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89.彼にとってのスタートボタン

 そうだ、と安岐は思う。

 それが、この一連の出来事の中の、自分の役割なのだ、と。自分は彼にとってのスタートスイッチなのだ。

 自分よりずっと長く生きてるらしいこの人は、自分の目の前で、じっとひざを抱え込んで、何かを見ようとしている。


「布由を呼ぶんじゃないの?」

「呼ぶよ」


 HALは真っ直ぐ前を見据えた。


「それともあんたは呼びたくなかった?」

「……うん、呼びたくない。はっきり言えば、呼びたくない。俺はこのままで居たいと思う。俺は楽しかった。だけど……」


 安岐はうなづく。


「あそこに彼がいるんだ」


 静止している、布由の映像をHALは指さす。そして伸ばした指を、映像を見るために切り裂いた空間の縁に掛け、一気にそれを横に引いた。

 円形の空間は、一気に彼らが通れるくらいの大きさに広がった。


「俺が朱夏を送り込んだ最後の理由。これは誰にも言っていない。俺がレプリカを通して何かとやってきたのは知ってるよね」

「充分」


 安岐は苦笑する。


「レプリカのHLMは機械じゃない。だから俺はあれに取り付くことができた。とは言えもう、朱夏には取り付くことはできない。だけどアンテナ程度にはできる。……で、今この過去の時間を奴の夢につなげている。つまり、今あそこにいる彼は、今現在の奴の夢…… 奴自身なんだ」


 HALは目を伏せる。


「それであんたは、俺に背を押して欲しいんだ。あのつながった空間に」

「そう。俺は彼に言わなくてはならないんだ。無理は判っている。だけど来て欲しい、と…… それに俺は謝らなくてはならない」

「……」

「布由に悪いと思う。だってそうだ。結局は俺と『彼女』のエゴのぶつかり合いに布由を巻き込んでしまったようなものだ。それに、布由に協力してもらうということは、布由をこの空間に、『彼女』と一緒に閉じこめてしまうということなんだ」

「ちょっと待って、じゃあHALさん、あんたも……」

「それもいい、と思ったこともあったよ。それで……」


 安岐はちら、と横を見る。そして目を丸くする。

 ぽろぽろと、涙がこぼれていた。

 気付いているのか、いないのか、彼はそれに手も触れない。


「俺は、奴を、外に出してやりたいんだ。俺なんかどうなってもいいから、奴に、外で、幸せになってもらいたいんだ」


 ああそうか、と安岐は自分があの時口にしたことが間違っていないことを確信した。

 HALがそれが誰であるか、絶対に口にはしないだろうことも。

 安岐はそれが誰であるか、よく知っているような気がした。


「……HALさんあんた、本当に俺より長く生きてる? それでそんなに馬鹿?」


 ポケットをまさぐる。丸めたハンカチと一緒に彼らのソフトが一枚出てくる。サモンピンクの、シングルCD。両方をHALの手に乗せる。


「誰だって、一番好きなもののために、動くんだよ。それが当然なんだ。だからあんたは間違っていない。少なくとも、自分に嘘はついていないだろ?」


 ハンカチで目を押さえながらHALはうなづく。


「だったら全部を自分で背負い込むのはやめて」


 くるり、と安岐はHALの向きを変える。切り裂かれた空間の向こうには、ずっと会えなかった友人がいる。


「行ってきな」


 とん、と安岐はHALの背中を押した。



「久しぶり」


 目の前にいる相手が、誰なのか一瞬布由は迷った。どうしてここに。

 それまで周囲にあった風景が次第に溶けるように消えていく。自分の生まれ故郷の、相棒の実家の風景が。


「俺の顔も忘れちゃった?」

「忘れる訳…… ないだろう」

「ずいぶんふけたね」

「お前は何も変わらない」

「でも十年だ」

「そうだ、十年だ。確かにお前の姿は全く変わらないけれど、お前の雰囲気はずいぶん変わったよ。別人のようだ」

「そこまで言う?」


 HALは軽く笑いかける。


「俺はお前に会いたかった。けど会えなかった。俺は知ってた。この結末がどうなるか」

「結末、なんだな」

「そう。結末。終わるんだ。俺も、お前も」

「それで俺を呼べなかった?」


 彼はうなづく。


「お前まで終わりにしたくはなかったのもあるし、何よりも俺自身が、まだ終わりにしたくなかった。俺は楽しかった。この都市の中で、本当に楽しかった。時間に限りがあることは知っていたけど……」


 布由はうなづく。不思議に穏やかな気分になっていることに彼は気付いた。


「そんな気がしてた」


 呼びたくなかったのだろうと。だけど自分はここにいる。布由は気付く。彼が呼んだからだと。


「だけど、お前は俺を呼んだ。呼べたんだな」


 HALはうなづく。


「それでいいんだよ」

「俺は、奴を、外へ出したいと、思ってしまったんだ」

「そうだな」


 布由もまた、それが誰であるか気付いていた。それに、布由自身、人のことを言えない自分のことを思い出してしまった。


「どうしてこうも俺は自分勝手なんだろう?」

「誰だって自分勝手だよ」

「布由」 

「特に俺やお前は、そういう奴だから、歌っていられた。俺達はそういう意味で、同類だったろう?それで、俺もお前も間違えた」

「そお。俺は間違えた」


 同類、は所詮、自分の写し鏡に過ぎない。


「お前は自分に無い部分の多い同類である俺を好きだと錯覚してた。たぶん俺もその頃はそうだったんじゃないかと思う。だけど十年前だ」

「十年は長いもの」

「人間は変わる」

「それは仕方ないことだよね」

「そう、仕方ないことだ」


 変わらなくては、生きてこれなかった。

 布由は思う。

 あの時のことを、ずっと封印してきた自分。忘れなくては、日々過ぎていく全てのことをこなしていくことはできなかった。

 自分がどうであろうと、時間は過ぎ、まわりも動く。何人ものひとと出会い、何人かと時々暮らして、そして別れた。

 誰かと出会い、別れるたびに、どうしてだろうと布由は考えた。

 自分の何処かに欠けた部分がある、とは気付いていた。それが何処から来るものか、も無意識は知っていた。だがその無意識は、必ずこの言葉を用意した。

 でも、仕方ない。

 そしてそれを乱発した報いだろう、とも思う。


「朱夏をちゃんと止めておいてくれてありがとう、布由」

「どういたしまして。あれは、いい子だよな。お前のレプリカだなんて全く思えない」

「誉めているのか何なのか」


 そしてHALは布由の右手を引っ張り出す。何だよ、と布由は一瞬驚いた顔になるが、次の瞬間、手の平に乗せられたものを見て驚いた。


「朱夏に言って。安岐は大丈夫だって。これは奴の持っていた分だからって。そして必ず戻っておいでって。待ってる人もいるからって」


 サモンピンクのシングルCDと、ややよれたハンカチ。


「待ってるからって」

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