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27.1℃近く低く設定された体温

 その時、ひどく嫌な気分が走ったので、そのまま勢いで朱明は扉を開けた。手を裏に返し、慣れた場所にある照明のスイッチに手をかける。

 だがそれは点かない。


「疲れてるね」


 仮眠室はその使用する人数のわりに、常備しているベッドの数が多い。

 今もまた、誰も使用していない。空のベッドの上には、きちんと畳まれたシーツと毛布が置かれているだけである。

 その一つにHALはちょこんと腰掛けていた。

 窓際らしく、外のネオンの明かりをぼんやりと映したカーテンに、それらしいシルエットが浮かんでいる。

 朱明は黙ったまま、やや手探りで、その方へ動く。そして座っているHALの前に立つ。


「居たのか」

「ずっと居た訳じゃないよ」


 暗くて、表情が見えない。


「待ってたんだ」

「そんなことだろうと思ってた」


 朱明は差し向かいのベッドに腰を下ろす。髪をくくっているゴムを取ると、首をぐるりと回す。ぼきぼきと鳴る感触に、彼は確かに自分が疲れていたことに気付いた。


「でも俺は、今それでお前をあれこれ言う気力はねえんだ」

「ふーん……」


 朱明は畳まれていたシーツと毛布をぞんざいに広げる。要は寝られればいいのだ。別にベッドメーキングなどできていなくとも構わない。


「じゃ一緒に寝よ」


 さらりとHALは言う。


「何言ってんだ」

「別にからかってる訳じゃあないよ」

「信じられるかっていうの。それに俺は眠いんだ。ただ寝たいの。それ以上でもそれ以下でもねえんだ」

「別に俺だってそれ以上ともそれ以下とも言ってないよ。俺だってただ寝たいの。情報の整理が必要だからね」

「だからって何でそこで一緒に、ってのがつくんだよ」

「何かまずい訳? 今更」


 別にまずい訳ではないが。朱明は頭を抱える。その間にもHALはずるずると隣のベッドを横に引きずってくる。


「お前は俺と同じ部屋だと眠れないんじゃなかったっけ?」

「いつの話をしてるの」


 それは確かに昔の話だった。


「あの頃は確かにそうだったけどさ。お前起きてるとやかましいんだもの。別にそういう気はないんだろうし、お前なりに気はつかっているんだろうけど、ドアばたんばたん閉めるし、ものは落とすし」

「あー、確かにそうだったよな」

「でももうドアは閉じてるし、落とすようなものもないよ」

「電気も消えているし?」

「そう」

「お前が点けないんだろう?」

「俺以外に誰がそんなことするっていうの? ほらどいて、はさむよ」


 よいしょ、とHALは引っ張ったベッドを隣と勢いよくくっつける。

 朱明は慌てて自分の側のベッドに飛び乗る。

 何を考えてるんだ、と彼の闇に隠された顔は、苦虫を噛み潰したようなものになっている。

 居場所なら最近はわりあい掴めるが、HALが何を考えているのかは朱明にはさっぱり判らなかった。

 今更、と彼が言うように、そういう関係が全く無いという訳ではない。だがだからといって、それが本気であるかどうかなど、さっぱり判らないのだ。

 「外」に居た頃だったら。朱明は思う。まだ彼の行動は判りやすかった。

 HALには別に思う相手があるのは知っていたし、そのためか、自分がどう思おうと、それが実際の行動につながることはなかった。


 だけどあの時から。


 HALが厳密には彼自身でなくなった時から、彼の行動は読めなくなった。


 九年前。

 失われたと思った彼が再び朱明の前に、言葉を交わし触れ合える相手として現れた時、それまで抑えていた感情が切れた。間違えた、と朱明はその時思った。そうしてはいけなかったのだ、と思った。

 だがHALは拒まなかった。彼はそうしようと思えばできた筈なのだ。朱明の動きを止めることなど、その時の彼に雑作もないことだった。この部屋の電気を点けないように、「SK」の電気を止めたように。


 それなのに。


 考え事をしているうちに、横にもぞもぞと入られてしまった。

 参ったな、と彼は思うが、確かにHAL自身も「睡眠」を求めていたらしく、気がついた時には軽い寝息を立てていた。

 暑苦しい、といつも言われる自分より、1℃近く低く設定された彼の体温が感じられる。

 仕方がない、と朱明もまた毛布をかぶった。

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