「わあああああっ」
歩き出してしばらく。急にバーディが声を立てた。飛び跳ねる様にして、後ろに下がる。
「どうしたバーディ!? 蛇でも出たか?」
「な、何言ってるんですか、所長!」
彼女は何も無い空間を大きく指さしていた。
「何だ?」
ジャスティスは眉を寄せる。
「何も、無いじゃないか」
「何も無いって、…きゃっ!」
今度はぱらぱら、と目の前で何かを追い払う様な格好になる。
…?
彼は辺りを見渡す。しかし幾ら見ても、彼女が怖がったり、避けたりしなくてはならないものなど、何も無い。
「おいバーディ、からかうのはやめろ」
むんず、と彼女の肩を掴む。
「所長こそ、そんな落ち着いてないで、とにかくここから逃げなくては…」
「逃げるだと?」
やはり首を傾げ―――
彼ははっとして、彼女の鳩尾を突いた。途端、バーディは気を失って彼の腕の中に倒れ込む。
やや力が強かったかもしれない。後で何するんですか一体、と非難轟々になるのも仕方ない。
この際、そんなことは言っていられないだろう。
経験が彼に告げている。何かが「見えている」時には、どうしようもないのだ。彼女を軽々と肩に担ぎあげる。
そして、彼は大声を張り上げた。
「…何をこいつに見せてたが知らねえがな」
辺りをぐるりと見渡しながら。
「幻覚だったら、俺には効かねえぞ!」
既に彼等は谷に足を踏み入れていた。低く、よく響く彼の声は、辺りに思い切り反響する。
「何が目的か知らないがな、いい加減、姿を見せやがれ!」
やがれやがれやがれ…
あちらこちらから、何度も繰り返し、言葉は辺りを取り巻いた。
こういうことは、度々経験してきたのだ。
彼女に喋った事も確かに経験の一つだが、他にも様々な経験はある。幻覚を見せる能力がある種族も、辺境には隠れていたこともあるのだ。あれは確か…
そう思い出していた時だった。
ふっ、とそれは目の前に降りて来た。
「なるほど、あんた、効かないんだ」
若い男だった。
文字通り、舞い降りて来たのだ。
ふわり、と重力を感じさせない動きだった。
しかも、だ。もうそろそろ時間も遅くなる。気温も低くなって来るというのに、その男は上半身裸だった。
胸に重そうなじゃらじゃらと銀細工のペンダントをつけているだけで、鍛え上げられた筋肉が綺麗についた身体が、そのまま風にさらされている。
青年は腰に両手を当てると、にやり、と笑った。だが彼はそれにつられる訳にはいかなかった。
「あいにくだったな。俺にはそういうのは、効かねえんだ」
「ふうん。何、あんた能力者か何かなの」
何処かしら、青年のその口調は楽しげだった。
「違う」
ジャスティスは即座に否定する。
「そんな訳ねえだろ。俺の炎の幻覚が見えなかったのって、あんたが初めてだぜ」
なるほど、バーディは炎を見ていたのか。彼女の慌てた態度がようやく彼にも納得できた。あれは火の粉を払っていたのだろう。
「車を壊したのも、お前か」
「ああそうさ」
あっけらかん、と青年は言う。歳の頃は、二十くらいに、見える。
「何故だ」
ジャスティスは短く問う。対する相手の答えもまだ、短かった。
「邪魔だから」
「なるほど」
相手はその答えにはひょい、と片眉を上げた。
「判りやすいな」
すると今度は、目を丸くした。
「あんた、変わってるねえ」
「あいにく、生まれて三十年少し経ってるが、平凡だと言われた試しがねえ」
ふうん、と青年はうなづく。確かにねえ、と言われてしまうあたりが少々彼にはしゃくに触るが。
「…それで、その子担いで、あんたはどうするの。車は壊れて、しかも、俺がまだまだ妨害するかもよ」
「俺には幻覚は効かねえ」
「でも、幻覚でなくてもさ」
ぽっ、と青年の手のひらから、炎が浮き上がった。今度はジャスティスが眉を上げる番だった。
「…ちょうど葉巻の火が切れてたんでな」
ひゅう、と青年は口笛を吹き、一度は3メートルは立ち上げた炎を、ほんの小さなものに変えた。
「火、要るの?」
そして目の前に突き出す。ジャスティスは彼女を背負っていない方の手で、ポケットの葉巻を取り出すと、一本くわえた。
「ありがたい」
煙をふう、と吐く。
「ふん。俺がまた一気に炎を大きくするとか考えない訳?」
「その時は俺の眉毛に少し強烈なウエーブがかかるだけさ」
はあ、と青年は両手を広げた。
「それで?」
「何だ」
「あんた、聞かないのか?」
「何を」
「俺が何だ、とか、どうしてそんなことするんだ、とかさ」
「聞いて欲しいのか?」
そしてまたふう、と煙を吐く。
「んー。暇だし。ちょっとばかり身の上話を聞いてくれてもいいんじゃないかなあって、思うんだけど。俺ちょっと、退屈だし、寂しいのよね」
身の上話、かよ。
ジャスティスはその言葉に呆れる。
何となくこの状況にそぐわない様な気もしていたが、立ち往生しているだけでも仕方がない。
「それで? 俺達がお前の身の上話を聞いてやれば、ちゃんと街まで帰れるという保証があるのか?」
「だってあんた等、聞かなくたって、帰れる保証なんてないだろ。だったら聞いても罰は当たらないと思うぜ」
何となく話がかみ合っていない様な気もする。
「いいじゃん。肉と酒くらいは、出すぜ」
そう言われてしまうと、水すら切らしている自分達の状況を、彼は思いだした。
「肉と酒か」
「いーいサボテン酒があるんだぜ」
へへへ、と青年は笑った。
「お前、名は何って言うんだ?」
「スペイド」
「スペイド?」
「お袋も、スペイドだった。スペイド・クイン」
スペードの女王?
頭の中で、相手の言う「母親」の名がそう変換された。
「俺は母親の輝かしいお名前を拝借したどら息子なの」
あはははは、と青年は笑うと、付いて来いよ、と手招きをした。
*
ジャスティスはバーディを担いだまま、スペイドの後に付いて行く。すると次第に、それまでは山とも谷とも知れない、ただ岩ばかりがごつごつとそびえ立っている場所が、その姿を明かにして行った。
淡い色の土と、岩が次第にその色を変えて行く。
それと比例する様に、道はどんどん細くなって行く。
「…これじゃどっちにしても車は入れねえな…」
「そうでしょ。車なんかまるで意味ナシ」
「お前は、ずっと、ここに住んでいるのか?」
「俺?」
お前以外の誰が居る、と言いたかったが、彼はうなづくだけにとどめた。
「そう。俺はずーっとここに居るんだよ」
「一人でか?」
「一人でさ」
当たり前でしょ、とやや投げやりな口調でスペイドは返す。ふーん、とジャスティスもまた、適当にあいづちを打った。
そう言えば、と彼は思う。考えてみれば、自分も「エイピイ」に入って以来、ずっと一人だった様な気がする。
最初の研修からそうだった。そもそも新人研修の時点で、放り出されるかな、とも思っていたのだ。
体力しか無いろくでなし。教育担当は確実にそう思い、そして報告したはずだ。
そりゃあそうだ、と彼は思った。何せ、「無礼講」な歓迎会からそうだった。
当時教育担当の、そのまた上役らしい男が、何故かその歓迎会に参加していたのだが、同期の女子社員に向かって、露骨に性的な嫌がらせ発言をしていた。
女子社員は、顔を赤くして、泣きそうな顔をしていた。
その内容が彼女にとって、本当にどういう意味だったのかは彼にも判らなかったが、急に恐ろしく腹が立った。それは違うだろう、と。
そしてその上役に向かって、殴りかかった――― もちろん手加減をして。彼にしてみれば、ほとんど、煙程度の軽さで。
普通なら、そんなことはありがちなことさ、と女子社員を慰める所なのに、彼はそうではなかった。
ああやっちまったな、と彼は思った。コネも何も無い自分が、弟のようにプロでベースボールをすることはやめて、それでも何とか入ることができた、堅実な会社だというのに。
しかしその反面、仕方ねえな、という気もした。
言っていいことと、悪いことがある、と彼は思っていた。フランフランは建前上、女性は同等に扱う、ということになっている。法の上でも、仕事の上でも。
法が全てではないことも、判っている。
だから、彼が怒ったのは、あくまで純粋に、彼の中の「正義」だったのだ。
自分がもしも同じことをされた時に嫌だと思うことは、するな。
そのレベルの、ことなのだ。
そしてそれが、大切なことなのだ。
彼は弁解はしなかった。暴力に訴えたことは謝罪した。だが女子社員に対するその発言に対し自分が怒ったことに関しては、決して取り下げない、と言い放った。
周囲の同期の社員達の顔色は一気に青ざめたが、彼一人がひょうひょうとしていた。切れかかった煙草の補給先が近くにないか、と考えていたくらいである。
その時は、たぶんもうそのまま、解雇に持って行かれると思った。
泣いていた当の女子社員も、自分のせい、と言われるのをおそれてか、すぐにこそこそと別の噂を流していた。
まあそれも仕方ないだろう、とその時の彼は妙に達観していた。まだ二十歳にもなっていない頃だ。
それでも彼は思っていた。それは、それなのだ。皆自分が可愛い。それもまた、当然のことなのだ。
ところが、だ。
いつまで経っても自分に対する処分が来ない。
逆にじれてしまった彼が問い合わせてみると、今度はいきなり辺境の営業所への転勤命令が出た。
当時の人事部長直々の、命令だった。彼は出る前に一度、顔を見せる様に言われた。
扉を開けた途端、そこには着ぐるみの犬が居た。
数秒彼は黙ったが、まあそこに居るのなら、きっとそれが人事部長なのだろう、と単純に考えることにして、顔色も変えずに一礼すると、彼はこう言った。
「転勤の挨拶に参りました」
顔を上げた彼に、よぉ、と着ぐるみは手を挙げた。
「何だ、驚かないのか」
「は」
そして着ぐるみは頭のかぶり物を取った。確かにそれは人事部長だった。取ってもやはり、ジャスティスの表情が変わることはなかった。
「変わり者とは聞いていたが、さすがだな」
「ありがとうございます」
「解雇される、と覚悟してたようだな」
取った犬の着ぐるみの頭部をまだ犬の手で撫でながら、人事部長は、気楽な声で言った。
「はい」
「辺境行きは、不満足か?」
「いえ」
「本当か?」
「自分には、合っていると思います」
「なるほど」
そしてぽん、と犬の頭部を彼の頭に乗せた。
「だがこれは似合わないな」
そう言って、人事部長はにやりと笑った。
そこから彼の辺境営業所回りの生活は始まったのである。
実際それは、彼に大はまりの仕事であったのだから、人事部長の目は確かだったと言えよう。
転々と、彼は十数年間、故郷の「ランプ」星系にもほとんど帰らない生活を送ってきた。前の場所には三年居たが、大概の場所には、一年か、長くて二年と言うところだった。
それは彼が問題を起こしたからではなく、彼によって、問題が解決したから、その時間で済んでいるのである。
毎日が忙しく、めまぐるしいが、自分には合っているし、だいたい退屈しなかった。もし本社勤めにそのままされていたなら、きっと自分は柄にもないノイローゼになるか、自分から飛び出していただろう。
ちなみにその人事部長は、現在も人事部長をしている。何でも、もっと上の役職に、と勧められているのに、どうもその役職が楽しいらしく、でん、と居座って動かないのだそうだ。噂では、本社に「間違って」入ってきた役立たずを楽しく使う方法を考えているとかどうとか。
ちょっと待てよ。
そこまで記憶を掘り起こした彼は、一つのことに思い当たる。
すると、こいつをここに寄越したのも、あの人事部長だってことだよな?
肩の上の重みに関して、彼はふと考える。
「おいおい、黙っちゃってどうしたの」
スペイドはふい、と振り返る。
「俺が『客』なんて認めることはめーったに無いんだからさー。もちょっと楽しい顔してくれてもいいんじゃない?」
「『客』か?」
「そ。客。俺は客を選ぶの」
「なるほど、俺達は選ばれた客なのか」
「その女の子はどうか判らないけどねー」
ひょい、と背中の筋肉が動くのが判る。右の腕が、横の岩壁を指した。
*
「そろそろ見えて来ない?」
何がだ、と思い、相手の指の先を見る。
「赤い」
「そ。この辺りから、そろそろ皆、こんな色になってくるさ」
「皆、か?」
「一面。真っ赤になるよ。月が出れば、また綺麗だよー」
スペイドは呑気な声を出す。
「いいのか?」
「何が」
「お前今まで、ここの場所に、人を来させないようにしていたんじゃ、ないのか?」
「やだねー。そうだよ」
それもまた、あっさりと肯定される。
「だから、言ったじゃない。俺は、客を選ぶの、って。あんたは俺に選ばれた。それだけ。それで、だ」
今度はその腕がふい、と前を指す。ぽっ、とその手から炎が上がる。
「そろそろ見えにくくなってきたからね。足元、注意して」
「月が」
「あんたが転んでも大丈夫かもしれないけどさ、女の子を落としちゃいけないだろ?」
や、違うな、とスペイドはにやりと笑う。
「あんたが、落としちゃいけない、と思ってる」
「俺の考えていることが判るのか?」
「少しはね。そっちの力はそう強くはない」
「ほう」
「あんたこそ、驚かないんだな」
「俺にも、軽いものなら、ある」
やっぱり、と相手はうなづく。
「だろうな。でなきゃ、俺の幻覚が通じない訳がないもん」
二人はそのまま、足を進める。
スペイドの手の炎に照らされた、道の両側にそびえ立つ岩壁は、言われた通り、次第に赤みを増してきていた。
「開発でもしたのか? 能力の」
「や、俺の星系では、たまに出る」
「星系で?」
「ランプ、って星系を知ってるか?」
いいや、とスペイドは首を振った。
「俺はこのアリゾナから長いこと、出たことが無いからな。遠くのことは良くは知らない」
「そうか」
「そうだよ」
とてもそうは見えないのに、とジャスティスは思う。
「そのあんたのランプ、って星系は、能力者を生む場所なのか? それとも、やっぱり上手く組合わさった何かか?」
「? 言ってる意味が判らないが」
ああ、とスペイドはうなづいた。
「…出てくる、ほうか」
勝手に納得しているようである。
「なら、大丈夫か」
「何が、大丈夫だ?」
「や、殺されることも焼かれることも、無いなあ、と思ってね」
「…何だと?」
「アリゾナは、それで焼かれたんだよ」
葉巻がぽろり、と口から落ちる。それに少しの間ジャスティスは気付かなかった。