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86.十年前の七月二十三日④

 のぞきこむ彼に、布由は言葉を投げる。え、とHALは目を丸くする。何の含みもない、ただ驚いているだけの表情。

 それがかえっておかしいんだよ。

 そう思ってしまう自分が悲しいが、彼ならそういう表情を自分に見せる訳がないのだ。

 布由は気付いていた。HALが自分に向ける感情の複雑さを。複雑ゆえに、絶対に自分に、あからさまな表情を向けることがないことを。顔は笑っている。だけど決して目が笑っていない。怒っているように見える。だけど目は笑っている。

 ところが目の前にいる彼にはそれが無い。

 ただ単に笑い、ただ単に怒る。

 電話はともかく、最後に会ったのはほんの十日前だ。そんな短い期間……もしくは、昨夜でもいい。昨夜の会話を「無かったことにしたい」なら判る。それならHALらしい。あれは実にHALらしくない言葉だった。

 だけど、どうやら本当に「知らない」らしいというのは。

 そしてこの言葉。イントネーション。語尾の変化。


 これはこの都市のものだ。


 HALを含め、このバンドは途中参加した朱明以外、皆、西の地方の人間だった。西のイントネーションは、東の首都や、中部のこの地方のものとは全く違う。

 中央の者を装うならまだよかったかもしれない。だけど、西の人間の言葉の変化は、そう簡単に変えられるはずがない。


「お前は誰だ」


 布由は繰り返す。何言ってるんだよFEW、そう彼は繰り返す。


「HALは…… 俺のバンド名なんか、呼びゃしないんだよ」


 はっ、とHALの目が険しくなる。


「お前は誰だ?」


 三度、繰り返す。正直言って、布由は背筋に得体の知れない悪寒が走るのを覚えていた。大気の流れがおかしい、と思った。


「勘のいい子だね」


 腰に両手を当てて、HALの姿をしたものは、くくく、と声を立てる。そしてにっと笑う。

 ぞくり、と布由は全身が総毛立ったのを感じた。

 ひどくそれは魅力的だった。今までこの顔その声の持ち主には見たことのない類のものだった。

 動けない。目が離せない。


「私はお前が最初にこの街に現れた時から、ずっと守ってきたというのに」


 力などさほど無いように見えるHALの手が、椅子に掛けた布由の肩を押さえつける。


「その私から逃げようとしたって、無駄なんだよ」

「逃げる?」


 覚えがない。一体何から自分は逃げたというのだ。


「俺が…… 一体」

「この街がいちばんお前の声をよく通す。当然だろう? 私にとって一番心地よい声だからね?」


 露骨なまでの、この地のイントネーションの言葉がHALの声で耳に飛び込んでくる。


「何で…… 俺の……」

「私は何でも知ってる。この地にお前が入ってきて、第一声を発した時から。その時から私はお前が、お前の声が欲しいと思っていた。この街に必要だ。この街の大気の安定に一番合っている」


 HALの手が、指先が布由の喉を撫でる。よく知っているはずの手なのに、悪寒が走る。


「HALは……」

「この身体の持ち主? まだ眠っているよ、私の中で。ずっとこの身体を狙っていたんだ。お前に生身で近付くために。別にこの身体の持ち主には悪気はない。いやあったかな。この身体の持ち主は、お前を抱きしめることもできる」


 確かにそれは可能だが。


「だが私は人の身体を通さないと、お前に言葉一つ投げかけられない」

「何だ…… 霊か何か……」

「違うよ」


 きっぱりと低音が響く。


「私はこの都市だよ」


 何を、どうしようとしているのか、全く布由には想像ができなかった。思考が空回りしているのが判る。


「俺を…… どうしようと」

「別に身体をよこせなんてことは言わないさ。ただこの地に留まって欲しいと願うだけさ。決して中央にも西にも行かず、ずっと、じっとして、この街で歌い続けてほしいというだけ。私のためにね」


 ひどく単純な…… ほとんどそれは求愛に近い、と布由は頭の隅で思っていた。

 考えがまとまらなかった。ただ流れていく。何をすればいいのか、どうこのHALの皮を着た「都市」に言えばいいのか。

 HALはどうなるのか。


「HAL!」


 はっ、と布由は耳を澄ます。HALよりも更に一回り低い声。どんどん、と戸を乱暴に叩く音。


「おーい入るぞ」


 ぱっ、とHALの顔をした「都市」は顔を上げた。

 そして次の瞬間、表情が動いた。細い腕が、勢いよく布由を椅子ごと突き飛ばした。


「朱明! ドアを開けて!」


 叫ぶ声。


「え?」


 朱明は反射的に大きくドアを開けた。と、いきなり彼にぶつかってきたものがあった。


「な……」


 目の前には、転がっている布由がいた。HALは自分自身を抱え込むように腕を前で交差させると、大きく息をついている。


「布由逃げて! 朱明! 布由を外へ出してやって! 早く!……」

「HAL……?」

「早く! 間に合わない!」


 朱明は何のことやら訳が判らなかったが、とにかく優秀なドラマーは反射的に、言われるままに身体を動かした。半ば動けない布由をずるずると引きずり出してドアを閉めた。


「……おい布由…… 何があったんだ……」

「……」


 驚いた朱明に問われて、布由は口を動かす。その時布由はぎくりとする。喉に手をやる。声が届かない。

 「都市」がHALにしてきたことはこれなのか?


「……おい布由? 話せなくなったのか?!」


 朱明の大きな目がぎょろりと開かれる。布由は頭が混乱していた。

 だけどHALの言葉…… あれは絶対にHALだ。HAL本人だ…… 言った言葉が頭をぐるぐると回る。


 布由逃げて!


 そうだ、俺は逃げなくちゃ……


「……おい布由!」


 朱明が止める言葉も耳には入らなかった。バランスを崩しながら、時には壁にふらふらとふつかりながらも、布由は来た道をまっすぐ引き返す。

 バックステージパスを返すことも忘れて、彼は駐車場に走った。車に飛び乗った。震える手でキーを差し込む。エンジンを掛ける。こういう時身体が覚えているというのはうれしい。ギアチェンジする。

 走り出す。

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