「……髪、伸びてきたな」
教室の廊下側の席で、パタパタとノートで自分を扇ぐ和都の、長くなった襟足を指先で梳きながら、春日がそう言った。
一学期の最終日、終業式の日。
全校集会とホームルームが終わって、特に用のない生徒は下校となる時間だが、教室にはまだなんとなく居残っている生徒がちらほらい。
「うんー、あっつい」
冷房は効いているものの熱がこもるのか、和都は大学ノートを団扇代わりにひたすら扇ぎ、顔や後頭部に風を送っていた。
和都の髪は、夏服である白い半袖シャツの襟にかかるまで襟足が伸びており、まとめれば軽く結んでしまえそうな長さになっている。
「気になるなら、切りに行きゃいーじゃん」
「そういや、相模ってどこで髪切ってんの?」
小坂と菅原は、至極真っ当なことを言っただけだ。しかし和都はすぐに返せず、どうしても言葉が詰まる。
「あー、えーっとね……」
口籠もりながら、和都はチラリと春日の方を見た。すると春日はそれに気付き、普段と変わらない無表情に近い顔で代わりに答える。
「俺が切ってる」
「……はは」
和都は少し困ったような顔で頭を掻いていた。
「え、春日が? なんで」
「ハサミ、怖くって……」
驚く菅原に、和都はどこか言いづらそうに眉を下げて答え、それからすぐ後ろにいた春日を振り仰ぐ。
「ユースケ、またお願いしていーい?」
「……先生のおかげで色々大丈夫になってきたんなら、もう大丈夫なんじゃないのか?」
和都の持つ、やたら他人やお化けを惹き寄せ執着させてしまう不思議なチカラは、養護教諭の仁科の協力で霊力が増えれば制御できるようになる、と元狛犬のお化け・ハクに言われていた。
確かに仁科のおかげでチカラが増え、これまでのように寄ってきた悪霊のせいで倒れる、ということはなくなったのだが、正直チカラが増えたからと言って『ハサミ』への恐怖が消えるわけではない。
「いやー、これはさすがにまだ無理だよ」
「……そうか。じゃあ、今日切ってしまおう。明日から前期の夏季講習始まるから、暇がない」
「あ、でも今日、午後から先生の手伝いが、ある……」
和都が申し訳なさそうに言うと、春日が分かりやすくイラついた顔をした。なんなら、小さい舌打ちも聞こえた気がする。
「じゃあ相模も昼飯持ってきてんの?」
「うん、保健室で食べようかなって」
「それなら一緒に食おうぜー。オレらも午後から練習だし」
菅原たちの言葉に頷くのを見て、春日がそれならば、と和都の頭に手を乗せて言った。
「じゃあ、決まりだな」
「……で、ここで切ることになった、と」
四人揃って保健室にやってきたのを見て、仁科はなるほどね、と頭を掻く。
「ここなら静かですし、色々道具とかもあるんで」
「まぁ、必要に応じて使うから道具はあるけども」
保健室の中央にある談話テーブルの椅子を、少し離れた位置に置いて和都を座らせると、春日は迷うことなく普段開けないような書類棚の下の引き戸を開け、散髪用のケープやヘアブラシ、そして銀色のヘアカットに使う細いハサミを取り出した。
一年生の時に保健委員だったとはいえ、こちらに聞かずとも道具の位置を覚えている春日に、仁科も少しばかり呆れてしまう。
「……てか、春日クンて髪の毛切れるの?」
「母親が美容室やってるんで、そこで教えてもらいました」
和都の首回りにタオルを巻き、水色の使い捨てケープを手慣れた様子で春日がつけて準備していく。
「へー、知らなかった」
「あ、そういやそうだっけ?」
「おれのかーちゃん、春日のかーちゃんとこ行ってる!」
菅原と小坂は談話テーブルにつき、一足先に持ってきていた昼食に手をつけながら、春日のヘアカットを見守っていた。
「しかし『ハサミが怖い』かぁ。先端恐怖症とか、ハサミ自体が怖いわけ?」
「いや、自分で使ったりする分には大丈夫なんだけど、他の人が持ってるの見ると、ちょっとダメで……」
和都が少し、自分でも呆れたような顔で菅原の問いに答える。
ハサミなんてよくある道具に過ぎないのに、誰かが持っているのを見ただけで、それが恐怖の対象になってしまうのだ。
ヘアブラシで和都の髪を整えると、春日は後頭部のほうの髪の毛を指で小さく取り、細かくカットしていく。銀色の刃の擦り合う音が、小さく規則正しく室内に響いて、短く切り離された髪の毛がパラパラと落ちていった。
「……あれって、中二だったっけ?」
「うん。中二の、夏くらい」
不意に口を開いた和都が何を言いたいのか、春日はすぐに気付いたが、表情を変えずに答えてハサミを動かし続ける。
ハサミが怖くなった、きっかけの話。
「同級生の女の子たちに『髪の毛がほしい』って、ハサミ持って追っかけ回されたことあってさ」
中学二年の、夏服に替わってすぐくらいのことだ。
通っていた中学校で、いわゆる『おまじないブーム』が起き、女子達を中心に、あっちこっちでオカルトじみた人形や、お守り作りが流行った時期がある。
その一つに『好きな人の髪の毛を手に入れて、持ち歩くと両想いになれる』という呪術めいたものがあった。当時、学校中の女子生徒から熱心なアプローチを受けていた和都は、両想いになりたいという大勢の女子生徒に『髪の毛』を要求され、最終的に追いかけ回される羽目になったのだ。
「なにそれ、こわ」
「あー、でもあったね『おまじないブーム』」
「相模なら走って振り切れそうなもんだけど」
「うん、いつもは逃げきってたんだけど、その時はどこに行ってもハサミ持ってる女の子の仲間が出てきて、集団で追い詰められちゃって」
行く先々でハサミを片手にニコニコと笑う女子生徒が現れるので、教室棟と職員棟を何度も往復しながら逃げ回ったものだ。傍から見れば、軽いホラー映画である。
「んで最終的に、女子の集団に囲まれて、髪とか顔とかあちこち切られちゃってさ。止めに入ってくれた先生も血塗れになって。……それからトラウマなんだよねぇ」
「それは、トラウマにもなるわ」
「未だに制服着た女子の集団見ると、ちょっと怖いし……」
女子生徒が複数人いるのを見かけただけで、ニコニコ笑いながら突然ハサミを取り出すのではないか、という恐怖が過ぎってしまうのだ。
ただでさえ女性が苦手だった和都にとっては、女性嫌いをより加速させた出来事の一つである。
「髪切るってなると、顔にハサミが近づくもんな。そりゃ怖いわ」
「なんか、知ってる男の人じゃないとダメみたいで……」
「じゃあ春日のかーちゃんもアウトってこと?」
「……うん」
「うちの美容室で髪の毛整えようかって一回来たんだけど、結局吐いてダメだったな」
事件の起きた翌日、あちこち切られてボサボサになった髪の毛を整えてもらおうと、狛山駅近くにある春日の母が経営する美容室に行ったのだが、春日の母がハサミを持っているのを見ただけで気持ち悪くなってしまい、とても切ってもらえる状況ではなかった。
「あれは本当、申し訳なかったなぁ……」
ハサミに怯える和都の様子を見かねた春日は、母親に基本的なやり方を教わり、その出来事以降、定期的に和都の家で伸びた髪を整えている。
「後ろ終わった。前も切るから目と口閉じてろ」
「はーい」
目を閉じた和都の前に立ち、春日が少しだけ屈んで銀色のハサミを動かしていく。
ハラハラと、黒くて短い髪の毛が水色のケープの上に散らばり、数本がするりと滑って床に小さな黒い染みのように広がった。
──なるほどねぇ。
生きていくには多すぎる問題を抱える和都と、周りにどんなに揶揄されようと、志望校すらも変えて側に寄り添う春日。
友人以上の間柄にも見えるけれど、二人がそういう仲だという話は聞いていない。きっとそれに近い、言ってしまえば執着のようなもので繋がっているのではないだろうか。
普段から二人の距離が妙に近い理由が、なんとなく分かった気がする。
「……うまいもんだねぇ」
「コイツ、すぐ伸びるんで、しょっちゅう切ってるんです」
「なるほど、何回もやってれば、そうもなるか」
前髪と両サイドを丁寧に整えていき、気付けばあっと言う間に髪の毛全体が短くなっていた。
仕上げに全体をブラシで梳いて、完了である。
「ん、終わり」
「涼しくなったー!」
ケープとタオルを外し、隙間から入り込んだ髪の毛を刷毛で叩いてもらうと、和都がさっぱりした顔で頭を左右に振った。
すでに昼食を食べ終えてしまった菅原が、そんな和都を見ながら少し呆れたように訊く。
「しかし、来年は春日もいるからいいけど、卒業したらどうすんの?」
「本当、どうしようね……」
「それまでに何とか克服するしかないだろ」
「もういっそ後ろは伸ばしてようかな……」
女性に間違われてしまうので、出来れば伸ばしたくはないのだが、こればかりはなかなか難しい。
困ったように腕を組む和都を見ながら、小坂がふと思いついたように口を開いた。
「じゃあ、おれも練習して切れるようにしといてやろうか?」
「えっ」
「あぁ、いいなそれ。オレも練習しとこっかな」
「……ありがと」
小坂と菅原の提案に、和都が照れながら嬉しそうに笑う。
後片付けをしながら聞いていた春日も、小さく口角を上げていた。困りごとの多い和都の『味方』は、多ければ多いほどいい。
「あ、そろそろ行かねーと!」
時計を見上げた菅原と小坂は「じゃーなー」と、そのまま第二体育館へと行ってしまった。
使用した散髪用ケープと、床に散らばった髪の毛を集めて捨てると、和都もようやく談話テーブルについて、持ってきていたコンビニのパンを食べ始める。そんな和都の、短くなった髪の毛を仁科は指で梳きながら言った。
「次伸びたら、俺が切ってみる?」
「先生、切れるの?」
「弟達の髪なら切ってたよ」
ずいぶん昔の話ではあるが、切るだけなら今でも出来ないことはないだろう。
だが、和都はしばらく考えて。
「んー、なんかイヤだからいいや」
「えぇ……」
仁科が和都の返答に困惑していると、帰り支度をしていた春日が、どこか勝ち誇ったような、楽しそうな顔で言う。
「これは信用の問題なんで、諦めてください」
「……あっそう」
──なんか、ムカつく。
口をヘの字に結んだ仁科は、「じゃあ帰ります」と去っていった春日を見送った後、もう一度だけ和都に聞いた。
「なんで俺はイヤなの?」
「……なんとなくだってば」
パンを食べながら、和都は目だけを仁科に向けて。
「髪を切るのは、ユースケの仕事!」
「さようデスカ」
仁科はそう言いながら、和都の頭を片手でわしゃわしゃと大きく撫で回す。
「わ、なにすんの!」
「……なんとなく」
ボサボサになった頭を手ぐしで直しながら抗議する和都に、仁科は口を尖らせて答えた。