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夏の残滓はまだまだ深く、蝉の声は至る所から響いていた。
九月も半ばを過ぎると、蝉の声はやや減ってきたように思えたが、それでもその声を耳にするだけで、気温が二、三度上昇してしまうような感覚に陥るのは、きっと気のせいなどではないだろう。
奈央は玲奈や桜、そしてさとりと共に、学校からの帰り道を歩いていた。
あの日――八月の、あのイザナミとの一件があった、あの夜。
大樹の声で眼を覚ました奈央は、周囲の至る所に見覚えのない男たちが倒れ、戸惑うように辺りを見回しているのを目にして眉をひそめた。
そして大樹の他にも、自分を囲むようにして立つ村田一、矢野桜、宮野首玲奈の姉である結奈や、アサナによく似た麻奈、見覚えのない金髪の美女、それから――全身ずぶ濡れ姿の玲奈とさとりの姿に、確かに自分は自分の身体に帰ってきたのだと、心の底から安堵した。
あとから聞いた話によれば、結奈と麻奈は、祖母である宮野首香澄の指示のもと、あの神社の本殿裏の御神井に鶴瓶桶を投げ入れたらしい。
井戸の底、その水は奈央の中に通じており、玲奈とさとりはその井戸を介してこの世界に戻ってきたというのである。
けれど、今やあの井戸の底は、奈央の心とはつながっていない。
そこに通路を創ったのは創造主と自称する存在――省吾とその仲間たちだったというのであるが、奈央にはいまいち理解することができなかった。
――いや、今やもう、理解する必要もない。
何故なら、全ては終わったことだからだ。
さとりは結局、麻奈のところで面倒を見てもらうことになった。
自分の名前以外はなに一つ思い出すことのできなかった彼女は、ここで新たな人生を歩むこととなったのだ。
最初こそ戸惑い続けていたさとりだったが、学校の始まった今となっては、まるで昔からの親友であったかのように、玲奈や桜、奈央たちと親しくなっていた。
時折遠くを見つめて何かを懐かしむように目に涙を浮かべるさとりの姿を見かけて気になっていた奈央は、ある時、彼女に「大丈夫?」と声をかけたことがあった。
するとさとりは、ハッと息を呑むように振り向いてから、
「……な、何でもないの。ただ、大切な何かを思い出しそうな気がして、でも思い出せなくて、ちょっと……ごめんね」
と口にした。
「大切な人? 家族とか――恋人?」
「恋人?」さとりは眼をぱちくりさせて、そして胸に手をあてた。「――えぇ、そう。たぶん、恋人だった人のことだと思う。その子のこと、全然思い出せないのだけれど……でも、彼女のことを思うだけで、私の胸は温かくなって、でも悲しくて、切なくて――」
それから再び青い空を見上げながら、
「――いつかまた、会えたらいいなって、思うんだ」
奈央はそんなさとりに、深く、深く頷いた。
「……会えるよ」
そうだ。美咲のアバターが言っていたのだ。
「願えば思いは、きっと届くから」
その言葉に、さとりはきょとんとした顔をして、そしてにっこりと微笑みながら、
「――ありがとう、奈央」
その黒い髪を風になびかせながら、嬉しそうに微笑んだのだった。
そんなさとりが、今、目の前で玲奈や桜たちと楽しそうに会話し、笑みをこぼしている。
その姿を見ていると、奈央の中に何とも言い難い感情が生まれる。
願わくは、さとりが寂しくならないよう、悲しくならないよう、私は……
「――奈央! どうしたの、ぼ~っとしちゃってさ」
桜に声をかけられて、奈央はハッと我に返った。
「え? あぁ、ごめんね」奈央は取り繕うように笑ってから、「――まだ暑いから、頭がぼーっとしてたみたい」
「大丈夫、奈央?」
玲奈が心配そうに、奈央の顔を見上げてくる。
あの一件以来、玲奈がやたらと奈央の身体を心配してくれるのは有難いのだけれど、そこまで心配してくれなくても、もう大丈夫なのに。
「安心して、本当に、大丈夫だから」
そう? と玲奈は首を傾げる。
「なにかあったら、ちゃんと言ってね」
「ありがとう、玲奈」
奈央は口元に笑みを浮かべた。
その時だった。
「――あっ、はじめと木村だ!」
桜が前を歩くふたりの背中に気付き、指をさした。
村田一と大樹が、何か楽しそうに大笑いしながら、奈央たちの十数メートル前を歩いている。
大樹もあの時、自分がどうなってしまったのか、どうやら記憶がないらしい。
ただ、大樹が記憶を失う以前、彼曰く、どうやらイザナミは私の身体で彼を――
と、そこで奈央は首を大きく横に振った。
――そんなことは、もう、いい。考えたくもないし、考えないようにしなければ。
それは最悪のことで、奈央にとっては最も許せない、イザナミの犯したこと。
あの美咲のアバターは、きっとそのことを謝っていたのだ。
今はもう、そんなこと、思い悩んでいたってしかたがない。
奈央は玲奈にまた心配されないよう、小さくため息をひとつ吐いた。
今考えるべきは、これからのこと、みんなとの、そして、大樹との未来――
奈央が、改めて思いを巡らせていると、
「お、そうだ!」と桜が、良いことを思いついた! とばかりに手を打ち鳴らして、「ちょうど良いから、これからアイツらも連れてさ、カラオケとかどう?」
「か、カラオケ? わ、私、そんなに歌うのうまくないし……」
不安げに口にするさとりに、桜はへらへらと笑みを浮かべながら、
「大丈夫だって!」
「え、でも…… 私……」
心底困ったように眉根を寄せるさとりを見て、玲奈が口を挟んだ。
「ダメだよ、桜。さとりさん、嫌がってるでしょ?」
「え~? いいじゃ~ん! こんだけ大勢で遊びに行くことなんて、そうそうないんだしさぁ!」
「でも、さとりさんが、嫌がってるでしょ?」
さとりを守るように立ちはだかる玲奈に、桜は大きく頬を膨らませて、「む~っ!」と声をあげた。
何とも平和な光景。
自分が求めていた、友達との時間。
奈央はそんなふたりの姿に、軽くため息を吐いてから、
「……はいはい。別にみんなで遊びに行くの、カラオケじゃなくてもいいでしょ、桜?」
「ん~?」と桜は首を傾げて、「まぁ、そうだけどさぁ……」
「そうそう、他のところにしよう、他のところ!」
玲奈もうんうん頷き同意する。
「ま、いっか」と桜はまだやや納得していないような口ぶりで、「よ~し! そうと決まったら、あのふたりのところまで競争ね! よ~い、どん!」
言うが早いか、ひとり、村田や大樹のもとへと駆けだした。
「え? えぇっ~?」
驚いたような表情で、玲奈もそれに続いて走り出す。
「あっ、えっ、ま、待って!」
さとりも、そんな玲奈のあとに続こうとして、ふとこちらに振り返った。
「奈央も、早く!」
奈央はそんなさとりに、肩を竦めてから、
「わかった。行こう、さとり」
さとりの手を握り締め、先を走る桜と玲奈のあとを、村田や大樹たちへ向かって駆けだした。
その空は、どこまでも、どこまでも青く広がり、輝く太陽が燦々とまぶしかった。
その光は、奈央にとって、これからの未来が希望に満ち溢れているように感じられたのだった。
―――闇に蠢く・完