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第40話 報復

 湊は、その命をブドウ糖の点滴の管で繋いでいた。壊死したと思われる腸の粘膜が回復するまでは断食となり、その頬は少しばかり痩せ、手首のネームバンドはくるりと回った。


「湊、大丈夫?」

「大丈夫じゃない」

「えっ、お医者さん呼んでこようか!?」

「違うよ」


 湊は菜月の手首を握ると引き寄せ、唇を重ねた。


「菜月がいない」

「もうっ!誰か来たらどうするの!」

「誰も来ないよ」


 そこで、廊下から男性の咳払いが聞こえた。


うおっほん


 入り口に立っていたのは竹村誠一だった。その手には、どう見ても似つかわしくない、オレンジのガーベラの花束があり、面差しは赤らんでいた。どうやら、2人の口付けの一部始終を見てしまったようだ。


「竹村、来てくれたのか」

「湊、元気そうじゃないか、あ?」

「おかげさまで」


 竹村は、菜月に花束を手渡した。


「これ、どうぞ」

「ありがとうございます」

「なに、それ見舞いの花じゃないの!?」

「いいんだよ!」


 竹村の頬は赤らんでいた。


「じゃあ、お花、生けて来るね」

「うん」


 菜月は、竹村から受け取った花束と花瓶を手に、洗面所へと向かった。竹村はその後ろ姿を見送ると、ベッドの下から椅子を取り出して座った。その面持ちは険しかった。


「どうしたんだ」

「四島賢治が自白した」

「なにを?」

「おまえの車に、ペットボトルを仕込むように唆したのは、如月倫子だ」

「そうなのか!?」


 竹村は周囲を窺いながら、湊に小声で囁いた。


「その如月倫子なんだが、任意同行を求めたが姿を眩ました」

「どこへ行ったんだ」

「分からない、実家にもいなかった。立ち寄りそうなところも探した」

「それで、どうなるんだ」

「嫌疑不十分だが、四島賢治と一緒に、傷害罪で逮捕に持ち込みたい」

「そうか」


 その時、竹村は、湊の病室を一瞥し、通り過ぎた黒髪の女性に気付いた。その面差しは不鮮明だったが、深紅の口紅が異様に目立っていた。


「菜月、遅いな」

「・・・・・!」


 竹村は腰の手錠を確認すると勢いよく立ち上がった。


「どうしたんだ」

「来た、如月倫子だ!」

「如月倫子!?」


 病室を飛び出した竹村は、看護師にぶつかって謝罪していた。その影は慌ただしく、菜月が向かった洗面所を目指した。


「菜月!」


 湊は、ベッドから起き上がろうとしたが目眩が襲い、その場にしゃがみ込んでしまった。丁度その場に居合わせた看護師が、湊の背中に手を掛け「ベッドに戻って下さい」と促した。湊は、菜月の一大事にも関わらず、身動きひとつ取れない自身を歯痒く思った。



カツーン カツーン



 その頃、菜月は花瓶を水で濯いでいた。背後から、規則正しい金属音が近付いて来たが、菜月はその音を気にも留めず、ガーベラの花束を花瓶に生けた。そして、青いガラスの花瓶を持ち上げ鏡を見上げた瞬間、背後でゆらりと人影が動いた。


「ヒッ!」


 長い黒髪、深紅の口紅、あの如月倫子が背後に立っていた。然し乍ら、その面持ちは以前とは大きく様変わりし、目の周りは腫れ上がり、口元には青痣が出来ていた。


「菜月さん、お久しぶりね」

「き、さ・・・・、どうしてここが」

「湊さんのお勤め先にお電話したら、こちらだと聞いてお見舞いに」

「あ、あり・・が」


 「ありがとう」そんな言葉は、似付かわしくない。交通事故に見せ掛けて、湊に危害を加えようとした如月倫子が、見舞いに来る筈がない。


カツーン カツーン


 菜月がその音の在処を見ると、銀色に鈍く光るフォールディングナイフが、手摺りを叩いていた。菜月は小さく息を吸い、ごくりと唾を飲み込んだ。心臓が激しく脈を打つ。時間が止まった次の瞬間、鏡の中で、それが振り上げられた。


「キャッ!」


 菜月は花瓶を如月倫子にぶつけると、廊下に飛び出した。如月倫子の黒いワンピースはびしょ濡れになり、「チッ」と吐き捨てた黒いピンヒールは、ガーベラの花びらを踏み潰し、その後ろ姿を追った。


カツーン カツーン


 菜月は咄嗟に階段を上った。如月倫子が持ったフォールディングナイフは、金属製の手摺りを規則正しく叩いた。菜月の、階段を駆け上がるスピードが速くなると、如月倫子はピンヒールを脱ぎ捨て、裸足でその背中を追って来た。


(み、湊!)


 ヒタヒタと壁に追い詰められた菜月は、如月倫子の大きく振りかざしたフォールディングナイフに目を瞑った。スッとナイフの先端が菜月の腕を掠り、鮮血が滲んだ。


(湊!)


 その時だった。


「如月倫子、銃刀法違反、傷害の現行犯で逮捕する!」


 竹村は、如月倫子の手首に手錠を掛けた。その腕には、青あざやタバコを押し付けた様な痕があった。握っていたフォールディングナイフは床に落ち、如月倫子は、地面の上で跳ね回る、魚の様に身体をばたつかせた。


「放せ!放して!」


 竹村は、近隣の交番に協力要請の連絡を入れた。そしてもう片方の手錠を階段の手摺りに掛け、まじまじと見た如月倫子の姿に言葉を失った。


「その傷はどうしたんですか」

「傷?これがなんだって言うのよ!」

「それはドメスティックバイオレンスの痕ではありませんか?」

「そいつのせいよ!」


 如月倫子は、菜月の顔を見据えて眉間にシワを寄せた。


「それはどういう意味ですか?」

「賢治との事がバレてから、毎日、毎日、主人から殴る蹴るの暴行よ!」

「そんな」


 菜月は青ざめた。


「あんたのせいよ!」

「それは、あなたが賢治さんと不倫したからじゃないですか!」

「うるさい!」

「あなたが!」

「うるさい!うるさい!うるさい!うるさい!」


 その時、階下から慌ただしい複数の警察官の足音が駆け上がって来た。竹村は警察官に如月倫子を引き渡し、女性警察官が菜月に毛布を掛けた。


「大丈夫ですか!」

「は、はい」


 如月倫子は警察官に抱えられ階段を降りて行った。


「あんたが悪いのよ!あんたが!」

(た、助かった)


 如月倫子の叫び声はいつまでも続き、病院は喧騒に包まれた。携帯電話を片手に動画を撮影する若者の姿も多く見られた。菜月は病院外来で左腕の傷の治療を受けた。


「竹村、ありがとう。助かった」

「とんでもない」


 湊は、竹村に深々とお辞儀をした。


「助かった、ありがとう」

「犯行現場が県警の隣で良かったな」

「不幸中の幸いだよ」



ピーポーピーポーピーポー



 如月倫子は、警察官に連行されパトカーの後部座席に乗った。すると、観念したかの様に、もうひとつの犯行を仄めかした。


「あの女の弟の事故、私がやったのよ」

「あの女?」

「綾野菜月よ、あの女の弟の車に悪戯をしたの」


 如月倫子は綾野湊の数ヶ月前の自動車事故は”自分たちの故意”によるものだと自白し始めた。


「自分たち、とは共犯者がいるのか?」

「そうよ」

「名前は」

「四島賢治」

「賢治がジュースの缶を置いたから車のブレーキが効かなかったの」


 実行役は四島賢治だと証言し、如月倫子と賢治は法で裁かれる事となった。

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