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20-02 *

「あっれー?」

 ドアの鍵は掛けていない。もし掛かっていれば、施錠されていることが分かるよう、ドアの鍵部分には印が出るようになっている。

「岸田、どうしたー?」

 廊下の奥のほうから、和都の声が近づいてくるのが聞こえてきて、仁科は少しだけホッとした。

「あ、相模。保健室のドア、開かなくてさ」

「え、鍵は?」

「開いてるっぽいんだけど」

「うそぉ。先生ー、いるー?」

 ドアをドンドンと叩きながら、普段より大きい和都の声が呼びかけてくる。

 仁科は荒くなった呼吸を整えるように、ハアァ、と大きく息を吐いて。

「あー、悪い。いるよー」

 談話テーブルの上、組み敷かれた体勢はそのままに、大きな声で返事をした。

「あっいるいる。ドア、開かないんだけどぉ」

「なーんか鍵んとこおかしくなったみたいでさ。悪いけど、野中さん探してきてくんない? 事務室、誰も居ないみたいで。鍵んとこ、外すしかないかも」

「あ、じゃあ、オレ行ってくるわ」

 そう岸田が返して、パタパタと廊下を走る足音が遠ざかる。

 ドアの向こうには和都が変わらずにいるらしい。

「先生、大丈夫? なんか声が変だけど」

「あーちょっと、手ぇ傷めちゃってさ」

「えっ、大丈夫なの?」

「うん、平気へーき」

 赤い目の堂島と睨み合ったまま、仁科はドアの向こうにいる和都といつものような調子で話し続けた。

 こうしていれば、堂島はこれ以上自分に手が出せない。話が変に途切れていまえば、和都のそばに姿を消して潜むハクが、保健室の中へやって来る可能性があるからだ。

 話している間に廊下の向こうは野次馬が増えているのか、ガヤガヤと騒がしくなってきている。外から聞こえる話し声が増える度に、堂島の顔に浮かんだ焦りの色も濃くなっていく。

「野中さん呼んできたぞー」

「すみませーん、外に出てたもんで」

 岸田の声に続き、事務員を務める野中さんの、少しおっとりとした声も聞こえた。そしてすぐに、ガチャガチャとドアの鍵部分を外す音がし始める。

 仁科は自分を組み敷いたままの堂島を見上げ、いつもような調子で言った。

「お前、今ここにいたら都合悪いんじゃないの? 鍵のない部屋のドアが開かないのは、おかしいからな」

 人に紛れた状態の怪異は、予定外に本性を晒すことを極端に嫌がると聞いている。

 それに、鍵を外したはずのドアが開かなければ、人ではないものの仕業と気付き、強力に成長したハクが牙を剥くはず。

 仁科はそれに賭けたのだ。

 暫くの沈黙の後、堂島が赤い瞳を冷たく蔑むように細め、歯を軋ませてから息を吐く。

「……仕方ないな」

 そう言って身体をゆっくり離すと、堂島は後退りながらスゥッと空間に溶けるように消えてしまった。

 仁科は、はぁ、と大きく息をつき、ボロボロの身体を引き摺るように起こす。強かに打った背中と、堂島を殴った手の、小指の下側面が痛い。思った以上に強く握り込まれていたようだ。

 満身創痍に近いが、そうのんびりはしていられない。

 ズキズキと痛む右手で、すぐに治療用品棚を開けた。噛まれた部分を軽く消毒しガーゼを当て、ネクタイを直しつつケガが見えなくなるよう、襟元をきっちり閉じる。

 自分はただ、鍵が壊れて出られなくなっただけ、という状態を取り繕わなければならない。

 廊下の方ではあまりないトラブルのためか、ガヤガヤと少し騒ぎになっているようだった。

 ガチャ、ガコン、と鍵の辺りが外れるような音がして、ようやくガラガラとドアが開く。

「いやー、大丈夫でしたか、仁科先生」

 作業服姿の初老に近い事務員・野中さんが、やれやれ、といった様子でそう言った。廊下には野次馬の生徒たちが集まっていて、ドアがようやく開いたことでなぜか盛り上がっている。

 仁科は先ほどまでの出来事が、夢か何かだったのではないかと思ってしまった。

「はい、お手数おかけして」

「老朽化ですかねぇ? 鍵の修理は業者にお願いするんで、一週間くらいしたら直ると思います」

「わかりました、お願いします」

 仁科が頭を下げると、野中さんも同様に頭を下げ、紺色の帽子を被り直して去っていく。それを見て、祭りは終わったとばかりに、野次馬の生徒たちもバラバラといなくなっていった。

「先生、これ。回収したアンケート」

「テーブル置いていい?」

 廊下には岸田と和都だけが残り、各教室階から回収してきた、アンケートの束を仁科に見せる。

「ああ、そこ並べちゃって」

 すでに学年ごとに分けてあるようなので、そのまま談話テーブルに並べるように指示をだしていると、和都が、ああ、と思い出したように仁科を見た。

「あ、そうだ。手ぇ、どうしたの?」

「いやぁ、鍵んとこ叩いたら直るかと思って思い切り叩いたら、傷めちゃってサ」

「だっせぇ!」

「ええー」

 右手を押さえながらいつもの調子でそう言ってみせると、岸田はゲラゲラと笑い、和都は呆れたように眉をひそめる。

「相模、手当してくんない? 利き手だから上手くいかなくてさ」

「……分かった」

 和都は仕方がない、という顔で返事をし、薬品やガーゼなどの入った治療用品棚を開けた。

「んじゃ、オレはお先! あとよろしく!」

「おー、気をつけてなぁ」

 岸田が去って行くのを、見送るように声を掛ける。

「もー、何してるんだか」

 椅子に座って向かい合い、和都は差し出された仁科の右手に湿布を貼って、包帯を巻き始めた。

「いやぁ、ちょっと慌てちゃってさ」

「まったく」

 外はすでに、綺麗なオレンジ色に染まり始めている。

 先ほどまでの騒がしさが嘘みたいに、保健室の中は静かだった。

 和都が丁寧に包帯を巻くのを眺めながら、仁科が呟くように口を開く。

「……実は、俺が安曇神社の関係者なの、みんなにバレちゃってね」

「えっ」

 包帯を巻く手が止まり、驚いた顔がこちらを見た。苦笑するしかできない。

「昨日の職員会議でお前と出掛けたりしてた件、とうとう言及されちゃってさ。安曇の親戚だってことも、結局話す羽目になっちゃって」

「そうだったんだ……」

 呟くように言いながら、和都はふたたび包帯を巻き始める。

「参ったよ。安曇とお近づきになりたいらしい教頭が、親戚の娘さんとお見合いしてくれってしつこく言ってくるし」

「じゃあ今朝、教頭先生がきてたのって、それ?」

「うん。そういうのもあるから、伏せてもらってたんだけどねぇ」

 名家と繋がりがあるだけで、こういうことは昔からあった。

 裕福さと引き換えの、面倒なことの一つである。

 包帯を巻き終えた和都が、不安そうな顔でじっと仁科のほうを見た。

「人間は欲深いし、鬼は食欲旺盛だし、困ったもんだね」

「ねぇ、もしかしてさ」

「……うん、堂島がきた」

「なんで言わないんだよ!」

 そう言って立ち上がった和都は、仁科のシャツの襟周りにうっすら赤い色が滲んでいるのに気付く。

 襟首を掴んで開くと、首筋にガーゼが当てられており、そこにも赤い染みが広がっていて。

「……あ」

「アンケートの集計するし、お前ら来るって分かってたから……助かったわ」

 和都を見ると、今にも泣きそうな顔になっていた。

 鬼側にバレたら危険だという話をハクから聞いた時も、すごく不安そうな顔をしていたのを思い出す。

「……そんな顔しないの」

 眉を下げて、いつものように頭を撫でようとしたのだが、それより早く、和都に頬を掴まれて引き寄せられていて、そのまま唇が触れた。

 しばらくして、ゆっくり離れると、泣いているような怒っているような顔が目の前で口を結んでいる。

「……学校ですよ?」

「知ってる」

 眉をひそめて睨みながら、でも泣くのを我慢しているようで、声が震えていた。

「……危なかったのに、ヘラヘラすんな、バカ」

「まぁ無事だったし」

「そうだけど」

 どうやらそれ以上は、上手く言葉が出てこないらしい。

「てか、なんでしたの今」

「……よく分かんないけど、したかったから」

 泣きそうな顔を赤くした本人はそう言うが、仁科はなんとなくされた理由が分かった気がした。

 多分これは、自分が和都にしてきたことをされたのだ。

 ──よっぽど酷い顔してたんだな、俺。

 不安そうな時や、動揺している時に、安心させたくてやったこと。それをされたのだろう。

 他人を手放すことや、突き放すことばかり考えていたはずの死にたがりが、不器用ながらも自分の手を掴もうとしてくれているのだ。それがなんだか嬉しくて、仁科は小さく笑う。

「かわいいこと言っちゃって」

「……うっさいなー」

 本人はまだ、無自覚のようだ。

 でもきっと、それでいい。

 仁科は立ち上がると、わしゃわしゃと和都の頭を撫でた。

 手の痛みに首筋の痛み、背中も多分アザくらいは出来ているだろう。紛うことなく満身創痍だ。

「今日はさすがに帰ろうか。集計は今度にしよう」

「……うん」

 窓の外から、夜の気配が近づいていた。

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