、そっと肩に手を置いてやる。

 驚きのあまり、身体がビクンと跳ねそうになったが、女性はそれ以上何も言わず黙って受け入れてくれたようだ。狛が視てきた通りの女性ならば、彼女は本来寂しがり屋で、人との接触に飢えている。ならば、こういうスキンシップも大事なのではないかと狛は考えた。


『…大丈夫、私は貴女を傷つけたりしないよ。貴女だって本当は、そんなことしたくないんだもんね。それにね、私は人間だけど、元々人狼っていう妖怪の血筋でもあるんだって。だから、私は貴女の力で怪物になったりもしないと思う。ね、話を聞かせて?』


 狛の優しい声に女性は少しだけ警戒を緩めてくれたのか、肩からふっと力が抜けた気がする。いつも常に気を張っているのは、どれだけ負担になるのか。自分には想像もつかない苦しさだろうと思い、狛は胸を痛めている。

 女性はそれでも顔を伏せたままだが、やがて、ゆっくりと心情を吐露し始めた。


『私は…ずっと独りだった。母様に捨てられて、友達もいなくて…兄妹みたいに接してくれた二人も、わ、私が…化けも、のに…わたし、のせいで…!うっ、うぅぅ』


『うん…辛かったね』


 女性はまるで少女のように泣き始め、押し込めていた感情を吐き出した。それでも一気に思いを爆発させないのは、生まれ持った性格によるものか、或いは酷く自分を抑え、律する生き方が染みついているのかもしれない。狛は泣いている女性の肩を抱いて、それを黙って受け止めることにした。

 万の言葉を投げ掛けるよりも、彼女に必要なのは誰かが傍にいて触れ合う事なのだと、狛の本能がそうさせている。そして、どの位の時間をそうしていたのか解らないが、泣きじゃくっていた女性は、少し落ち着いて話ができるようになったようだ。狛に体を預けながら、女性は口を開いた。


『…貴女は、私が怖くないの?』


『そうだね、今は怖くないよ。こんなに泣いてる女の子が怖いなんて思えないもの』


 狛がそう言って笑いかけると、女性も少しはにかむような声で小さく『ありがとう』と礼を言う。相変わらず顔は見せてくれないが、打ち解けてきたのが解って、狛は嬉しくなり、また微笑みかけた。


『ごめんなさい。私、無意識にあなたを呼び寄せてしまったみたい。私の身体は、私の言う事を聞かなくて…私は追い出されてしまったの、自分の身体から。だから、何も思い出せなくて…おかしいよね、何も解らないなんて』


 頑なに顔を上げようとしなかった女性はそう言いながらゆっくりと頭を上げ、狛の方に顔を向けた。本来であれば顔があるはずの部分には、何もない。真っ暗な闇で塗りつぶしたように、顔だけがぽっかりと失われていた。


『っ…!?大丈夫、解るよ。私、貴女の名前が』


『え…?』


『見てきたから、ずっと貴女の過去を。ごめんね、勝手にそんなの見られたら嫌かも知れないけど…悪い妖怪達が、貴女から本当の名前を奪ってしまったの。だから、教えてあげる。貴女の本当の名前』


 狛がそう言うと、再び女性の身体が強張るのを感じた。恐らく、彼女は理解しているのだ。妖怪に奪われ、与えられた新たな名の事を。それが、彼女の身体を操りその魂を縛る鎖となっていることも、全て。もしここで、忌月亜那都姫イミヅキノアナツヒメと呼んでしまったら、彼女の全てが妖の母として塗り替えられてしまうだろう。狛はそのまやかしの真名を断ち切るように、力強く叫んだ。


『貴女の名前はアナト。邪馬台国の女王、卑弥呼の娘…亜那都アナト姫だよ。思い出して!』


『あ、ああ…!わた、し、私…は…!』


 狛が真名を伝えた瞬間、みるみるうちに彼女の美しい顔が蘇る。同時に、周囲に広がっていた闇は晴れていって、後には光に満ちてどこまでも青く続く草原が現れていた。それは妖怪達の長年の計略により、失われかけていた亜那都姫アナトヒメの意思が、見事取り戻されたことを表している。


『すご…綺麗…!』


『ありがとう、そなたのお陰で私は自分を取り戻す事が出来た。…しかし、外はだいぶ酷い事になっているようだ。こうしている間に私の身体も、奪われかけている。…そなた、名前は?』


『え?あ、私?私は狛だよ、犬神狛』


『コマか、ふふ、不思議な名前だ。今の世はそう言う名がつけられるのだな』


 ころころと笑う亜那都姫アナトヒメの表情はとても明るい。だが、笑っている余裕がないのも事実である。やや間をおいて、亜那都姫アナトヒメはキッと表情を締め、立ち上がって改めて狛に向き直り、頭を下げた。


『コマよ、恥を忍んで頼みたい。私の身体に引導を渡してはくれぬか?もはや今の世で私が永遠に在る必要などない。返って邪な思いを抱く者達を呼び寄せてしまうばかり。もうこんな思いは懲り懲りだ…それになにより、私が生きたままでは、あの二人を解き放ってやる事も出来ぬのでな』


 二人、というのはつまり、ナシガリとヒリヨミが変化したあの怪物達の事だ。実理は両面宿儺と呼んでいたが、それは便宜上の名に過ぎない。そもそも宿儺というのはカバネと呼ばれる当時の称号であり、名前ではないのである。

 狛はあの二人の事も見てきたので心苦しいものはあるが、亜那都姫アナトヒメの願いを叶えてやりたいという気持ちもあった。


『…うん、解ったよ。友達が苦しんでるなら、力になりたいもんね』


 狛がそう口にすると、亜那都姫アナトヒメは目を大きく見開いて心の底から驚いている様子を見せた。これだけ表情が豊かで優しい性格であるのなら、今の時代に生きていればきっと神奈やメイリー達とも仲良くなれたはずだ。狛の胸がじくじくと痛む中、亜那都姫アナトヒメは一筋の涙を流していた。


『友…?コマ、そなたは私を友人と言ってくれるのか?こんな、こんな化け物を生むだけの怪物である私を…』


『うん!そんな力なんて関係ないよ、こうして一緒に笑ったり泣いたりしたら、もう立派な友達だよ。だから、私に任せて!』


『ああ、ありが、とう…コマ、私は本当に、そなたに出会えてよかった…!』


 再び泣き出す亜那都姫アナトヒメを、狛はもう一度優しく抱きしめた。望まぬ力と、悪しき存在に翻弄されてきた彼女を救いたい、それが狛の心を奮い立たせている。少しの間を置いて狛は亜那都姫アナトヒメから離れ、そして、手を振った。


『それじゃ、行ってくるよ!……またね、アナちゃん!』


『アナ、ちゃん?ふふ、面白いなぁコマは。ああ、よろしく頼む。…本当に、ありがとう』


 亜那都姫アナトヒメが狛に小さく手を振り返すと、急速に狛の意識がその場から離れていくのを感じた。またねとは言ったが、彼女に会う事はもうないだろう。新しい友人の命に引導を渡す…それが狛に託された願いなのだから。

 笑顔で別れを告げる二人の間には、温かい絆が結ばれているようだった。



「…はっ!?」


 狛が完全に目を覚ますと、実理の身体は半分以上が、亜那都姫アナトヒメの身体に取り込まれている状態であった。頭を動かして周囲を見渡すと、両面宿儺にやられて吹き飛ばされた他の三人は、まだ壁際に倒れ込んでいる。

 狛も同様にやられて飛ばされたはずだが、休んでいる間に回復したのか、ダメージは完全になくなっているようだ。それどころか、身体中に溢れんばかりの霊力が漲っているのが解った。これならば、両面宿儺にも後れを取ることはないだろう。


 狛がゆっくりと立ち上がる頃、両面宿儺は狛に気付き、警戒の色を見せ始めた。狛の力が増している事に気付いたらしい。猫田が抵抗をした時には反応しなかというのに、だ。


「アナちゃん。私が貴女を助けるから。だから、安心してね。…いくよ、イツ!」


 狛が呼ぶ声に、待ってましたとばかりにイツがその影から飛び出してくる。そして遂に、決戦の火蓋が切って落とされようとしていた。

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