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102.本当の気持ち

 しばらく布由はその場に立ちすくんでいた。するとやがて辺りの姿がはっきりと見えてくる。どこにも光源はない。だがその空間――― 部屋に見えた――― は暗い光に満ちている。

 その真ん中に、ガラスのショウケースがあった。

 口説き落とせ、と安岐は言った。布由は視線を目的物へと移す。真っ直ぐ行けばいい、と言っていた。

 そうするしかないな、と布由も思った。

 歩き出す。彼はやがてその光の正体が判るような気がした。


 月の光だ。


 彼は確信する。

 やがて自分の手が見えてくる。腕の、服のラインが見えてくる。


 やっぱり俺はここに居るのか。


 闇の中に居ると、時々自分が本当にそこにいるのか、確信が持てなくなる。たとえ自分で自分の手を掴んだとしても、それが本当の出来事であるかどうかを確信が持てない。


 誰かが自分の頭に偽の情報を送り込んでいるのではないか?

 自分の手に触れている手にも、触れられている手にも、実は違うものが触れているのではないか?


 そんな考えを起こしてしまいそうになる。だがほんの少しでも光があれば、その考えは軽い笑いと共に霧散する。

 そして彼の歩みと比例して、対象物は大きくなってくる。近付いてくる。

 近付く。

 確かにそうだった。近付くまでは、中に入っているものは見えなかった。この暗い光では中のアウトライン程度しか判らない。

 だがそれが何だか、布由は自分は知っている、と思った。

 布由はゆっくりとその上に手をかざす。そうすればいいのだ、と彼は何故か思った。

 するとショウケースはするすると左右に開いた。

 思った通りだった。

 十年前の、あの時のままの姿が、目の前に横たわっていた。それは先刻自分に会った者とは似て否なるものだった。

 そして、その中身が何であるかも、彼は知っていた。

 彼はショウケースの前にひざをつく。そしてひじをケースの端にかける。


「目を覚ませよ」


 布由は自分を呼んだものに呼びかける。


「それとも俺は遅すぎたか? そんなはずはないだろう?」


 返事はない。

 それが何だったか、布由は夢の中のHALに聞いた気がする。ただし、その夢は、あいまいなもので、他の雑多な記憶に埋もれ易いものだったが。


―――「……都市?」

―――「そう。都市。あの都市なんだ」


 その答えはひどく抽象的なような気がした。


―――「でもずいぶんあの時は俺に即物的にぶち当たってきたような気がするが」


 HALはこう言っていた。


―――「……あれは俺というフィルターを通したからだよ」

―――「お前というフィルター?」

―――「お前がどう思っているか知らないけれど、俺は即物的な奴だから、『彼女』も俺のボキャブラリィを使ったに過ぎないんだ」

―――「ふーん……」


 「彼女」ね。確かにそうだった。確かにあの時の、あの気配は女性的なものだった。いくらHALの皮をかぶっていたとしても、あの中身は、女性の気配があった。

 HALは言った。もう一度この都市を戻すには、一度彼女を起こさなくてはならない、と。布由が起こせばその時本体を止めた時間が動き出す、と。

 音を出すのはそれからなんだ、と。


 どうしたものかな。


 口説き落とせ、と安岐は言った。自分の本当の気持ちを言え、と。嘘いつわりのない本当の気持ち。


 本当の気持ち、ね。


 布由は苦笑する。それが何だか、あの時のことを思い出す時点まで、ずっと気付かなかった。少なくとも頭は思い出してなかった。だけど身体は気付いていたのだ。


   *


「どうしてあんたは一人の人に決まらないんでしょうねえ」


 土岐は自分の結婚式の日、布由にそう言った。


「知るかよ」

「だってそうじゃないですか。俺、こないだのあの人とあんたは結婚すると思ってたんですよ」


 仲間うちだけのパーティ。何やらしみじみと自分達も歳をくってしまったんだな、と挨拶回りを終えた土岐が相棒のもとへ避難してきたところだった。


「仕方ないじゃないか。あいつの方が出ていったんだ」

「残念ですね。あんたの方がよっぽど年上なのに」

「歳とは関係ないさ」


 だが、何でだろうね、と布由はそう言うしかなかった。

 判らないのだ。何故そうなのか。自分と気が合う女性は居た。自分を心から愛してくれる女性も居た。その中には自分も、心から愛していると思ったひとも居た。

 だが。

 必ず、その関係には終わりがあったのだ。


「『あなたは最初から別れることを知っていたのよ』か」

「何ですかそりゃ」

「あいつがさ、出てく少し前に俺に言ったこと」

「ドラマじゃあるまいし。格好つけすぎですよ」


 そうかもな、と布由は笑った。そして近くにあった冷たいシャンパンに口をつけた。


「でも、確かにそうかもしれませんね」 

「何が?」

「彼女の言ったそれ」

「何、そう見える? 俺は」

「何となく。俺、彼女とあんたがいいお爺さんお婆さんになった図って想像できませんもん」

「……俺だって、お前のじーさん姿は浮かばねえよ」


 軽口を返す。だが確かにそうだった。

 浮かばない。それどころか、自分が歳をとるということに実感は全くなかった。相棒のその図は、こうなってみると、意外によく判る。パートナーが居て、子供が居て、その子供が大きくなって……想像がつく。

 だが自分に関しては、その図が全く浮かばない。見事なまでにもその未来は自分には無かった。

 何故だろう、と思った。誰かと別れる度にそう思った。


 何がいけないのだろう?

 自分には何かが欠けているのではないか?

 欠けているのだろう……


 だがそうではなかった。


「いきなり飛び出してごめんなさい。だけど私はそうせずにはいられませんでした」


 別れた彼女から手紙が来る。


「はっきり言えば、今でもあなたのことは好きです。別に他の誰かに心変わりしたとかそういうことではないのです。だけど、あなたと居るのが私にはひどく辛いのです。

 あなたは決して優しい人ではないです。時には私にはひどいと思ってしまうことも度々ありました。確かにあなたは私に手を上げたことなどないですけど、けれどあなたは自分勝手でした。

 おそらく私に、そんなあなたを無理矢理にでも止める程の我侭さがあれば良かったのですね。そうすれば私とあなたはひどく対立しながらもきっと上手くやっていけたのでしょう」


 何て勝手な言いぐさだろう、とその頃の布由は思う。自分の勝手さは棚に上げて。


「それでも私があなたを好きだったのは、それでもあなたが私のことを振り回す程に好きで居るように見せてくれたからです」


 見せていた?


「あなたは私を好きな訳ではなかったと思います」


 そんな訳はない、と彼は思う。


「私はあなたの思うような女ではありません」


 そんなこと誰が判るって言うんだ?


「あなたはきっと私が変なことを言っていると思っていると思います」


 それはそうだ。


「でもそれは本当です。違うと思うなら勝手に思って下さい。そしてあなたがまだそれに気付いていないのなら、同じことを繰り返してください。あなたは、誰かを私に見ていました」


 ……え?


「それが何処の誰だ、とかそういうことを言うのではないです。ただ、あなたは私以外の誰かを見ていた。捜していた。そのはずです。少なくとも私にはそう感じました。でも私はそのあなたの『誰か』程には、あなたを独占しようとも縛り付けて動けなくしたいだの、そこまで思うことはできないのです」


 布由はそこまで読んで手紙を破り捨てた。

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