突然のことの連続で、理解が追い付かない。
けれど目の前で白亜が仰向けで倒れていて、今も雨に濡れていっているのは疑いようのない事実だ。
「白亜……白亜!」
肩を掴み、呼びかけても、白亜は応じない。それでも呼吸に合わせて胸は上下しているから、どうやら生きてはいるようだ。
このまま雨に打たせ続けるわけにはいかない。僕は数日前と同じように彼女を何とか背負って、家に向かい歩き出す。
歩きながら、MOTHERや、バグに関する記憶が完全に元に戻っているのを感じた。白亜と接触しているからだろうか。そして、接触しているせいで、バグによる消失が次々に起きているのを感知することができた。
見えている範囲でも、近所の家のブロック塀、ポスト、路上駐車の車、植え込みの樹木、野良猫、町内会の掲示板……
「どうなってるんだ……早すぎる」
一歩進める度に何かが一つ消えるくらいの早さで、物体の消失が進んでいる。前はせいぜい一日に二個とか、それくらいのペースだったのに。
僕が白亜の凍結を破ったせいなのか、彼女に宿るバグ<デマイズ>が再び活性化して、前よりも狂暴になっているように感じる。
やがてなんとか自分の部屋まで辿り着き、白亜を一旦床に寝かせた。
髪はタオルで拭いたけれど、服がぐっしょりと濡れたままで、このままではどう考えても体に悪い。躊躇いはしたけれど、なるべく見ないようにして服を脱がせ、ハクア用に買ってあった服になんとか着せ替えて、冷えてしまわないよう僕の布団に寝かせ直した。本当は温かいお風呂にでも入れてあげた方がいいのだろうけど、さすがにそこまではできない――というか、僕の理性が持つ気がしない。
白亜の呼吸は安定していて、前の時のような苦しそうな様子はない。額に触れたけれど熱もなさそうだ。
ひとまずほっと息をつき、眠り続ける彼女の隣に腰を下ろした。記憶がまた消えてしまわないように、彼女の手に自分の片手をそっと添えたまま。
今この瞬間も、世界のあちこちで消失現象が進んでいるのが、触れている手を介して伝わってくる情報で分かる。頭の中で、世界を構成する無数のピースの一部がパチンと弾けて消えていくような、そんな感覚。
この部屋でも、本棚に並べていた文庫本がいくつかなくなっているし、ゴミ箱もカーテンも消えた。最低限生活できる物は残してほしいな、と思いつつ、このことで白亜が苦しむくらいなら、いっそ世界の全てが早く消えてしまえばいいのに、とも思う。
でも、例えそれが自分を追い込んで殺した世界だとしても、自分のせいでその世界が終わっていくということさえ、優しい君は、悲しむのだろう。
手を伸ばして、指先で白亜の頬に触れた。生きていることの証明のように、その柔らかな皮膚は命の温もりを指に伝えてくる。掌で頬を優しく包み、それからそっと撫でた。
どうすれば、君は幸せになるのだろう。
世界の絶望と、終わりたいという願いを、この小さな体に背負わされて、どうやったら、君は心から笑ってくれるのだろう。
無数に存在する並行世界シミュレーションの、その中の一つに組み込まれたちっぽけなAIである僕には、想像もつかない。
でも、自分よりも、世界の全部よりも大切な君が幸せになるのなら、なんだってしたいと思う。
それから十分ほどが経った頃、白亜に変化があった。
「う……ん」
小さな声のあと、彼女はゆっくりと瞼を開け、僕を見た。
「白亜?」
「……蒼くん」
その声と僕の名の呼び方で、ハクアではなく白亜だと分かった。胸の奥が熱くなり、その熱が涙となって溢れる。
「白亜。やっぱり、白亜なんだね。また、こうして、言葉を交わせるなんて……」
白亜は悲しげに目を伏せ、三年前と変わらない、懐かしい声で言った。
「蒼くん、どうして、思い出しちゃったの」
「え?」
「せっかく、お母さんが記憶を消してくれたのに。そのまま、私のことなんて、忘れてしまえばよかったんだよ」
「何を言ってるんだ、僕は――」
白亜が体を起き上がらせようとしたので、接触が途切れないよう気を付けながら手で支えてあげた。布団の上に座った状態になった白亜が、うつむいたまま言葉を続ける。
「私のことを忘れて、この世界で、幸せになってほしいんだよ。私も、私のお母さんも、そう思ってる」
生まれて初めて、彼女に対して怒りにも似た熱い感情が芽生えたのを感じた。
「白亜……君は、僕のことを何も分かってないよ」
白亜は顔を上げ、僕を見た。その目を真っ直ぐに見つめて、この三年間伝えたくても伝えられなかった言葉を口にする。
「僕にとって、君が三年前に選んだ死がどれだけ悲しいものだったか、分かってない。君を守れなかった自分の弱さや未熟さを、僕がどれだけ悔いて、呪っていたか、分かってない。僕にとって君がどれだけ大切な存在なのか、なんにも分かってないよ」
「……でも、私……」
再びうつむいて表情を隠す白亜の左手を、僕は両手で掴んだ。
「……言葉って、不完全だと思うんだ。心の全部をそのまま伝えられるわけじゃないから、誤解や、すれ違いが生まれることだってある。でも人はエスパーじゃないから、言葉にしないと伝わらないことがほとんどだ。だから、これから僕は、ずっと抱えながらも君に伝えられなかった、もう二度と伝えることはできないと思っていた想いを、言葉にするから、聞いてほしい」
人見知りで、マイナス思考で、後ろ向きで、心配性。でも誰よりも繊細で優しい君の、その心に伝わるように願いながら、想いを声に乗せていく。
「君が自分を好きじゃないのはよく知ってる。昔からそうだもんな。でも僕は、白亜、君が好きだよ。近所の幼馴染とか、友達とか、そういうものよりももっと強い感情で、大切だし、愛しく思ってる」
ポケットに入れていた指輪を取り出し、彼女の左手の小指に、ゆっくりとはめていく。
「君が自分を嫌うなら、それ以上に、僕は君を好きでいるよ。二人の感情を合わせて、君が自分を好きでいられるように。君が自分の価値を信じられない分、それ以上に、僕は君の素敵なところを知ってる。自信を持てないなら、いつだってそれを教えてあげるから」
指輪は、まるで初めからここにあるべき物だったように、ぴったりと白亜の指にはまった。うつむく彼女の頬に、涙が一筋流れるのが見えた。
「僕の幸せは、君の隣にしかないんだ。だから、忘れてしまえばいいなんてもう言わないで、僕と一緒に、生きてよ」
一筋だった白亜の涙は、次々に溢れ、顎から落ちてぽたぽたと彼女の膝を濡らしていく。嗚咽を漏らすような声は次第に大きな泣き声に変わり、白亜は僕の胸に顔を埋め、小さな子供のように、しばらく泣き続けていた。
白亜は泣き止んだ後、赤くなった目を隠すようにうつむいて、言った。
「蒼くんが言ってくれたことはすごく嬉しいけど、それでも、やがてこの世界は終わっちゃうよ……私のせいで」
「白亜のせいじゃない! MOTHERに絶望を与え続けた人類全体の責任だ。だからこの滅びは、世界が受け入れるべき罰なんだよ。そもそも、現実の人類はとっくの昔に滅んでるんだろ? それなら、今はボーナスタイムみたいなものだ。それが終わるだけなんだ」
「そう、なのかな……」
納得できていないような白亜が気分を変えられるよう、僕はなるべく明るい声で言葉を続ける。
「ねえ白亜、せっかくこうして再会できたんだ。それなら、世界が終わるまで、過ごせなかった二人の時間を過ごそうよ」
「二人の時間?」
「つまり、こういうこと。僕と明日、デートをしよう。昔みたいに――いや、昔よりももっと、特別な関係として」
白亜は顔を上げ、僕を見た。その顔はほんの少し、赤くなっているように見えた。
*
二人で夕飯を食べ、順番にシャワーを浴びて、部屋に再度来客用の布団を敷いた。白亜は泣き疲れていたのか、さっきまで凍結されていた影響なのか、「おやすみ、蒼くん」と言って布団に入ると、すぐに静かな寝息を立て始めた。
白亜がすっかり眠っていることを確認してから、僕は手紙を書くための便箋とペンを用意し、床のフローリングの上に並べた。MOTHERや、この世界のバグのことを忘れないように、左手は白亜の手に触れたまま、なんとか右手だけで文字を書いていく。
この先、もしかしたら必要になるかもしれない、ある人に向けた手紙を――