いよいよ奈良公園。予想以上に鹿が居た。鹿の風下だの風上に鹿が居るだのとギャーギャー言うトアリに振り回され……気付けば人気の無い路地に着いていた。
「ゴホッ! ゴホッ!」
そこには、体を丸くしながら咳き込む老婆が居た。昨日の老婆だった。
「あっ、どうも」
俺が会釈すると、老婆は弱々しく微笑んだ。
「あらあら、どうも」
ゴホゴホッと、老婆は咳き込む。
「おや、そちらのお方は?」
老婆はトアリに気付いていないようだ。昨日はノンフルアーマーだったから仕方ない。
「これは昨日のマスクしてたやつですよ」
ほら、と俺はトアリの背中を押した。
「昨日の礼言っとけよ」
「わ、分かってますよ……」
微笑み、至極ゆっくりと首を傾げた老婆に、トアリは言う。
「昨日はその……心配してくれてありがとう……ございます……」
「あらあら、そんなこと気にしなくていいのよ?」
ゴホゴホゴホっと老婆は咳き込んだ。それに超反応して、トアリは距離を取る。
「あの、
「あのな、そういうこと言うなって」
「で、でも……」
「おまえが潔癖症なのは解るけどさ――」
ゲホッゲホゲホッと、老婆は更に激しく咳き込んだ。とても苦しそうに。
そして、
ドサッ……と、その場に倒れ込んでしまった。
「大丈夫ですか?」
俺はすぐさま駆け寄った。老婆は横たわり、咳き込み続ける。
「お、おいトアリ! スマホか何かで誰か呼んでくれ!」
トアリは震えていた。前にも後ろにも動かず、ただ震えていた。
「おい、どうしたんだよ! 早く――」
「嫌……」
トアリは呟いた。
「……嫌です私!」
走り去ってしまった。
「くそ……! しょうがない、俺が救急車を呼ぶしか!」
俺はポケットに手を突っ込んでスマホを出したが、信じられないことに電源が切れていた。電池切れだ。
「マジかよ! こんな時に!」
俺は勢い良くスマホをポケットにしまった。
「あの、おばあさん! スマホとか持ってませんか!」
呼び掛けたが、老婆は咳き込み続けるだけ。急いで老婆のポケットやらを探したが何も無かった。
「落ち着け……今から人気のあるとこに言って助けを求めるか? それか俺が運んで……いや、下手に動かしたらまずいかもしれないし……」
頭が上手く回らなかった。
もうどうしたらいいのか分からなかった。
目の前で更に苦しそうにする老婆。
初めて体験する焦燥で……、
歪む視界。
失われる感覚。
麻痺する嗅覚。
何も感じなくなる味覚。
そして閉ざされそうになる聴覚に、光が差し込んできた。
「城ヶ崎くん!」
トアリの声だった。ハッと俺の五感が呼び覚まされる。
「トアリ?」
トアリがケータイの入ったビニール袋を手に駆け寄ってきた。
「これで119を!」
トアリがビニール袋を差しだしてきた。
「でもこれ出したら――」
「いいから早くしてください! 私はおばあちゃんを見てます!」
「あ、ああ!」
俺はビニールを破って、中からケータイを取りだした。
そして、震える手で人生初の119をダイヤルした。