小鳥は、カレンダーを捲(めく)った。
(ふぅ)
10月1日木曜日。佐々木隆二と15:00に北國経済大学のライブラリーセンターで待ち合わせをしていた。その話題は決して明るいものではないと思われた。
(あの時、どうすれば良かったの?)
小鳥はキャンパス食堂で佐々木隆二の機嫌を損ねてしまった。それがたった1瓶の一味唐辛子だとしても、小鳥がなんらかの形で高梨拓真と繋がりがあると勘ぐられても仕方がなかった。
「小鳥ちゃんはいつも遠くを見ているね」
佐々木隆二は常日頃から小鳥の様子に不安を抱き、その相手が自身の親友となれば、やはり心中は穏やかではない。
「暫く、小鳥ちゃんの顔・・見たくない」
その言葉に小鳥の脚は震え、背中を追う事が出来なかった。
(でも、なんて言えば良かったの?)
その時、目の奥で滲んだ熱い物は、自己嫌悪と佐々木隆二を蔑(ないがし)ろにした懺悔(ざんげ)の気持ちだった。
数日後、佐々木隆二から久方振りのLIMEメッセージが届いた。その文面に、「とうとうこの日が来た」と、小鳥の心臓は締め付けられた。
▪️小鳥ちゃん久しぶり
お久しぶりです 既読
▪️突然で悪いんだけど、10月1日に会えないかな
はい 既読
▪️うちのライブラリーセンターで15:00、授業大丈夫?
大丈夫です 既読
佐々木隆二との待ち合わせの朝、小鳥は明るい色の服を着る気分にはなれなかった。クローゼットから選んだのは、ブルーグレーの燻(くす)んだブラウスと灰色のカーディガン、黒のジーンズだった。あまりの地味さに、自嘲の笑みがもれた。
(・・・・そうだ)
鏡の前に立つ小鳥の脳裏に、これまでの出来事が渦を巻いた。2023年の軽薄そうな佐々木隆二はクッキーの箱を準備し、小鳥と
(・・・・2022年も・・それから)
2024年の生真面目そうな佐々木隆二は、
(佐々木さんは、なにかのキーワードだ)
小鳥は玄関の三和土(たたき)でスニーカーを履いた。
「行ってきます」
「あら、朝ごはんは食べないの?」
「ちょっと食欲ない」
「あ、そうなの?」
「うん」
そこで母親は厳しい面持ちになった。
「小鳥、気をつけなさいよ」
「うん」
田中吾郎の件は、ストーカー規制法、軽犯罪法、迷惑防止条例が適応された。警察からの禁止命令などの違反を繰り返せば2年以下の懲役、200万円以下の罰金が科せられる事となった。
田中吾郎は両親に付き添われ、北國経済大学に退学届を提出した。そして、小鳥への接触は厳しく禁止された。
「小鳥!おはよう!」
「おはよう、いつもごめんね」
「良いの良いの!」
「小鳥ちゃん、おはよう」
「おはようございます、ありがとうございます」
念の為、村瀬 結 とその恋人が、小鳥の大学への送迎を買って出た。
「毎日、自動車で通学なんて申し訳ないです」
「いや、メンバーの不始末だからね。当然の事だよ」
「ありがとうございます」
小鳥はすっかり色付いた楓(かえで)並木を車窓から見上げた。すると助手席の村瀬 結 が振り返った。
「なに、今日は随分と地味な格好ね」
「うん、夕方、ライブラリーセンターで佐々木さんと会う約束があって」
「佐々木さんと?なんで?」
そこまで言ったところで運転席から咳払いが聞こえ、村瀬 結 は「あっ!ごめん!」と肩を竦(すく)めた。
「ううん、良いんだよ・・・気にしないで」
すると、ルームミラーの中で心配そうな顔付きの村瀬 結 が帰宅はどうするのかと問い掛けた。
「帰りはどうする?待ってる?」
「大丈夫」
「本当?心配だなぁ」
「田中先輩、もうなにもしないと思う」
「わかんないわよ」
「大丈夫、明るい道で帰るから」
「そう?」
「うん」
小鳥にとって現在の問題は、田中吾郎の事ではなく、佐々木隆二がなにを話し、これから物事がどう変化してゆくかという事だった。
(佐々木さんが、田辺明美と付き合う)
本来ならば、田辺明美が拓真の恋人として、その人生に関わる筈だった。
(私が佐々木さんと付き合ったから、未来が変わったの?)
キーンコーンカーンコーン
キーンコーンカーンコーン
小鳥はショルダーバッグにテキストを入れると席を立った。
「小鳥!小鳥!」
「ん?なに?」
「あんた、忘れてる!」
机にはペンケースが置いてきぼりにされていた。これから佐々木隆二に会うと思うと、やはり動揺が隠せない。小鳥がペンケースを手に取ると村瀬 結 が不安げに見上げた。
「小鳥、高梨さんと付き合ってるって本当なの?」
「・・・・・」
「違うんでしょ?」
「・・・・・」
「なら、佐々木さんに謝っちゃいなさいよ」
村瀬 結 の耳にも、キャンパス食堂での出来事は届いていた。
「許してくれるって」
「そうかな」
「大丈夫だって」
あの日の出来事は、些細な諍(いさか)いで佐々木隆二が臍(へそ)を曲げている、と実(まこと)しやかに囁かれていた。
「うん、謝ってみる」
けれどこうなってしまった以上、佐々木隆二が「ごめん」と別れ話を切り出して来たならば、小鳥はそれを受け入れるつもりでいた。
アスファルトの水溜りに、黄色や茶色の秋が落ちていた。それを踏み締め、小鳥は北國経済大学の門を潜(くぐ)った。ライブラリーセンターの通路はやはり暗く、小鳥の胸の内を表している様だった。
(佐々木さんはなにを話すんだろう)
エレベーターは5階で停まっていた。
(なんて答えれば良いんだろう)
ボタンを押すとエレベーターの箱は4、3、2、とゆっくりと降り、そのたびに小鳥の心臓は脈打った。
(・・・・・)
ポーン
エレベーターの扉が3階で開いた。