墨で塗り潰したような世の中だった。墨では物足りない。マジックのブラック、イカ墨を塗りたくったような、まっくろけの社会だった。
家々からは明るい会話ひとつ、陽気なやりとりひとつなく、なによりどこからも、人々の笑い声ひとつ、聞こえてこなかった。
一人ぐらいは、笑っているだろうと、いくら耳をすましても、ワハハも、ハハハも、ケラケラも、やはりきこえてこない。ウフフぐらいはきこえないものかと、なおもしつこく聞き耳をたてるも、あたりの家々はまさに、死んだように静まりかえっていた。
夏美は、二階の押し入れをかたづけていたとき、一冊の雑誌をみつけた。
「母さん、これ」
母親の秋代は、娘が手にしている埃まみれの雑誌をみて、顔色をかえた。
「あなた、大変よ!」
「なんだ、どうしたんだ?」
奥の部屋から父親の春樹が顔をだした。
「夏美が、これを――」
それをみるなり、春樹もまたぎょっと目をみはった。
「こ、これは……」
「そうよ、漫画よ。わたしが子供のころみていたのもので、とっくに捨てたと思っていたのが、夏美がみつけてきたの」
「すぐに捨てるんだ」
小学生の夏美は、両親のいっている意味がわからず、なにげなくページをひらいた。そこにはコマ割りされた中に、男の子がなにかにびっくりして、尻もちをついている絵が描かれていた。その滑稽な様子がおかしくてつい、彼女は口元に笑みをうかべそうになった。
「だめだ!」
春樹は娘の手からひったくった漫画を、床にたたきつけると、何度もふみつけた。
室内に不穏な影がゆらめき、なにやら荒々しい息遣いがきこえてきた。
「テーブルにもぐりこめ」
春樹の大声に、秋代は夏美を抱きすくめてテーブルの下にとびこんだ。春樹は、トイレにとびこみ、便器にうずくまって頭を抱えこんだ。
だが、なにもおこらなかった。
三人はふたたび顔をあわしたものの、こういう場面につきものの、安堵の笑顔を浮かべることはなかった。
「ワハハ喰いの怪物は、あらわれなかった」
「夏美が笑う前に、口をつぐんだからだわ」
父と母は、娘をみながらいった。
秋代はすぐに、用意したビニール袋の中に、春樹にふんづけられてくしゃくしゃになった漫画をいれると、その口に輪ゴムをまきつけた。
ワハハ喰いの怪物が最初に出現したのは、三年前の初夏のことだった。その正体はまったくの謎で、いつ、どこからあらわれたのかも、だれにもわからなかった。
それまでは人々は、冗談をいいかわしたり、ふざけあったりして笑っていた。テレビのバラエティ番組、コミカルなビデオをみては笑いころげていた。
そんなとき、あの怪物が出現した。どんなにセキュリティをしていても、難なく入りこむことができ、笑っている人間に襲いかかるとどうじに、その笑い声を吸い取ってしまうのだった。吸い取られた人間は二度と笑うことができなくなってしまう。笑いをなくした人間は、暗く、陰気で、毎日がお通夜のような顔つきになってしまう。ワハハ喰いの怪物はつぎつぎと、笑っている人々に襲いかかっては、かれらの笑いをあまさず吸い取ってはふたたびどこへともなく消えていった。
現代の、暗く陰気な社会はそのようにしてできたのだ。笑うことができなくなった人々は、どんな現代医療をもってしても、回復することはなかった。お笑い芸人、コミック作家、普段笑いで食べている多くのコメディアンたちが、笑いをなくした人々にふたたび笑いをとりもどさせようと、かれらのまえでせいいっぱい、漫才を演じ、ジョークをとばし、舞台で喜劇をやってみせたが、だれ一人として、ピクリとも笑みをうかべたものはなかった。なかにはもともとちっとも面白くもないエンターティナーもまじっていて、笑わないのを怪物のせいにしているといった笑えない話もあったが、いつも観客を大爆笑させているはずの連中も、これにはさすがにお手あげだった。そしてそのかれらもまた、テレビのスタジオに、舞台に、ライブ会場に出現したワハハ喰いの怪物によって、二度と笑うことも笑わせることもできない人間におとしめられてしまったのだった。
「絶対に、笑ってはいけない」
まだ笑いを吸い取られていないみんなは、このことを肝に銘じて生きるようになった。とにかくクスリとも笑ったら最後、どこからともなくワハハ喰いの怪物が出現するので、みんなはいやでも厳めしい顔つきになり、しりあいどうし路上で顔をあわせても、まるで親の仇と相対したかかのような態度ですれちがうのだった。
夏美の通う小学校でも、笑いはいっさい禁じられていた。
「やあ、夏美」
同じクラスの馬瀬という生徒が、廊下をゆく夏美に声をかけてきた。
「おはよう」
暗い表情で夏美は挨拶を返した。
「きのうは大変だったのよ」
夏美は昨夜の出来事を彼に話してきかせた。
「へえ、そんなことがあったのか」
二人は近所どうしということもあって、仲がよかった。
「いつまでこんなことがつづくのかしら」
嘆く夏美に、馬瀬はあたりをみまわしながら、つとめて小さな声でいった。
「おれだってほんとは、腹の底から、大笑いしたいんだ」
「それはわたしもおなじよ。ふざけあって、どんなにわらいころげたいか」
「おれたちはまだ、笑うことをしっているだけでも、幸せなのかな」
まだ一時間目がはじまるまで時間があった。二人が廊下で立ち話を続けているとき、ふいにやはり同じクラスの、坂下という男子生徒が、馬瀬の前にたちはだかった。
「なんだい」
おどろく馬瀬の前で坂下は、下瞼に指をあてて、ぎょろりと目をむいたあとに、鼻の孔と唇に指をいれて両側に、おもいきりひっぱってみせた。夏美は、あわてて目を手でおおって、そのカエルを圧し潰したたような坂下の顔をみないようにした。馬瀬のほうは、まともにそれをみてしまい、あまりのおかしな顔におもわず、ぷっとふき出してしまった。
「ああーっ」
夏美が悲鳴をあげたそのときにはすでに、七色の毛の怪物が馬瀬にのしかかるようにしながら、彼の笑いを吸い取っていた。
夏美は、怪物がはなれたあとの馬瀬の、まるでゾンビのような精気の抜けた顔をまのあたりにして、ため息をついた。
「へっへー」
以前から夏美たち二人が仲良くする様子を妬んでいた坂下が、わざと馬瀬を笑わせてワハハ喰いの怪物に襲わせ、いま、してやったりと喜んだとたん、彼にもまた怪物が襲いかかった。
夏美はたまらずその場をにげだした。職員室に飛び込み、担任の先生に事情を話したものの先生にも、こればかりはどうすることもできなかった。
その日、帰宅した夏美は、馬瀬たちのことを両親につげると、なにごとかを決意したように口を開いた。
「いつまでも、ワハハ喰いの怪物の好きなようにさせていていいのかしら。わたしたちでなんとかできないのかしら。わたし、馬瀬くんの、仇をうつわ」
父と母は顔をみあわせた。
「そんなこといっても、相手は神出鬼没の怪物だよ」
「なにか弱点があるはずよ」
「あの怪物は、笑いを餌にしてるのかしら」
なにげなくいった母の言葉に、夏美はぴんとくるものがあった。
「だったら、悲しみをあたえたら、どうなるのかしら」
その日から夏美は、悲しい話を集めにかかった。暗い世の中だけに、その手の話はいくらでも集まった。集めるだけでなく、クラスのみんなに、また先生たちにも、わけをはなして、おなじように悲しい話の収集をたのみこんただ。
学校以外にも、この話はひろがっていき、怪物を退治したいと思っているのはみんなもおなじだから、夏美のアイデアを実現させようとだれもが協力するといいだした。
悲しい話はたちまち山のように集まった。そのどれ一つをとっても、涙なくしてはきけないようものばかりで、じっさいそれをきいた多くの人々が、人前もはばからずに大声をあげて泣き出した。
そんな周囲をみまわしながら、夏美は声にだしていった。
「さあ、いよいよ、ワハハ喰いの怪物をおびきよせるわ」
夏美はその役は最初から、じぶんがやるときめていた。
「本当に大丈夫なの?」
ひときわ暗い表情でいう母に、夏美は毅然としていった。
「母さん、なにか面白いこといって、わたしを笑わして」
「きゅうにそんなこといわれても……」
ながい笑いのない生活をおくってきた母親だった。
「あなた、なんとかしてよ」
助け舟をもとめられた春樹は、考えた末にいった。
「うそでもいいから、笑ってみようか」
「そうね」
秋代はうなずくと、とにかく口をあけて笑いだした。そのあとを春樹と夏美がひときわ大きな声で笑いだした。まわりにいた面々もいっしょになって笑いだした。なにもおかしくないのにあたりには、いつしか笑いの渦がまきはじめた。
不穏な影がゆらぎ、全身を七色の毛におおわれたワハハ喰いの怪物が出現した。
「いまよ、悲しむのは!」
夏美の声にみんなは、すぐに悲しい話を思いうかべた。あちこちからすすり泣きがきこえ、みんなの頬に大粒の涙がこぼれおちた。なかには泣き叫ぶものや、悲嘆にくれて地面につっぷすものもいた。
ワハハ喰いの怪物が目にみえてうろたえはじめた。笑いを糧にする怪物にとって悲しみや泣き声は、いちじるしく気力を萎えさせるとみえ、七色に輝いていた毛はみるみる色褪せ、目からも光がうせ、やがてガクッと跪いたかとおもうと、その姿は地上から消滅した。
それ以後、ワハハ喰いの怪物は、二度と人前にあらわれることはなかった。怪物が消える瞬間、大地をゆるがすようなとてつもなく大きな笑い声がおこった。それはこれまで吸い取ったみんなの笑い声だったらしく、げんに、笑いをうしなった人々がふたたび笑いをとりもどしたのをみても明白だった。
夏美も学校で、馬瀬と笑いながら言葉をかわすようになった。坂下もいっしょになって、もともと冗談の好きな彼なので、いっぱいジョークをとばしては二人をよろこばせた。