目次
ブックマーク
応援する
1
コメント
シェア
通報

第42話 灯台躑躅の庭

 あの雪の日から3年、湊31歳の初夏。 


 蝉時雨が降り注ぐ。沈丁花が匂い立つ緑の庭に、鹿威しの音が響き渡った。曲がりくねった赤松が陰を作る表門には、白い提灯の蕾が垣根を成していた。



カコーン



「湊!湊、見て!」

「どうしたの、大きな声を出して」


 菜月が、縁側の柱に息子を立たせ、鉛筆と定規を持って興奮している。


「ひゃ、101cmよ!」

「なに、3歳で101cmだと大興奮しちゃうの?」

「そうよ!平均身長は95cmから98cm!」

「ちょっとしか変わらないじゃない」

「きっと湊より大きくなるわ!」


 菜月は、柱に書いた鉛筆の印に沿って小刀で線を付けた。


「あぁ、菜月、怪我しちゃうから」

「大丈夫よ!」

「ほら、危ないから」


 湊が両腕を広げると、小さな足がトタトタと縁側を走って来た。その面持ちは色白で丸顔、けれど切長の目尻や鼻筋、唇の薄さは湊を感じさせた。


「おいで、秋斗」


湊は息子を高く抱き上げた。


「パパ」

「なに?」

「パパより僕、大きくなるんだ!」

「そうかぁ、すごいね!」

「大きくなって、ママと結婚するの!」


 菜月は悪戯めいた笑顔で秋斗の頬に口付けた。


「どうしよう!秋斗にプロポーズされちゃった!」

「それは困るなぁ」

「ママは僕の!」

「ママはパパの!」


 菜月は背伸びをして、湊に口付けた。


「僕も僕も!」


 菜月と湊は、秋斗の柔らかな頬に口付けて微笑んだ。




カコーン




 そして湊が32歳の誕生日を迎える秋。庭の向日葵が頭を垂れて次の夏を待っていた。灯台躑躅の垣根の白い提灯はすべて枯れ落ち、アメリカ楓は黄色く色付いた。


「あー、待て待てー!」


 幾つものシャボン玉が、芝生の上を転げ回った。ストローを持った秋斗が、それを追い掛けながら、声を上げて笑っている。軒先のハンギングチェアに座った湊は、息子の無邪気な姿に目を細め、そして菜月との懐かしい記憶を辿り始めた。



(あれは菜月と、賢治さんとの離婚届を提出した日だ)


「なにしてるの」

「四葉のクローバーを探してるの」

「幸せの四葉のクローバー?」

「うん」

「そんなに簡単に見つからないわよ」


「湊」

「なに」

「湊がいれば四葉のクローバーは要らないわ」



「ーーーーーーあーーー!ママ!男の人がチューーしてる!」



 髪を短く切った菜月と、湊の口付けを見た子どもが、酷く驚いた声を上げた。シャボン玉が空高く舞い上がったあの日。





 湊の口元に、ふっと笑みが溢れた。


「湊、ねぇ湊」


 赤いタータンチェックのストールを持った菜月が、その横顔に声を掛けた。


「湊、寒いでしょ」


 湊の華奢な肩に、ストールを羽織らせる。


「湊」


 菜月がその細い指先を、そっと握った。



「湊、眠ったの」



カコーン



 シャボン玉は天高く飛んだ。

この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?