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41.夏南子にとっての皆

 けたたましく電話のベルが鳴った。


「もしもし?」

『夏南子! そっちに朱夏来てないか?』

「朱夏ちゃん? 来てないわよ?あたし今仕事から帰ってきたばかっかなんだから…… 何、いないの?」


 いないんだ、と電話の向こうの友人とも愛人と知れない男はわめいた。


「何あんたしっかりしなさいよ!いない、ってあんた、もしかしたらほら例の、安岐くんのところに居るかもしれないじゃないの」

『いや、そっちにはもうかけたんだ。ところがそっちにもいない』

「じゃあ一緒に出かけているのかもしれないでしょ? 嫉妬に狂うおにーさんってのは見苦しいわよ、東風」

『そういうことじゃないんだ』


 夏南子は受話器を反対側に持ち返る。どうやらいつもとは違うらしい。


「……とにかく行くわ! 動くんじゃないわよ!」


 はあ、と夏南子はため息をつく。そしてせっかく脱いだばかりの靴をもう一度履き直す。

 つきあいの長い彼女は、東風という男は、ダメージを受けると、考えが悪い方へぐるぐると堂々めぐりをすることがあることを知っている。

 そういう性格だから、自分のような、ものごとに根を残さない女が好きなんだろう、とは思う。

 もちろん夏南子とて落ち込むことが皆無という訳ではないのだ。

 彼女にしたって、「外」の、隣の県に家族が居る。彼女が今でも使っているベッドカバーは、キルトが趣味の母親のお手製だし、都市が閉じた直後あたりに兄の結婚式があった筈である。

 だからそういった、無くしたもののために泣いたこともなくはないのだ。


 だけどねえ。


 普通だったら頼りにしてもいい筈の、男友達も恋人も、実に情けなかったのだ。

 もちろん何かしようという意志もなくはないのだし、背中を押してやれば人並み以上に働くことができる奴らなのだが、一度座り込むと立ち上がるのが遅い。

 それは東風にしてもそうだったし、壱岐もそうだった。違うのは、安岐の兄くらいのものだった。彼は夏南子と同じで、人が落ち込んでしまうと、自分が落ち込むことができなくなる体質だったのだ。


 だったらあたしが動くしかないじゃない。


 虚勢ではない。体質なのだ。頼られれば力が湧く。頼ってくれる人は欲しいのだ。それがエネルギーになる。


「そうでなかったらあの馬鹿と十年もつきあってはこないわよ」


 あの馬鹿、と夏南子は東風を称する。都市屈指のレプリカ・チューナーも形無しである。実際彼女にとっては、ずっと変わらない。あの馬鹿はあの馬鹿、なのだ。そして彼はその馬鹿であるからこそ、彼女にとっては可愛くて愛しいのだ。そのへんをあの馬鹿は判っているのやら。

 ばたん、とドアを閉めて、飛び出して、地下鉄に飛び乗って、二十分後には夏南子は東風の部屋のチャイムを押していた。


「何が何してどうなったのよ。はじめからちゃんと言いなさい」


 ああやっぱり、と開けた扉の向こう側を見て、彼女は嘆息する。全体的に重苦しい空気が漂っていた。


「今朝がたのことだよ。また例の如く、朝早く帰ってきたんだ」

「安岐くんの所から?」

「ああ。だけど妙にほこりまみれで。ほこりと言うより砂、かな?何処行ってたの、と訊ねたら、『お城』と答えた」

「お城…… M城公園かしら」

「砂利がたくさんで靴に入って仕方なかった、と言うからそうだろう」

「何でそんなところ行ったの? あそこは夜間立入禁止区域じゃなかった?」

「朱夏はあちら側には行ったことがないからな…… 『SK』止まりだったから」


 箱入りもいいところだわ、と夏南子は呆れる。もう少し連れ出しておけばよかった、と。


「妙なことを言っていたんだ」

「妙? 何?」

「『SK』でM線に乗ったら、お城の地下に連れ込まれた、とか」


 何よそれ、と夏南子は眉を寄せる。


「お城の地下、なんて、十年前から閉鎖したはずよ。あそこもまた空間がどーのって公安が言って……」

「うん。だから何か変だなとは思ったんだけど。で次に言ったのが、『都市を元に戻すために私は外へ行かなくてはならない』」

「はい?」


 さすがに夏南子も耳を疑った。


「何それ?」

「真顔で言うんだ」

「ちょっと待ってよ…… ちょっと東風、じゃ、もしかして、朱夏ちゃんがいない、っていうのは」

「そう」


 東風は窓の外を眺める。


「今夜は満月なんだ」

「駄目よ!」


 即座に夏南子は叫んでいた。


「あんた知ってるじゃない! そうやって出ようとしたあたし達に黒の公安は何をしたの? あのひとが川に沈んだのは何で? あたし達それ見て、この都市に留まろうって決めたんじゃないの!」

「そうだ」


 東風は目を伏せる。唇を噛みしめる。


「だけど朱夏は出たがってる」

「駄目よ! 殺されに行くようなものじゃない! あんたが何考えてるか判らないけどね、あたしは妹が殺されそうになるのをはいそうですかと見過ごす訳にはいかないのよ!」

「だけど朱夏は自分の『音』を消したがってる」

「何か言ってたわね、朱夏ちゃんの頭の中で消えない音? でもそれがどーしたのよ! 殺されたらおしまいじゃないの! それで探しに行きあぐねてるのあんた?」


 彼はうなづく。その顔が元にもどるか戻らないか、というところで、彼は頬にひどい衝撃を感じた。


「おい何すんだ夏南子!」

「あんたみたいな馬鹿には言ってもわかんないのよ!」

「俺が馬鹿だってえ?」

「そんなこともわかんないから馬鹿だって言うの! あんたが何ぐだぐだ考えてるか知らないけどね、そんな理屈こねてる間に朱夏が黒の公安に川に叩き込まれるようなことがあったら、一生絶交よっ!」


 彼は目を大きく瞬かせて夏南子を見る。ああそうか。そういうことではないのだ。


「安岐くんのところは? 一緒にいるんでしょたぶん」

「さっきかけてみたが、いなかった」

「どうして? ああ今日は『仕事』してる可能性も多いわね。じゃあ『仕事』先へ連絡つけましょ。すぐ出して!」

「何を」

「あんたねえ、せっかく十年前に命からがら逃げ出した子まで危険にさらしたいの? 壱岐の居場所くらい知ってるんでしょ!」


 そう言うと、つかつかと作業机の上のパソコンの電源を入れる。


「ほら座って!」


 言われるままに東風は座る。


「あたしはあいにくあんたのは動かせないんだからね。あんたが動かさなくちゃ、朱夏ちゃん助けられないんだからねっ!」


 それは、壱岐と連絡を取れ、と言っているのに等しかった。

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