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19.ひどく冷たい月の下

 二人はそのままビルの階段の踊り場まで行く。

 その様子を見ていた壱岐は、何ごとだ、と眉を吊り上げるが、どうやらプライヴェイトの話だ、と気付くと、そのまま階段を降りて行った。

 彼はそういう時には実に寛容だった。自分達にもそういう時代があったのだ、と。

 そんな壱岐の心情など安岐にはとりあえず考える余裕はない。問題は昨日のライヴである。全然見なかった訳ではない。だが。彼は必死で記憶をたどる。


「ああ、何かすげえバンドだったな。ギターレスじゃん。お前がああいうの好きだって、意外だと思った」


 とりあえず第一印象を述べる。嘘ではない。


「そおか? 別に俺はギターが入ってなきゃ駄目ってことねーぜ?」

「あれ、そーだったっけ」

「うん。それにあそこの曲にどうギターを入れたらいいかって考えるのは面白いし」


 ああ駄目だ。こういう打算なしの部分に自分は弱いんだ、と彼は思わずにはいられない。


「あー…… と、津島っごめん!」


 両手を合わせて拝むようなポーズを取る。


「実は…… あの、一応最後まで居たんだけど、四曲目までしかマトモに聴いてない!」

「だろーな。そんな気はしたよ」


 津島は肩をすくめる。


「あ、でも、気に入らなかったとかそーいうんじゃないんだ」

「そぉかあ?」

「そぉ。アクシデントが」

「アクシデント」


 にやり、と津島は笑う。いきなり安岐の肩に手を回すと、


「やっぱりそーでしたか。何のアクシデントかなーっ? おにーさんに言ってごらんなさいーっ?」

「誰がおにーさんじゃ! お前の方が二ヶ月下だろーに!」

「まあそんな些細なことなど気にして」


 前回の今回である。そして津島はそういうことには妙に勘が良かった。


「こないだのギタリストのお嬢さんでも居たの?」

「そ」


 ほほー、と津島は裏声を立てる。

 そして空いている方の手で猫にそうするように、ごろごろと安岐の喉を撫でる。よしてくれえ、と安岐は笑いながら逃げだす。その様子を見て津島はへらへら、と笑う。


「良かったじゃん」

「まーね」


 だが、何だかんだ言って、この友人が心からそう言ってくれるのは事実なので、安岐もそれに応える。


「で安岐くんには進展が?」

「あると言えばそうだけど」

「ほほー」

「ちょーっと先走ってしまって。いーのかなあ、って思ってたところ」

「何処まで?」

「行くところまで」

「まだ墓の中には入ってないでしょうに?」

「何じゃそりゃ」

「行き着くところ。最終的には同じ墓の中ってね」

「縁起でもねえ」


 実にそうである。


「だってそうよ。俺達何だかんだ言っても、結構明日も知れなくねえ? ウチのメンツだって、俺達が加入した頃に比べて、ずいぶん入れ替わり立ち代わり多いじゃん。辞めた奴もいるけどさあ、そうじゃない奴も」

「だよなあ」

「だからさ、別に急ってこともねーんじゃないの? いきなりいろいろしても構わねーと俺、思うけど」

「いろいろ、ねえ」


 安岐はため息をつく。 

 いろいろと言えばいろいろありすぎるのだ。

 考えすぎようと思えば、考えすぎになど、いつだってなれるようなことが一気に重なってしまったような気がする。


   *


 この都市に来たのは十のときだった。

 どうしてこの都市に来ていたのか、それがどうしても彼には思い出せない。

 おそらくは、兄の所へ遊びに来たのだろう、と今になってから彼は考える。兄は十歳違いで、その都市の国立大学の学生だった。

 実家は北隣の県である。通って通えない距離ではなかったが、学校が工業大学ということもあり、泊まり込みの実験や何かが増えてきた時、一人暮らしに切り換えたのである。

 いい環境だったらしい。学校は「TM」の駅の近くにあり、そのそばの公会堂で入学式もしたらしい。


 「それ」は夏に起こった。


 ―――ということは、夏休みで兄を訪ねてきていたのではないか、とも考えられる。

 何せ安岐はその頃小学生だった。夏休みなら、隣の県くらいなら、兄を訪ねに行くくらい、一人でも行ったのではないか、と。


 でも、何故。


 その理由がどうしても思い出せない。

 壱岐もまた、そう言う。彼は兄の同じ大学の友人だった。

 他にも友人は居た。少なくとも、あと二人。だけどその名前が思い出せない。

 何で思い出せないのだろう、と彼は思う。その夏の、「その時」の記憶はひどく不鮮明なのである。

 不鮮明な記憶はもう一つあった。

 この都市に来てから、兄と、そして誰かと住んでいた筈なのだ。しばらくの間。

 そしてある日、ある満月の夜、彼らは「川」を越えようとした。

 冬だった。ひどく寒い夜だった、という記憶はある。電化街だけではなく、ものが安く買えるマーケットもある「OS」で誰かが買ってくれた綿でもこもこのブルゾンを着て、走り出した。

 当時は、「増えてきた」と言われる現在よりずっとこの都市を脱出しようとする者が多かった。同じように「川」を越えようとする者が、公安の目を盗んで橋を渡ろうとしていた。

 おそらく自分もその一人だったに違いない。

 だがそこからが曖昧だった。

 記憶にあるのは、公安の車の赤い回転灯、黒い制服、命令する誰かの低い、鋭い声、銃声、同じように「川」を越えようとする誰かの悲鳴、兄の声、…冷たい満月。

 兄がいったい、撃たれたのかどうかも確かめる術はない。

 呆然としていると、誰かが自分を横抱きにした。そして言い争う声。誰かが自分を持ち上げたまま走る。冷たい風。風で目が開けられない。

 それでも、ちらりと薄目を開けると、やはり月があった。


 ひどく冷たい月だった。


 その時彼を横抱きにして逃げ、それから五年間彼の保護者だったのが壱岐である。兄の友人らしいが、詳しいことは彼は語らないので判らない。


 津島とは、学校で出会った。

 学校は無料で行けた。だが元からのこの都市の住民の子供は、「よそもの」の彼をいじめようとした。無論彼は反撃に出た。兄はいつも言っていた。殴られたら殴り返せ、お前にはその権利がある、と。

 権利や義務という言葉の意味も判らない子供ではあったが、何となく兄の言いたいことは判ったので、彼はその言葉を忠実に守っていた。やられたらやりかえせ。

 当然敵は多かった。だが味方もできた。

 津島とはその時出会った。彼は隣の市に住んでいたらしい。たまたま映画を観に来ていたら、「その時」に巻き込まれてしまったのだという。

 だが彼は自分が巻き込まれた時のことを覚えている。映画館でアニメ映画を観ている時、その画面がいきなり消えたのだという。

 それは他の人々に聞いてもだいたい似たかよったかの反応で、自分のように記憶が欠落している者など、ほとんどいないのだ。

 それが安岐を時々不安にさせる。

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