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49.霧に消え、外へ走る

 何かあったのかしら、と夏南子は言った。

 「橋」に近い土手の上に彼らはたどりついていた。紺色の軽から降りて、「橋」の方を見おろすと、何やら騒がしい。


「ちょっとそこから双眼鏡出してくれ」


 壱岐が言った。この車は彼のものだったのだ。

 気が動転している彼には運転は任せられず、東風が運転していたのだが、他人の車というものは使い慣れないこときわまりない。


「お前変なもの入れてるなあ……」

「うるさいよ」


 共通の敵、とか共通の危機、というものは便利だ、と東風は思う。

 つい数時間前まで、自分が壱岐とこんな軽口を叩けるとは思ってもいなかった。


「赤外線はついてねえのか?」

「そんな高級品はない!」


 まあいいや、とつぶやきながら東風は双眼鏡を目に当てる。確かに騒ぎは起きているようだった。


「朱夏ちゃんはいるの? 東風」

「……ちょっと待ってくれ…… お前の方が安岐は判るよな」

「ああ。何かあったのか?」

「いや、若い男が『橋』の上でにらみ合ってる。まさかとは思うが……」


 貸してみろ、と壱岐は東風の手から双眼鏡をひったくる。あの馬鹿、と壱岐の口から途端に声が上がった。


「そうなのか?」

「何やってんだ二人とも!」

「壱岐、近くに女の子はいない?」

「ちょっと待って……」


 壱岐は少しばかり確度を変える。女の子女の子……


「黒の公安長官の横に居るが」

「ちょっと貸して!」


 今度は夏南子が双眼鏡をひったくる。黒の公安長官の横……彼女は制服組を目で追う。あ、と夏南子の口から声がもれる。


「壱岐…… どっちが安岐くん?」

「銃を持ってない方だ。……どうして津島の奴、銃なんか持ってるんだ……」

「心当たりはないのか?」


 東風は訊ねる。


「無い」


 壱岐は断言する。


「いくらウチが多少ヤミ取引しているとしても、そういうモノは無い。そういう体質の集団じゃあないんだ」

「何だっていいわよ」


 夏南子は車のドアを開けると、双眼鏡を放り込んだ。そして高らかに宣言する。


「行くわよ」


 彼女は靴を脱ぎ捨てると、勢いよくその高いかかとをアスファルトにぶつけた。かこん、と音がしてヒールは根本から折れた。さすがに情けない男達も、その様子を見て、うなづきあう。



「行けばいいじゃん」


 半ば閉じた目で津島は自分に歩み寄ってくる安岐を見た。光の加減か、もとから色の白い顔が、余計に白く見える。


「さっさと、そこの彼女と行ってしまえばいいんだ」

「津島……」


 ゆっくり、安岐は友人に近付いていく。だがその動きが直後、止まる。銃を持った手は、自分の方を向いていた。

 急に目をむいて津島は叫ぶ。


「近寄るなよ!」

「近寄るなって言われてもなあ……」


 奇妙に冷静になる自分に安岐は気付いていた。

 考えてみれば、不思議だったのだ。

 津島は煙草すら喫わない。その彼が、どうしてダスルを口にしたのだろう?

 ショックだったから?

 そうとも取れなくはない。自分のせいと考えるのはおこがましいのかもしれないが、この動揺の仕方では、自分に責任の一端が無いとは言えなさそうだ。

 とはいえ。


「とにかく目を覚ませよ」

「うるさぁい!」

「津島!」


 ぴったりと、彼の銃口は、自分の胸に向けられていることに安岐は気付く。何故銃を扱えるのだろう?

 ちょっとした疑問が湧く。いくら非合法な取引はしても、銃など扱ったことはないのに。 


 ……どちらにしても後はないな。


 目の前の友人が、ほんのちょっと力を指に加えれば、この手のひらに収まってしまうくらいの小さな銃は、自分の命を奪うことができるのだ。

 本当に分の悪い賭だ、と安岐は思う。いずれにせよ友人は捕まるだろう。

 ちらり、と安岐は「川」の方を見る。HALの言葉を思い出す。


 「川」に落ちた人は死んではいない。


 ちらり、と安岐は朱夏の方を見る。そしてその後ろに居る黒の公安長官を。


 いちかばちかだ。


 せいの、とまだ「外」の小学校へ通っていた頃のかけ声が頭の中に響き渡った。安岐はしゃん、と顔を上げて、津島の目を見る。真っ直ぐすぎるそれに、津島は一瞬目をそらした。

 その時だった。


 ホップ、ステップ……


 安岐は三十メートルくらい前に居た津島の足めがけて、スライディングした。

 うわ、と声が漏れる。少しでも、当たれば良かった。それでバランスは崩れる。

 案の定、津島はバランスを崩した。

 つんのめって安岐の上にのしかかってくる。避けるだけの余裕はなかった。倒れかかる勢いに、安岐は地面に背中を思いきりぶつけ、一瞬息ができなくなる。

 だが運良く銃は手を離れていた。


「あ」


 立てた声に気付き、取ろうと伸ばされた津島の左手を安岐は押さえた。そして思いきり手を伸ばして、銃を向こうへとなぎ払った。

 くるくるくる、と回りながら銃は「橋」の都市側の端部にとすべって行った。それをよし、とつぶやいて朱明はその銃を手にし、―――やはりやや苦い顔になった。

 周囲の状況がやや変わったのに気付いたのか気付かないのか、津島は安岐に殴りかかってきた。

 のしかかったまま、彼はこぶしを握りしめ、友人の顔を幾度となく殴る。もちろん安岐もやられっぱなしではない。何度めかの拳が飛んできた時、それを右手で受けとめた。

 ここまでとっくみ合いのケンカをしたのは、中学以来だった。

 だが中坊の頃より、ずっと殴る力は増している。それだけの時間が自分達には経っているのだ。


 だけど。


 安岐は思う。今の奴は、まるで中坊の頃みたいじゃないか?

 拳を力いっぱい押し戻しながら、安岐は相手の顔を思いきりにらみつける。だが今度は津島もそれにひるみはしなかった。


「戻りたいのか?」

「何に!」

「中坊の頃だよ! 俺とお前が会った……」


 力が緩む。その隙をついて、安岐は相手の顔面に殴り付け、身体を起こした。バランスを崩した津島はそのまま腰砕けになって地面に座り込む。


「卑怯じゃねーかよ! 安岐!」

「誰のせいだと思ってるんだ!」

「お前が一番悪いんだ! お前が勝手に出ていこうとするから……」


 二人は再び立ち上がる。砂だらけの服に、安岐はぱんぱんと大きな音を立てて払いたい衝動にかられる。だがどうやら相手はそんなこと待ってはくれないらしい。

 あの「会社」のビルの時のようにつかみ合いとなる。だが今度は壁はない。あるのは、「橋」の欄干だけだ。

 淡い暖色の、冷たい石の欄干に安岐は押し付けられる。手にはざらざらした石の表面が当たる。冷たい。ひどく冷たい。どうして津島がこんな力を出せるのか、彼には判らない。


 その時。


「誰だ!」


 彼は朱夏が何かを叫んでいるのに気がついた。


 誰だ?


「そこで命令している奴!」


 命令? ちら、と安岐は彼女の方を横目で見る。朱夏は空を見ていた。


「やめろ! 安岐の友達に、そんな命令をするな!」


 そして朱夏は後ろで彼女を掴んでいる黒の公安の一人の手を振り払った。走り出す。


「やめろ朱夏来るな!」

「……お前が……」


 力が緩む。津島の顔が動く。対象が変わる。

 津島は朱夏めがけて飛びかかる。反対側の欄干に背を向けた形になっていた朱夏に……


 それは駄目だ。


「やめろ津島!」


 左の肩に、ひどい衝撃。

 安岐の身体が、宙に浮いた。


「今だ!」


 朱明は部下に号令をかけた。待機していた黒の公安が、一斉に津島めがけて飛びかかる。

 津島は自分が何をしたのか、判っていないようだった。ただふらふらと首を振る。そして何故か耳を塞ごうとしている。本気で突き飛ばそうとしていた朱夏のことすら見えていないようだった。


「朱夏」


 公安長官の声に、朱夏は振り向いた。


「……安岐が……」

「行くんだ」


 部下が「橋」の上に入り乱れる。朱明はその中で呆然としている朱夏の肩に手を置く。


「……」

「行くんだ。お前が行くのが、安岐の望みなんだろう?」

「安岐の……」

「そうだ」


 ふらふら、と彼女は「橋」を眺める。既に安岐の姿は白い霧の中に沈んでしまっていた。


「そうだ、私は行かなくては……」


 つぶやく朱夏の声に気付いているのかいないのか、朱明は朱明で、手の中の銃を苦々しげに見る。


「私が行って、……奴を呼んで…… そうすれば『川』が元に戻って…… 安岐も帰ってくる!」

 朱夏は自分に言い聞かせるように、それだけ言うと、朱明が居ることすら気にしないように、駆け出そうとした。


「ちょっと待て」


 彼は朱夏の肩をぐい、と掴むと、自分の上着と帽子を彼女に掛けた。着て行け、と彼は低い声で言った。

 朱夏はほんの瞬きくらいの間、考えていたようだったが、すぐにその大きすぎるくらいの黒の上着と帽子をつけると、走り出した。

 あまり明るくない景色と、騒ぎにまぎれて、彼女の姿は「外」側にやがて見えなくなった。

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