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7話 婚約者

 事態が動いたのは、予想以上に早かった。その夜、シリルはブノワとの会食の場で思ってもみない話をされたのだ。


「僕が、見合いですか?」


 思わず口に入れかけた肉を落としそうになるくらいの衝撃だった。レヴィンがこの場にいなくて良かったと、シリルは本気で思ったくらいだ。


「はい。私の娘は今年で十七になります。シリル様も今年で十六、そろそろそうした話があってもよいのではないかと」


 もみ手でもしそうな愛想笑いを浮かべるブノワは、なんとも醜悪で嫌気がする。心の内が透けて見えるというのはこんなにも不快なものなのかとシリルは思ってしまった。

 第一、気軽に返事ができるような話ではない。そんなこと、シリルだって理解している。シリルは王弟、縁談など自由にできる地位ではない。婚約は王家との結びつきになる。この男をのし上がらせるなんて、死んでもごめんだ。


「お気持ちは嬉しいのですが、こういうことは兄や周囲の者とも話し合わなければなりません。私もそう自由にできる立場にはございません」

「そう難しく考える事はありませんよ、シリル様。ほんの口約束です」


 その言葉に、シリルはムッとした。

 たとえこの場の口約束でも、約束は約束だ。それを破ることは不誠実になる。どんな身分の者と交わした約束でも破ることのないユリエルを尊敬するシリルにとって、この男の考えは我慢ならないものがあった。


「僕は、軽々しく約束をするのは嫌いです。ですから、このお話には同意できません。今夜は疲れていますのでこれで失礼します」


 不機嫌を隠さずに席を立ち、シリルは退室する。その背を追うようにブノワは手を伸ばしたけれど無視した。

 その時の男の顔はなんとも醜悪だ。シリルを思い通りにできない事に苛立ったのか、弛んだ肉から見えるビーズのような目に暗い光を見せていた。これが、この男の本当の感情なのだろう。

 ユリエルは、こんな人間の表情をどれほど見たのだろう。人を素直に信じられず、誰にも心を開かずにいたほどに。

 シリルも覚悟する。これから相手にするのは、こんな醜い者達なんだと。


◆◇◆


 部屋に戻ってきたシリルは憤慨していた。

 レヴィンは会食の間、シリルからのお使いで離れていた。あれこれと手を回していたのだ。そうして部屋に戻ってきてしばらくすると、予定よりも早い時間にシリルが戻ってきたのだ。


「信じられますか! 僕はもう、本当に信じられません!」

「まぁ、落ち着きなよシリル。そんなの誰だって真っ先に考える事なんだから」


 話を聞いたレヴィンはそう取りなしたが、新緑の瞳に睨み付けられてタジタジだ。本当に兄に似てきた。


「まぁ、相手を間違えたよな」


 誰よりも誠実であろうとするシリルに、そんな不誠実な事を言ったのだから怒られても仕方がない。まぁ、ユリエルを相手にこんな話をしてもきっと右から左に受け流されて無かったことにするだろうけれど。この兄弟、抱き込むなんてできる相手じゃない。

 だが嬉しいのは反応の早さだ。ブノワはシリルを完全に甘く見ている。これは墓穴を掘ってくれるのも早いだろう。

 加えて、シリルの動きが速く的確だ。もともと聡明な子ではあったけれど、やるとなると徹底的で躊躇いがない。将来有能な政治家になれるだろう。

 コツンと、レヴィンの胸にシリルは頭をつける。愛らしい顔には悔しげな表情が浮かび、瞳は悲しそうだった。


「僕は、こうした事に都合のいい相手だと思われているのですね」


 唇を噛んで侮辱に耐える表情は見ていて辛くなる。こんな顔が似合う子ではない。もっと明るくて、愛らしくて、見ていると温かくなる笑みが似合う子なのに。

 頭に手を置いて苦笑し、レヴィンは頬にキスをする。頼りなく揺れる瞳を覗き込んで、胸元に抱き寄せた。まだ頼りない体は腕の中にすっぽりと収まる。守ってあげたいと思える、たった一人の少年だ。


「そう思う奴には思わせとけばいいんだよ。後で痛い目を見るのはそいつらだ。それに、今のシリルは強くなったよ」

「そうでしょうか?」

「勿論。内務の事だって立派にやっているし、剣も鍛錬してる。強くなりたいって気持ちが伝わってくる。だから、焦らなくていいんだよ。能力は追いついてくるし、気持ちはもっと強くなれる」


 クシャリと頭を撫でる。柔らかな髪、その奥に見える新緑の瞳は輝きを失っていない。綺麗だ。彼をいつまで守ってあげられるのだろう。曇らないでもたいたい。

 レヴィンはそればかりを考えている。どうすればいいのかなんて知っている。できるだけ汚れたものから遠ざけるんだ。その為に自分はいる。


「さぁ、そろそろ寝ないと。休息は元気のもとだよ」

「ん。レヴィンさんも寝てくださいね」


 そう言って、頬にキス。おやすみの挨拶は最近これで定着した。


 シリルの部屋を出たレヴィンは、廊下を進みバルコニーのある方へと向かった。そして、寒くなり始めた夜風に赤い髪を揺らした。


「フェリス、いるか?」

「いるわよ。調べて欲しいことは、領主のお嬢さんの事かしら?」


 影になって顔はよく見えないが、スタイルのいい女性が歩み寄る。鈴を転がしたような笑い声が耳に心地よい。だが、その声が紡ぐ言葉は優しいものではなかった。


「知ってるか?」

「多少はね。深窓のご令嬢よ。世の中を知らない子で、領主とは似ても似つかない美人。でもその子、好きな相手がいるみたいよ」

「ほぉ?」


 利用できそうな話に多少の興味を示すレヴィンに、フェリスも近づく。そして、悪い笑みを浮かべて見せた。


「でも、身分違いだから切ないわ。アンタほどじゃないけれど」

「障害はあればあるほど燃え上がるものさ。んで、お嬢さんの部屋は?」

「最上階の西端。綺麗な子だからすぐに分かるわ。あんた、目いいし」


 二百メートル先の的に矢を当てられる視力だ、その辺は心配していない。レヴィンはそれだけを聞くと納得して去った。フェリスもそれを追ったりはしない。二人はあくまで他人でなければならない。

 それに、レヴィンにだって日中の彼女がどんな変装で紛れ込んでいるか、見破る事は困難なのだ。

 こうして、黒い密会は早々に終了したのであった。

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