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30.乾いた声が告げる

「ずいぶんと難しい顔してるね。若者にはなかなかいろいろあるようで」

「またあんたか。ころころよく髪型が変わるね」


 奇妙なことに、髪が伸びている。ゆらゆらとしたウェーヴがつき、後ろで無造作に止めている。


「偶然っていいね」


 にっこり笑って、彼はコーヒーだけを乗せたトレイをテーブルの上に置く。


「別にあんたがそう言いたいならいいさ。だけど今俺は切り返す気力がないの。で、あんたこそあのお目付け役はいいの? 今日もまいてるの?」

「いい訳じゃないけど。まあもう一人の俺と寝てるだろうからそう簡単には来ないと思うけど?」


 何か一瞬妙なことを聞いた気がした。


「好きってそういう意味?」

「まあね。でも今日はただ寝ているだけだと思うよ。奴も疲れてるからね」

「HALさんは疲れてない?」

「俺は疲れないの。疲れたくとも疲れないの」

「?」

「別にいいけどね」


 軽く目を伏せて彼はコーヒーを口にした。

 その仕草を見ていると、どうしても彼女のことを思い出さずにはいられない。最初から彼と朱夏には既視感があった。

 単純に似ているかどうか、と言われたらこれは困る。何はともあれ、男と女のパーツの違いはあるのだ。

 だが、全体の雰囲気であったり、背の高さ、肩から下へ降りていくライン、彫りの深い顔立ち、ちょっとした仕草、そういうものが妙に似ているのだ。

 朝の陽の光が穏やかにウィンドウから入り込む。ゆらゆらとした彼の髪に降り注ぐ。ややまぶしげに目を伏せる。


「そう言えば」


 聞きたいことがあったのだ。切り出すと彼は何、と首を傾げる。


「BB、好きなの?」

「ん? どうして?」

「いや、俺にくれたでしょ? CD。好きなのかな、と思って」

「うんまあ、好きだよ」


 それだけ言ってまたコーヒーを口にする。とりつくシマもない、と安岐はやや唇をとがらせる。だがそれで彼はめげない。何と言っても、話を続けるには努力というものが要るのだ。


「あれって結構前に出たCDだよね。後で調べたんだ」

「おや熱心じゃないの。どうだった?」

「いや、ちょっと寒気が」 

「寒気?」


 何それ、と彼は苦笑する。

 当初は苦笑だけに治めたかったらしい。だが結局苦笑にはおさまらず、彼はぷっと吹き出した。

 安全な所にコーヒーを避難させ、おもむろに声を上げて笑いだす。

 そんなウケることだっただろうか、と安岐は自分が言い出したことなのにきょとんとする。


「そんなおかしいですかねえ?」

「い…… いや、別に……」

「別にって言うような感じじゃないよ」

「ああごめん…… だけど妙におかしくて」


 だけど涙が出るほど笑わなくとも。


「そんな、変だった訳? 結構人気あったんだけどな、あの頃からあいつらは」

「そうなの? だって俺は、まともに聴いたの初めてだったからさ」

「へー珍しい。ヒットチャートにはよく入ってるじゃない」

「そりゃそうだけどさ、ヒットチャートに入ったからって全部が全部耳を傾けるという訳じゃないだろ?」

「まあそうだね。でも何が安岐に寒気を起こさせたの?」


 あれ、とふと彼は思う。俺自分の名言ったっけ?


「何か、ねとねとして…… 背中から絡みつかれるみたいで…… でも周りの音は綺麗だから、何って言うんだろう? 美しい納豆……?」


 一度出た笑いはなかなか止まらないらしい。仕方ない、と安岐はしばらくHALのその笑いが止まるまで待つことにした。紅茶が空っぽになったので、もう一杯買いに行く。

 戻ってくると、ようやく笑いが止まる所だった。 


「ま、確かにそうだろうな」


 笑いやむと、彼は妙に嬉しそうになった。


「変わった声ってのは事実だし、結構好き嫌いあるよね」

「うん。でもさあ、珍しい声だな、と思った。結構武器になるって思うし」

「うん。珍しい声だった。今でもきっと珍しい声だろうな」


 しみじみとHALは言う。その様子がずいぶん懐かしげなのが安岐は気になった。

 考えてみれば、おかしいのだ。「黒の公安長官の友達」にしては見かけが若すぎる。自分と大して変わらないようにも見える。本人は安岐より上だ、と言っている。

 だがぱっと見の性別が判らなかったという前科があるから、見た目で判断はできない。

 買ったCDは十年前のものだったのだ。ふと安岐は思いつく。


「そう言えば、こないだ」

「ん?」

「何かよく判らなかったんだけど、どうも気になるんだけど、あんたが言ったバンドの名」

「ああ、別にあれは大したものじゃないから」


 HALは再びコーヒーに口をつける。


「だけど、聞かされてそれで判らないって変じゃない。もう一度言ってくれない? 俺必死で聞き取るから」

「だから、言っても判らないよ」

「え?」


 いい? とつぶやいて彼は口を動かす。

 ある単語を発音する。

 言っていない訳ではない。

 彼の喉は動いている。

 空気が震えている。

 耳にもその音が届いているのが判る。


 同じだった。


 音は発せられている。耳に届いている。頭にも、きっと。

 なのに、それは意味をなさない。


「ね」


 形の良い唇が、そう締めくくる。

 ね、じゃねーよ、と安岐は思わず悪態をつきそうになる。

 だがHALは、その安岐の勢いには構わない。


「ねえ安岐、俺はあの声、好きだったよ」

「え?」

「BB。FEWの声。あの無茶苦茶ウェットな声。滅多にいない声。絶対に俺には出せない声。何かね、俺は、すごく好きだった。安岐は、絡み付くみたいで嫌と言ったけど、俺はその絡み付くような感触がすごく好きだったな」


 さりげなく混じる単語に神経がとがる。記憶をたどる。俺は自分の名は言ってないはずだ。

 HALはうっとりと目を閉じる。

 どうやらその絡み付く声を思い出しているようだった。安岐はほんの少し意地悪な気分になって、探りを入れてみる。それで簡単に探られるほど簡単な奴ではないことは判ってきていたが。


「変わった名だよね。FEWって」

「そ。aをつけると『少しはある』とかいう意味もなのに、つけないから『ほとんど無い』って意味。どうして否定型の方にするの? と俺が聞いたら、『今、何もないなら、これからどれだけでも増やせる』って」

「……」

「守るものが少しでもあると、守る方ばかりにアタマが行ってしまって嫌だっていつも奴は言ってた。いつだって攻撃に回る奴だったから……」


 それではまるで思い出話ではないか。安岐はすらすらと彼の口から流れる話に驚く。ひどくそれが楽しそうなことも。

 誰か人づてに聞いた話、とか、人気アーティストの雑誌インタビューを読んで、とか、そういう口ぶりではない。これは知り合いのものだ。


「冬と春は隣り合わせ、か」

「季節?」

「ああ、そう言えば安岐も季節だよね。朱夏も夏のことだ。結構間抜けだよね、ああ言う言葉って。朱夏は綺麗だけど、対になる言葉たちって、青春だの白秋だのだから、青春じゃ笑うし、白秋だと詩人になるもんな」


 そういうことを言っているのではない。


「あのさ、BBのヴォーカルの名は冬なんだ」

「冬?」

「布・由って書くから。その音からバンドネームつけて。で早く春が来ないかとか言ってあの頃は周りにからかわれて」


 話が見えない。いや、話を見えなくしている。だが全くその話をしたくない訳ではないらしい。その気がなければそんな話はしない。

 明らかに彼は、何か謎をかけているのだ。


「さて」


 そろそろ行かなくてね、と彼はトレイを持って立ち上がりかける。慌てて安岐はその手を掴んだ。


「引き留めるのが好きだね、安岐くん」

「どうして俺の名を知ってるの、HALさん」

「俺は何でも知ってるよ。たとえば君の『会社』のしていることとか、君の可愛い可愛い彼女とか」

「どうして?」


 HALは目を見開く。見上げる安岐と視線が絡む。


 ぞくり。


 見下ろす視線は強烈なものだった。


「HALさん…… あんたは誰なんだ」

「さあ誰でしょう」

「はぐらかすなよ」


 そうだ。はぐらかされてる。最初から。


「言ったって信じないよ」

「信じるよ」

「何でも?」

「何でも!」


 口の端がくっ、と上がる。そしてその唇から、言葉が漏れる。

 辺りの音が消える。全ての音が、耳に入る寸前に、切り離される。


 何だ?


「俺はこの都市だよ」


 耳をくすぐる、甘くて低い声。ただそれだけが、その瞬間、安岐の耳にすべり込んできた。


 え?


 思いがけない言葉に安岐の手の力が一瞬緩んだ。すっ、とそのすきをつくように、彼の手は力を無くした安岐の手からすりぬけていく。

 言葉を乗せた音が耳に残る。あのBBのFEWとは対極にあるような、乾いた音。


 俺は・この・都市・だよ。 


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