学校の悪魔
会社や学校に向かう人々で街が賑わい始めた頃、麻婆堂の一日も始まる。
昇、月岡、木原に雑巾やモップを渡しながら、店主が愛想の良い笑顔を浮かべて言った。
「悪いね、手伝って貰っちゃって」
「いえいえ。いつも美味しい麻婆豆腐を作ってくれるお礼です」
「それに間借りしている以上は、その場所を清潔に保つ義務がありますから」
昇と月岡は屈託なく答える。
木原も無言で親指を立てた。
「ありがとう。よし、早速始めよう!」
四人は方々に散らばり、手分けして掃除を開始する。
しかし穏やかな時間は、殴りつけるようなノックの音で終わりを告げた。
「俺が見てきます」
月岡が扉を開け、不躾な来客を注意しようとする。
しかし来客––男子高校生は月岡の姿を見た瞬間、目に涙を浮かべて彼に抱きついた。
「刑事さん助けて!」
「落ち着くんだ! 一体何が……」
「あいつが来てる! 学校の悪魔が!」
「学校の悪魔?」
詳しい話を聞くため、月岡は彼を本部に連れて行こうとする。
しかしその瞬間、高校生は月岡の腕の中で息絶えてしまった。
愕然とする月岡の耳を、微かな羽撃きの音が掻き乱した。
「……ッ!」
月岡は咄嗟に空を見上げるが、そこに不審な影はない。
来客だった遺体の背中には、一枚の白羽が突き刺さっていた。
「俺は遺体を大学病院に搬送する。木原さんは、島先輩と金城にこのことを伝えてください」
「分かった!」
突如発生した事件にも怯まず、二人は迅速に行動を開始する。
放心状態になってしまった店主を介抱しながら、昇は改めて気を引き締めた。
「ではこれより、事件の概要を説明します」
数時間後、特撃班の五人は会議室に集合する。
ホワイトボードに貼り付けた高校生の写真を指差して、月岡が語り始めた。
「被害者は東都高校の二年生。司法解剖の結果によりますと、死因は白い羽が突き刺さったことによるショック死です」
被害者に背中に刺さっていた羽を分析した結果、この事件は特危獣の犯行である可能性が高いことが分かっている。
更に、と木原が続けた。
「三ヶ月前から、東都高校では五件もの失踪事件が起きていたんだって」
「五件も!? そんな話、今まで聞いたことないですよ」
「我々はあくまで特危獣事件専門ですから、それ以外の事件の情報はあまり入ってこないんです。……今日まで特危獣事件であると我々に悟らせなかった。今度の敵は、相当やり手ですよ」
昇の疑問に答えつつ、金城は眼鏡の奥の瞳を光らせる。
火崎が拳を握りしめて言った。
「被害者の発言といい、東都高校に何かあるのは間違いねえな」
羽の特危獣と学校の悪魔に、一体どのような繋がりがあるのか。
会議室で考えていても、中々納得のいく答えが見つからない。
腕を組んで唸る昇を横目に見て、木原が口を開いた。
「この際、潜入捜査するってのはどう?」
「学内関係者に扮し、敵の動向を探るというわけですか」
「金ちゃん正解!」
木原が軽快に指を鳴らす。
月岡たちの承認を得て、彼女は更に続けた。
「潜入するのは先生役と生徒役の二人。まず生徒役なんだけど……ヒューちゃんお願い!」
「おれですか?」
「うん。アライブの力は絶対に必要だし、それにヒューちゃん、年齢的には現役でしょ?」
「……はい! 頑張ります!」
潜入捜査とはいえ『学校に通える』という事実に、昇の心は踊り出す。
次に先生役を決めようとすると、月岡、火崎、金城の視線が一斉に木原へと注がれた。
「……え、何でみんなこっち見てんの?」
「言い出しっぺの法則だ」
「我々は前線に出向くことが多いので、敵に顔を知られている可能性があります。潜入捜査をするのなら、木原さんが適任かと」
「月岡さんの言う通りです。覚悟を決めてください」
壁際に追い詰められた木原は、縋るような表情で昇を見つめる。
涙目の彼女に、昇は満面の笑みで返した。
「一緒にやりましょう、木原さん!」
かくして木原は撃沈し、潜入捜査のメンバーが決定する。
そして学校側に話を通すと、二人は捜査の準備に取り掛かった––。
「緊張しますね、木原さん」
朝のホームルームの音を壁越しに聞きながら、制服に身を包んだ昇が話しかける。
灰色のパンツスーツを着た木原が、後頭部で一つ結びにした髪を弄りながら答えた。
「別の意味でね。あーもう、何でまたこんなとこ……」
やがて教室の扉が開き、担任教師が昇たちに入るよう促す。
教室に入った途端、梅雨時に似た重苦しい空気が二人を出迎えた。
現在進行形で特危獣の恐怖に晒されているのだから、無理もない。
それでも可能な限り空気を明るくしようと、昇は生徒たちに自己紹介をした。
「転入生の日向昇です! 皆さんと勉強したり、遊んだりするのが凄く楽しみです! よろしくお願いします!」
生徒たちは疎らな拍手で新たな仲間を出迎える。
次に木原が自己紹介をした。
「教育実習生の木原林香です。理数の話ならできるしむしろそれ以外したくないっていうか……とにかくよろしくね!」
木原は半ば無理やりに自己紹介を切り上げて、昇に『ちゃんとできてた?』と口の動きだけで問う。
『伸び代ありです』と返して教師の次の言葉を待っていると、彼は意外な発言をした。
「そうそう、今日はもう一人転校生がいるぞ」
「えっ!?」
二人は声を揃えて驚く。
どうしたことかと考える間もなく、その転校生が姿を現した。
「うわっ!」
昇たちの頭上を宙返りで軽々飛び越し、見事な着地を決める。
頭に被った空色パーカーのフードを取り、彼は自らの名を告げた。
「馬渕駿です。よろしく」
———
馬渕の思惑
「なっ、何で馬渕さんがここに!?」
「君こそ、僕の周りを嗅ぎ回るのはやめてくれるかな」
再会を果たすなり、馬渕は昇に挑発的な態度を取る。
火花を散らす二人の間に教師が割って入り、馬渕の方を見て言った。
「馬渕くん、制服はどうした?」
「すみません。届くのが遅れてしまっていて」
「明日はちゃんと着てくるように」
教師はそう注意して、馬渕を空いた席に座らせる。
木原が小声で囁いた。
「珍しいね、ヒューちゃんがバチバチするなんて。どういう関係?」
「後で話します。じゃあまた」
昇も自分の席に座り、周りの級友たちに軽く挨拶する。
どこか不穏な気配を漂わせる教室内に、始業のベルが鳴り響いた。
一限目、生物。
「であるからして、特危獣というのは大変危険な生物なのであります」
ふくよかな体型をした生物担当教師の話を聞きながら、昇は板書を書き写す。
少し余裕が出てきたので、彼は怪しまれない程度に周りの様子へと意識を向けた。
不審な気配を探るため、更に神経を尖らせる。
しかし、ここで生物担当教師が思わぬ行動に出た。
「では問題に答えてもらいましょう。転校生の日向さん!」
「あっはい!」
「特危獣の心臓とも言えるこの器官は何でしょう?」
答えは勿論『進化の種』だ。
だが、動転した心は時として普段できていることさえできなくする。
昇も例外ではなかった。
「ちゅ……中華の鍋!」
ブブー。
不正解の音と共に、級友たちから失笑が巻き起こる。
代わりに馬渕が正解を導き出した。
「正しくは進化の種です。人間の数十倍の心肺機能を持ち、強い感情や電気的刺激によって活性化します」
「馬渕くん大正解! よく勉強してますねえ」
教室中の賞賛を浴びながら、馬渕は静かに着席する。
昇は恥ずかしさのあまり、授業が終わるまで教科書で顔を隠していた。
「い、いきなりこんな大失敗をするなんて……」
「ちゅ、中華の鍋って! くひひ」
「笑わないでください!」
「ごめんごめん。ほら、次の体育で挽回してきなよ」
木原は未だ笑いのツボから抜け出せないまま、昇の背中を叩く。
どうにか気持ちを切り替えて、昇は教室に戻って着替え始めた。
二限目、体育。
「今日はチームに分かれてサッカーをやるぞ! 整列!」
竹刀を手にした筋肉質の体育教師が、校庭に集合した生徒たちを横並びに整列させる。
体育教師は生徒たちに一から三の番号を振り、同じ番号の生徒同士でチーム分けをさせた。
このクラスは三十三人のため、必然的に三つのチームが生まれることになる。
まずは昇チームとサッカー部主将のチームが試合を開始した。
「楽しみたいけど、それより怪我をさせないようにしないと」
人間同士でさえ怪我の危険があるのだから、特危獣の肉体を持つ自分は人一倍気をつけなければならない。
しかしその気遣いが、サッカー部主将の逆鱗に触れた。
「サッカーは戦場だ! 他人の心配なんかしてる奴に負けるかよ!」
運動神経の悪い味方から強引にボールを奪い、主将が前線に上がっていく。
怒涛のドリブルで突き進む主将の前に、昇が立ちはだかった。
機敏な動きで主将の行く手を塞ぎ、一進一退の競り合いを演じる。
見かねた主将のチームメイトが叫んだ。
「おい、こっちにパスだ!」
「うるせえ、こいつは俺が抜く!」
熱くなるあまり単調になった主将の動きを的確に読み、昇がボールを奪い取る。
チームメイトと共に試合を観戦しながら、馬渕が呟いた。
「アライブの奴、あくまで人間のフリをするつもりか」
その後も互角のまま試合は続き、遂に終了を告げる笛が鳴る。
主将チームに代わり、今度は馬渕チームがピッチへと上がってきた。
「いい試合にしよう、アライブ」
馬渕の挑発を無視して、昇は自分の定位置に戻る。
試合開始の笛が鳴るや否や、馬渕が大きく右脚を振りかぶった。
キックオフシュートだ。
「はあッ!!」
弾丸の如き速度のボールは砂塵を巻き上げ、破裂音を轟かせてゴールに突き刺さる。
チームメイトでさえ驚愕する中、馬渕が昇を指差して言った。
「本気で来なよ。でないと、ニンゲンたちが怪我をするかもしれないよ?」
「……っ」
力を使わせてくれと、昇は体育教師の隣の木原に目だけで訴える。
木原が力強く親指を立てた。
『戦(や)ってよし!』
試合再開すると、ボールを奪った馬渕がまたしてもシュートの構えを取る。
馬渕の蹴りが炸裂する刹那、昇がボールを掠め取った。
「お互い、これでようやく本気が出せる!」
高速で展開される競り合いは人間の領域を超え、本物の戦闘さながらの激突へと発展する。
熾烈なぶつかり合いの末、馬渕が紙一重で昇の守りを突破した。
「またあのシュートがくるぞ!」
互いのチームメイトは恐れをなし、試合を投げ出してその場から逃走する。
しかし馬渕が放ったのはシュートではなく、急角度のパスだった。
「……え?」
止めようとした昇をすり抜け、ボールは一人の生徒に命中する。
眼鏡をかけたその生徒は、ボールが当たった肩を見るなり顔を蒼褪めさせて叫んだ。
「あ、う……うわああああっ!!」
「あたし行きます!」
木原が真っ先に駆け出し、錯乱する生徒を宥めながら保健室へと連れていく。
騒然とする校庭に、体育教師の叱責が響いた。
「馬渕! もっと力加減をしろ!」
「僕はちゃんと手加減しましたよ。その証拠に、彼の体には何の外傷もなかったじゃないですか」
体育教師の追及を躱し、馬渕は『様子を見てきます』と保健室に向かう。
渡り廊下を歩く馬渕を、追ってきた昇が呼び止めた。
「馬渕さん、彼に何をしたんですか!」
「パスをしてあげただけだよ」
「……おれは今日、潜入捜査でここに来ました。特危獣がこの学校の生徒を狙ってるんです。もしかして、一連の事件の犯人はあなたなんじゃないですか?」
「どうして?」
「違うなら教えてください! あなたの知っていること全部を!」
昇は馬渕の肩を掴み、彼の目を見据える。
馬渕の唇が動いた瞬間、遠くから悲鳴が轟いた。
「この悲鳴は!?」
「保健室からだっ!」
昇と馬渕は保健室に向かい、勢いよく中に突入する。
気絶した眼鏡の生徒を庇いながら、木原が叫んだ。
「ヒューちゃん、あそこに特危獣が!」
鶴の性質を備えた特危獣・クレインが窓から侵入し、保健室を荒らしながら木原たちを追い詰める。
すかさず重い打撃でクレインを怯ませて、昇が言った。
「犯人は馬渕さんじゃなかったのか!」
「ああ。僕は既に事件の真相に辿り着いていた。あの特危獣はターゲットに秘密の指示を出し、達成できなかった者だけを襲っていたんだ」
そして眼鏡の生徒が出された指示は、『試合中、一度もボールに触れないこと』。
故に馬渕は敢えて指示を失敗させ、敵を炙り出したのだ。
「今までと違って堂々と襲ってきたのは、ここでの狩りを終わりにするつもりだからだろう?」
「貴様、見透かしたようなことを」
「これでも一応、同族だからね」
馬渕とクレインは保健室を飛び出し、校庭を舞台に格闘戦を開始する。
すかさず昇も制服の袖を捲り、隠していたショックブレスを起動した。
「おれも行きます! 木原さん、みんなをお願いします!」
「任せて!」
木原は既に駆けつけていた月岡たちと合流し、学生たちの避難誘導を開始する。
全員が逃げたことを確認し、昇は心臓を殴りつけて叫んだ。
「超動!!」
昇––アライブは山羊の姿(ゴートフェーズ)となり、二刀流でクレインに切り掛かる。
しかしクレインは白く逞しい翼を羽撃かせ、剣の届かない遥か高所へと飛翔した。
「フッ!」
クレインは羽の雨を降らし、アライブたちに一方的な攻撃を加える。
馬渕が見守る中、アライブは蛇の姿(スネークフェーズ)に形態変化した。
「これなら!」
スネークヌンチャクで羽を叩き落とし、更にクレインに巻きつけて動きを封じる。
抵抗するクレインを抑えつけながら、アライブは月岡に通信を送った。
「月岡さん、ライフルを貸してください! ライオンの姿で決めます!!」
「その必要はないよ」
月岡の返事より先に、馬渕がブレスを切ってしまう。
驚くアライブに、彼はしっかりと告げた。
「強い力に優れた技、そして揺るがぬ自制心。合格だよ、『昇』くん」
その目に先程までの挑発的な色はなく、勇敢で慈悲深い意志に満ちている。
彼は全身に力を漲らせ、遂に特危獣としての姿を解放した。
「ハァァァ……!!」
中世の騎士を思わせる、異形でありながらどこか英雄的(ヒロイック)なその姿。
馬の性質を宿した彼の名前は、特危獣ホース。
「いくよ!」
ホースはアライブからヌンチャクを受け取り、彼を優に超える膂力で敵を地面に墜落させる。
遮二無二飛びかかってきたクレインの拳を、ホースは硬質化した腕で受け止めた。
「はっ!」
すかさず生成した盾で殴りつけ、有利を決定的なものとする。
戦いに終止符を打つべく、ホースは第二の武装である大槍を生み出した。
「でぃいいやあッ!!」
渾身の力で槍を突き出し、クレインの心臓部を貫く。
槍が持つ性質故か、クレインの体は蒼炎に包まれて灰化した。
「日向昇!」
ようやく駆けつけた月岡たちが、ホースを取り囲んで銃口を向ける。
しかし彼は動じることなく、馬渕の姿に戻って言った。
「昇くん、そして特撃班。君たちのこと、しっかり報告させてもらうよ。……僕たちのリーダーにね」
馬渕は再びホースとなり、俊敏な身のこなしで姿を消す。
学校の脅威を排除したのと引き換えに得た新たな謎を、五人はひとまず本部へと持ち帰るのだった。
「ふう、やっと帰って来られたよ」
その夜、馬渕は一日中走り続けた末、人里離れた山奥でようやく立ち止まった。
落ちた枯れ葉を踏む感触を楽しみながら、険しい山道を悠々と歩いていく。
やがて拠点に帰り着いた彼を、三人の男女が出迎えた。
燕尾服に身を包んだ長身の女と、無垢な笑顔を浮かべた恰幅のよい男。
そして二人の中心に胡座をかく、筋骨隆々の大男。
彼は帰還した馬渕を労うと、偵察の成果を尋ねた。
「偵察ご苦労だった。アライブと特撃班について、何か収穫はあったか?」
「はい。彼らは多少変わってはいますが、腕は確かです。あのスパイダーを倒したのもまぐれではないでしょう」
「……なるほどな」
大男はふっと笑い、胡座を解いて立ち上がる。
歩き始めた彼の背中に、燕尾服の女が言った。
「どちらへ行かれるのですか?」
「釣りだ」
大男はそう答え、立て掛けてあった釣り竿を提げて拠点を出る。
薄灯りに照らされたその影を、熊の形に変えながら。