もしかして、私の為だったりして。一瞬でもそんな浮ついた思考を巡らせた自分が恥ずかしかった。何を勘違いしているんだろう、馬鹿馬鹿しい。相手はあの掴み処のない飄々としている平野だ。適当な理由を付けてガチ恋勢の結芽を躱しただけという可能性の方が明らかに高い。
思わず頬を緩めてしまった自分を認めたくない…絶対に認めない。結芽の返事が面白かっただけだ、じわじわきたからつい口角を持ち上げてしまっただけだ。それ以外に理由なんてない。それ以外の理由なんて、あって良いはずがない。
「でも、結芽を躱すだけなら別にわざわざ辞める必要もないんじゃ…」
唇から無意識に漏れた言葉は、これからの労働を憂いて顔が死んでいる大人達ばかりを乗せている電車内に溶けて消えた。
高層ビルばかりが肩を並べているオフィス街だからなのだろうか、会社の最寄り駅構内は今日も今日とて混雑していた。腕時計を一瞥してからパンプスなのに小走りしている若い女性や、揺れる車内で読んでいたのか皺の寄った新聞紙を片手に欠伸を零している中年男性。
スマホで電話をしながらぺこぺこと誰もいない場所に向けて頭を下げている男性は、私と同じくらいの歳に見える。この駅に降り立つ度に、こんなに沢山の人間が国の為に生活の為に誰かの為に働いているのだから自分も頑張らなきゃなって思わされる。
アナログ式で漫画を描いている先生の締め切り当日に頂いた原稿を抱えて走ってたら、ここで盛大に躓いてこけた自分の新人時代が懐かしい。
それから、当時出来立てほやほやだった後輩の平野が初めて漫画家先生の作業部屋へ訪問する際も、付き添いとしてこの駅から一緒に電車に乗った。
そういやあいつ、これから人生で初めて漫画家先生に会いに行くっていう時ですら、この駅に隣接しているショッピングモールでジェラートを買って食っていたな。しかもシングルじゃなくてダブルを頼んでいた余裕っぷりだった。
当時、腹立たしさしか覚えなかった私は、平野の食べてるピスタチオ味のジェラートに刺繍針でも混ざっててくれねぇかなって思った。そう考えると私もかなりのクソである。因みに己がクソだという自覚はちゃんとある。
「全然止んでなくてしんど…やっぱり傘持ってくるべきだった」
思い出の多い駅を辞するべく改札を潜り、会社に近い出口から覗いた景色に早速絶望。空から降り注ぐ大雨が、アスファルトをぐしょぐしょに濡らしていた。
参ったな、近くのコンビニで傘を調達しようにも意外と距離がある。濡れるのは不可避なフラグしか立っていない。地面から弾け飛んだ雨粒が、履いているハイヒールの爪先をあっという間に濡らしていく。
ここで雨宿りしていてもきっと雨足が弱まってくれる事はないだろう。そもそも雨宿りをする猶予なんて毎日始業時間ギリギリを攻めている私には残されていない。
傘を持参しているちゃんとした大人達は、鉛色の雲の下で傘を広げて次々と私の横を通り過ぎていく。畜生、だから梅雨って嫌いなんだよ、降るならこっちの業務時間に降れよな。そんな世界一理不尽な憤りを募らせていると、突然目の前に折り畳み傘が現れて吃驚した。
え?私遂に欲しい物を出現させる青色の猫型ロボット的な能力を身に付けた!?!?…なんて、SFチックな展開があるはずもなく。
「菅田の事だから、どうせ傘忘れたんだろ?」
折り畳み傘を差し出している手を伝って双眸を上昇させれば、できる男の山田が隣に立っていた。
神様なん?こんなにどんよりした天気なのにお前から後光が射して見えるぞ?どんだけ良い奴なんだよ山田。
「使って良いの?」
「ん。俺もう一本折り畳み持ってんの」
「何でそんな用意周到なの?」
「こういう時の為?」
「どういう時だよ」
「どういう時って、菅田が困っている時に決まってんだろ」
「…オカンと呼んでも良いですか」
「駄目、オカンだったら下心持てねぇじゃん」
「え、それってどういう…「てか菅田時間大丈夫?俺はかなりヤバいんだけど」」
自らの腕時計をこちらに向けてくれた相手の一言にハッとした私は「全然大丈夫じゃない。山田傘ありがとう、遠慮なく使わせて頂きます」と言って、山田から受け取った折り畳み傘を開いた。
私の後に続いて山田が鞄から取り出した一本の折り畳み傘を開く。それから会社までの道のりを歩き出した。ここから会社までは徒歩七分くらいだから決して遠くはない。
ポツポツという傘にぶつかる雫の合唱が、大きく耳に響いた。駅の近くに設けられた花壇では梅雨らしい紫陽花が見事に花を咲かせている。
「会社中で噂になってるぞ」
雨音を切り裂いて届いた声が放たれた方へと顔を向ける。山田は正面を見たままで、横顔しか視界に映らなかった。それでも相手は私がどんな表情と仕草をしているのか分かっている様で、こちらが問い掛けるよりも先に言葉を続けた。
「菅田、平野と付き合ってんの?」
ep.22 End