宇宙船でフィリティウムに向かったミスズとアストラジウスだったが、星と星を跨ぐ長距離移動は、それなりに時間がかかる。目的地はディープフリーズを用いるほどの距離ではないが、二日三日で到着するほど近くもない。
普通であれば退屈な旅路。だが今回に限っては、毎日楽しいばかりであった。
物知りなのに何も知らない旦那様と、若い身空で世の中の裏側も知る奥様の二人旅だったからである。
「へぇ、じゃあ、ネティール文明でも結局、ワープとかテレポートとかは実現できなかったんですね」
『うむ。どれだけ頑張っても、光の速度を超える事は叶わなかった。割とギリギリまで迫る事はできたのだが、結局光の速度では宇宙は広すぎるからな。あまり実利にはならなかった。私としては、今の時代でもそういう概念があるのが驚きだ』
「面白いですよねー。技術的に不可能、って証明されても創作の世界だと定番ですよ」
暗黒の宇宙を進む<銀河の荒波号>。その操縦席では、ミスズとアストラジウスが向かい合い、会話に花を咲かせていた。家に居た頃も会話が無かった訳ではなく、むしろ多く喋っていたが、どうしても家事や内職、資料の調査に時間が割かれていた。それに対し、目的地の決まった宇宙船の旅路は資料も持ち込めずやる事は少ない。自然、お互いに関しての未知を埋める作業に二人は従事する事となった。
「じゃあ結局、長距離航行はディープフリーズ頼りですか」
『そうだな。それにしたって、人間を冷凍睡眠においておける時間は限られている。何世代もかけてようやく、目的地へ到着というありさまだ。通信も同じだ、早い段階で重力震を利用した長距離通信技術は編み出されていたが、それでもタイムラグは大きい。銀河に文明が発展すればするほど、社会全体の動きは緩慢になっていった。それを一気にひっくり返したのが超銀河ネットワークだ』
「へえー……。でも通信だけ全宇宙に出来ても、人の出入りはどうしようもないんじゃないです?」
『そこはもう開き直ってな。人間を乗せるのではなく、遺伝種子を乗せた高速船を飛ばす事にした。時間がかかるという問題は最後まで克服できなかったが、ディープフリーズよりも長期間の航行に耐えられるからな。それで目的地まで船がついたら、超銀河ネットワーク越しに現地で受精から誕生、教育を行った。……当時も、多少の反発が無かった訳ではないが、彼らはとてもよく働いてくれた。王朝としても、彼らを気高き人類の開拓者として優遇はしたつもりだ』
「いやー、私は別に……。親がいるからって幸せとは限らないですし。その子達は、直接触れ合う事は無いにしろ、通信越しに育ての親に愛されて育ったんでしょう? それなら別にいいんじゃないです?」
『そういってくれると、助かる。しかし、こういっては何だが、やはり貧困問題は深刻なのだな、この時代も』
「ええ、まあ。私も親の顔を覚えてない孤児院育ちですし……。概ね、不気味な黒髪黒目の子供が生まれたんでほっぽり出した、って感じじゃないかと」
『……そうか』
あ、しまった、とミスズは失言を遅れて悟った。
ミスズは本当に気にしてないしこのご時世よくある事だが、アストラジウスからするとあまり聞き流せない話だったらしい。目に見えて落ち込んでしまった彼に内心焦る。
「あ、いえ、その。私は気にしてませんし、だからきっとその子達も気にしてなかったと思いますよ、ええ。今はその、楽しくやってますし……その……きゃ」
不意に金属の腕が伸びてきて、ミスズの腰に回される。気が付けば彼女は、アストラジウスの腕の中に納まっていた。どこかほんのり暖かく、硬いのに柔らかい彼の感触。
『すまない。その、急に抱きしめたくなった』
「……んもう。何でも構いませんけど、吃驚するから一言お願いしますね。自動操縦とはいえ、ここ、コクピットなんですから。変なレバーとか蹴ったら事です」
『すまない』
「んー。言葉だけの謝罪だと誠意が足りないですねー。もーっとこう、真摯に触れ合ってください」
『……こうか?』
彼の両腕が腰に回され、軽く抱きしめられる。壊れ物に触れるような、どこまで力を入れたら殻が割れるか探っているような、そんな慎重な手つき。心地よい圧力を感じて、ミスズはむふー、と満足気に息を吐いた。
「はい合格でーす。ふふ……旦那様、むさくるしくもないし、冷たくもないこの絶妙な感じがいいんですよねー」
『それは褒められていると思っていいのか?』
ミスズを抱きしめたまま、アストラジウスは右手を解いて彼女の黒い髪に指を絡めた。今日はツインテールにしている彼女の髪をくるくると指を巻き付けて引くと、艶やかな髪は絡まる事なく指をすり抜けた。
『美しい髪だ。これほどの御髪ならそれだけで王宮に招かれてもおかしくはない。当時であれば、多くの貴公子が君の元に跪いて花を捧げただろう』
「あ、その、有難うございます……? なんていうかその、前から思ってたんですけど、黒髪好きなんです……?」
『うむ。この、宇宙の闇が溶け込んだような漆黒の輝き……。カーボン繊維などでは出せない、まさに美しき黒色。生きた人の美しさ、という奴だな』
「そ、そうですか……」
ミスズにとって黒髪黒目はコンプレックスそのものだ、乗り越えたつもりでいてもやはり心のどこかに引っかかり続けたそれを、こうも言葉を尽くして褒めたたえられると変な気分になってくる。いや、別に問題ないのではないか、夫婦なのだし。
いやいやいや、とミスズは首を振った。
目的地までまだ時間はあるし、自動操縦だし今から後ろに引っ込んでごにょごにょ、というのも悪くは無いが、そろそろ先延ばしにしていた話題に触れなければならない。その為に話題を選んで話を運んだのだから、初志貫徹である。
「そ、それはそうと、ネティール文明にも超光速移動手段が無かったというなら、その、猶更不安になりません? だって、当時より遥かに技術力の低下した現代で、その超光速を超える移動手段があるなんて言われても、信じられないのでは?」
『……むぅ。そうだったな。今だに信じられないのだが、しかし否定できる要素が無い。本当に、あるのだな。この時代には、光を超える移動速度が』
「ええ。……厳密には私達が自分で開発した訳ではなく、自然現象を利用しているのですけども。私達は、その空間をヴォイド・ポイントと呼んでいます」
ヴォイド・ポイント。それは宇宙において、赤く染まった特定の宙域の事である。冷たい無限の闇ではなく、黎明の赤に染まったその宇宙においては、距離と時間が大きく歪んでいる。そこに入り正しいルートで抜ける事が出来れば、ほんの一日で数十万光年を移動する事も可能だ。
今となっては、社会を維持する為に必要不可欠な存在である。その一方で、その存在する理由については何もかも不明のままだ。極端な話、このヴォイド・ポイントにどんな危険があるのかも全く理解せずに、ただ便利だからと利用しているのが現状である。
『正直、私としても理解しがたい未知の現象だ。原理も分からず利用していて怖くは無いのか? 私は普通に怖いぞ』
「とはいっても、便利は便利というか、今更これなしに社会は維持できないので……。別に、普通に宇宙を航行してても事故する時は事故するので、ヴォイド・ポイントに何か危険性が隠されていても今更、という話です。まあ、命が安い時代だから、というのもありますが」
そもそもヴォイド・ポイントが原因の事故(ルートを間違えて違う所にいったとかは除く)は聞いたことがない一方で、毎日数十隻の輸送船が何らかの事故で行方不明になっているのが実情だ。それを考えれば、むしろ安全性は高いとすらいえる。
ただ、アストラジウスにおいては問題が聊か異なる。
彼の肉体は生体金属という現代では理解不可能な特殊合金でできており、その肉体には膨大な情報が圧縮されて収められている。それが、歪んだ空間で何か誤作動を起こしはしないか。
「問題はやはり、旦那様の肉体に悪影響を及ぼさないかという一点ですね」
『うむ。そこである』
ワープやテレポートといった、原理的に人間を一度分解するような手段ではなく、あくまで空間のスキップではあるとはいえ、どんな影響があるか分からない。それを調べる事すらできない、というのが実情だ。もしヴォイド・ポイントが原因で彼の身に何かあれば取り返しがつかない。
「やはり、やめておきますか?」
『いや。現状完全に行き詰っているのは事実だし、何より今の時代、ヴォイド・ポイントを潜らなければどこにも行けないのは明確な事実だ。もし、ヴォイド・ポイントが原因で私に何かあるようなら、それは元々王朝の復活は不可能だったという事だ。それならば、もはや生きていても仕方あるまい……』
「私は。その、私は……旦那様に、何かあったらと思うと……。王朝の復活が無理でも、旦那様がいれば、私はそれで……」
『……済まぬ、妻よ。悪いがこれだけは譲れぬ。覚悟は決めている、このまま予定通り向かってくれ』
「……わかりました」
やはり、夫の覚悟は硬いようだ。ミスズは説得に失敗した事を大人しく受け入れる他はない。とはいえ、あくまで可能性の話だ。アストラジウスの肉体は、生物のそれを無機物に転写したものだという話だし、現状ヴォイド・ポイントを通り抜けた人間が変な事になったという話はない。何ごとも起きない可能性の方が高いのだ。
それでも、万が一という事はあり得る。
『なあに、きっと大丈夫だ。一万年の眠りから私を目覚めさせておいて、こんな所で躓かせるほど天命というものは意地が悪くはあるまい』
「意外ですね。旦那様、運命とかそういうの、信じるタイプだったんです?」
『以前は全く信じていなかったが、今は少しは信じてもいいと思う。何せ、遠い時代を越えてこうして妻と巡り合えたのだからな。生きていれば良い事がきっとある、だなどと慰めだと思っていたが、なかなかどうして、というものだ』
「そ、そうですか……」
ミスズは顔を真っ赤にして腕の中で縮こまった。
おかしい。ミスズ本人の認識では結婚契約というか、そういうもっとドライな感じの関係だったはずである。入れ込んでいるのはあくまでミスズの方で、アストラジウスからすれば彼女はあくまで協力者で、見返りに第一婦人として受け入れる、という話だった。それが気が付けば、愛妻家のように事あるごとにミスズの事を褒めたたえる始末。
もしかして王族だとこれが普通なのだろうか。かつての騎士階級が貴婦人に対し、礼儀として美辞麗句を述べていたような。それだとあまり真に受けては互いに不幸になる、と分かりつつも、そもそも色恋沙汰と縁が無かったミスズは動揺を抑えきれない。もしかすると……と思う気持ちと、いやいや調子に乗ったら駄目よ、という感情が心の中で衝突を繰り返す。
勿論、アストラジウスにそんなつもりは全くない。
そもそも彼は、王族ではあるがその人生の大半を集中治療室で過ごした。社交界も貴人との触れ合いも彼には遠い世界の話であり、せいぜいがシュミレーターで慰めのような体験をしたばかりである。女性との語らい、そっと触れ合う指、互いに交わす睦言……それらは、アストラジウスにとって空想上の逸話だった。それが今や、見目麗しい黒い髪と黒い目を持つ美女と契約とはいえ契りをかわして妻として腕に抱いている。夢に見る事すらしなかった現実に、美辞麗句がつらつらと口から溢れてくるのを全く制御できていないでいた。
早い話が超絶調子に乗りすぎて気持ちが暴走しており、自分で分かっていても止められない。
まあ、お互いがそれで気分が良いのなら、問題は無いのだろう。多分。
『さて、そういう事だから、後ろに引っ込もうか』
「え? ……わわっ」
アストラジウスがミスズを抱えたまま席を立つ。いつの間にか横抱きにされていた事に気が付いた彼女は、慌てて旦那にしがみついた。
「ちょ、ちょっと。吃驚しました……」
『いや何、操縦席であれこれするのは危ない、と言われたからな。まだしばらく自動操縦という話だし、続きは向こうに下がってから、という事で』
「つ、続きって……」
自分の考えていた事を見透かされたような気持ちになって、ミスズは赤くなった顔を隠した。
『誠意が足りないんだろう? それとも嫌かな?』
「……別に……嫌じゃないです……」
『ふふ』
アストラジウスは腕の中の妻を上機嫌に見下ろし、宇宙船の後方に移動した。彼らが通り過ぎた後、圧縮エアーの音を立てて扉が閉じ、ロックをかけた事を示す赤い表示が点灯する。
無人となった操縦席では、自動操縦のまま、操縦桿がゆっくりと見えない人に手繰られるように動き続けていた。