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第27話 切り落とす決意

 菜月は佐々木の運転する車でとある場所へと向かった。白壁にアイビーの蔦が這うこぢんまりとしたヘアーサロン。菜月が1ヶ月に1度訪れる場所だ。木製の扉を開けるとウィンドウチャイムの軽やかな音が店内に響いた。このヘアーサロンは予約制で、客は菜月しかいなかった。


「綾野さま、いらっしゃいませ」

「こんにちは」


 線が細く上背のある男性ヘアアーティストが、菜月を白い革の椅子へと案内した。「回しますね」ゆっくりと半回転する椅子、鏡の中には厳しい面持ちの菜月の姿があった。


「今回はお早いんですね」

「ちょっと、気分転換がしたくて」


 美しいラインの指先が、菜月の髪をひと束摘んだ。天井にはシーリングファンが回り、背の高いオリーブの樹が葉を揺らしていた。心地良い音楽が、静かな空間を創り出している。


ぎしっ


「いつものように毛先だけ揃えますか?」

「いえ」


 菜月の髪は、薄茶で絹糸のように美しい。緩やかな巻き毛は長く、それは肩甲骨を覆った。これまで湊は、その髪を「天使の羽根みたいだね」と恍惚の表情で眺めていた。


「切って下さい」

「切る?」

「はい、切って下さい」


 菜月は耳の辺りで線を描き、驚きで声を失ったヘアアーティストの黒縁眼鏡を見た。


「切るんですか?」

「はい」

「こんなに綺麗に伸ばしていらっしゃるのに」

「良いんです。切って下さい」

「切るんですか?」

「お願いします」


 髪を濡らすシャンプー台に横たわった菜月は、両手を強く組んだ。それは、これまで伸ばして来た髪を切り落とす決意が揺らいでしまわないようにと、天に祈っているようにも見えた。


「それでは切ります、本当に宜しいんですか?」

「はい、お願いします」

「ツーブロックで間違い無いですか?」

「はい、短く刈り上げて下さい」


 鋭く、銀に光るハサミが絹糸を断つ。一房、もう一房と床に落ちる重みが菜月の胸を締め付けた。肩まで切り揃えたところで、もういちど「切りますよ?」と声を掛けられた。喉の奥が窄まる、後悔はしないだろうか、菜月は搾り出すような声で「はい」と頷いた。髪はクリップで挟まれ、数ブロックに分けられた。心臓が脈打つ。その様を菜月は目を逸らさずに見つめた。


シャキン


 ハサミが菜月の長い髪を耳のすぐ下で切り落とした。その瞬間、菜月はぎゅっと目を瞑った。耳元で鋭い刃先が音を立て、恐る恐る瞼を開くと思わず目尻に涙が滲んだ。然し乍ら、その決意を表すように、唇はきつく結ばれていた。


シャキン


 (これは綾野の家を侮辱した怒り)


シャキン


 (これは多摩さんを馬鹿にした怒り)


シャキン


 (これは私を辱めた怒り)


シャキン


 (これは湊を傷つけた怒り)



 シェーバーの音が襟足を撫で、耳先で柔らかな髪が揺れた。菜月は絹糸のような長い巻き毛を切り落とした。


「これで宜しかったでしょうか」

「ありがとうございます」

「お綺麗ですよ」

「ありがとう」


 最後に確認した鏡の中には、男性のように短く刈り上げた菜月の背中があった。天使の羽根は、菜月が自らの手でもぎ取った。これまでは、湊に助けてもらう事が当たり前の事だと考えていた。


(私が、私も動かなきゃ!湊に頼ってばかりじゃ駄目!)


 賢治と如月倫子の不倫関係に対する報復は、自身が行うべきだと菜月は奮い立った。いつまでも、あのハンギングチェアで微睡んでなど居られない。この断髪はその決意の表れでもあった。


「佐々木さん、お待たせ」

「いえ、大丈夫です」


 文庫本に栞を挟み、後部座席を振り返った佐々木はその姿に仰天した。


「な、菜月さん。その髪はどうなさったんですか」

「どうって、切ったの」

「切ったのって、そんな」


 それは、綾野の家でも同じだった。少年のように襟足を刈り上げた菜月の姿に、多摩さんと ゆき は腰を抜かし、郷士は言葉を失った。


「な、菜月さん、あなた、髪はどうしたの!」

「切ったの」

「それは分かります!分かりますけど!」


 翌日、精密検査を終えた湊は、右腕の骨折以外は異常なしとの診断を受けた。菜月の事が心配な湊は、もう2、3日入院したらという周囲の言葉を振り切り早々に退院した。帰途の車内で、ハンドルを握る佐々木が言葉を濁した。


「湊さん、菜月さんなんですが」

「菜月がどうかしたの!」

「いえ、髪を切られて」

「なんだ、そんな事」

「・・・・」


 湊は、ほんの10センチ切ったのだろうと高を括っていた。玄関の引き戸を開けた瞬間、目の前の少年が本当に菜月なのか、信じられないといった表情となった。


「菜月!なんで!あの髪はどうしたの!」

「切ったのよ」

「切ったって!そんな!」

「イメージチェンジしたかったの」

「そんな!嘘でしょう!」


 湊は、そんな菜月の決意に気付かなかった。

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