S級ダンジョンのポータルをくぐり抜けた瞬間、目の前に広がったのは、見慣れた運営ブースやロビーではなく、ただ果てしなく続く暗闇の通路だった。
湿った空気が肌を冷やし、無機質な赤い石の壁が薄暗い空間を覆っている。
いつものように配信や装備を準備する人の気配はなく、まるでここが本当の地獄の入り口であるかのような、不気味な静寂が漂っているなかで、運営スタッフから渡されたティックバードを各自が起動し配信を開始した。
現場の静寂さとは裏腹に画面の向こうには多くのリスナーが集まっていて、カイ達のチャンネルもかなり賑わってる。
しかし運営側から「みて分かるように今回はロビーが無い、つまり救助要請を押しても救援出来るスタッフはいないので無理をしないで欲しい」という冷酷な言葉を聞かされた瞬間、配信者とリスナーらに緊張が走る。
「なんだよ、救助が来ないってどういうことだ!?」
一人の若い配信者が声を上げた。
「S級ダンジョンてロビー無いの?これは聞いてないぞ!」
ほかの配信者たちもざわめき始める。
カイは黙ったまま周囲を観察し、隣のリサと顔を見合わせた。リサは眉をひそめ、軽くため息をつく。
「まともじゃないわね。公安も相当焦っているようね」
「うん、僕たちも、気を引き締めないとね」カイは頷いた。
配信者達は集団を崩さず暗闇の通路を進む。総勢50人近くの手練れが固まって行動する様子からも、リスナーたちにも緊張感が伝わってきた。
【なんかやばそうだな】
【救助が無いとどうなるんだ?】
【倒れたら死ぬってこと?】
【見てる方も緊張するわ】
【今日もリサちゃんていてい】
先頭には「ディアブロス」の佐久間竜司が仲間たちとともに歩いており、他の配信者たちの不安をよそにニヤつきながら声を上げた。
「おいおい、みんなビビりすぎだろ……A級ダンジョンを幾つも攻略してるディアブロスが居るんだ、S級ダンジョンつったって1ランク上なだけじゃねえか」
佐久間の豪語に、配信者たちはやや肩の力を抜くが、その次の瞬間——
「うわっ!あれ……なんだ?」
暗闇の奥で、小さな赤い光が次々と点滅し始めた。まるで無数の目がこちらを覗き込んでいるかのような異様な光景に、場が一気に張り詰める。
「なんだ、あの光?……目か?」
しかし、ディアブロスのリーダー佐久間竜司はそんな空気をまるで気にも留めない様子で、仲間たちに声をかけた。
「みろ!小型の蜘蛛だ!見た目も大したことねぇ、やっちまえ!」
佐久間の掛け声とともに、ディアブロスの面々が次々と攻撃を仕掛ける。武器が振り下ろされ、魔法の火炎が蜘蛛たちの群れを照らし出した。
暗闇の中で鮮やかに閃く火花と共に、いくつかの蜘蛛が苦痛の叫びを上げ、白い体液を飛び散らせて後退する。
「やっぱたいしたことないぞ!もう逃げてやがる!」
若い配信者が得意げに叫んだ。
蜘蛛の数匹が確かに後退し始め、ダンジョンの奥へと逃げていく。その姿に、配信者たちの緊張は一気に緩み、あちこちから勝利の声が上がった。彼らはほっとした様子で肩の力を抜き、笑顔すら浮かべ始める。
「S級とA級に大きな差はなさそうだな!」
配信者たちが安堵し、勝利を確信し始めたその時、カイはふと蜘蛛たちの様子に奇妙な違和感を覚えた。後退しながらも、蜘蛛たちの動きには一貫した意図が感じられる。まるで、誘導するように後退しているのだ。
そして次の瞬間——カイの意識に、不気味な囁きが響き始めた。
(……もっと油断させろ……もっと奥へ引き込め……奴らは愚かだ……)
カイの脳裏に、蜘蛛たちの思考が直接流れ込んでくるような感覚が走った。まるで蜘蛛たちが互いに語り合うかのような、低く冷徹な囁きが耳元で響く。
(……愚かな獲物ども、さあ追いかけろ……)
その意識の断片を聴き取った瞬間、カイは自分の中でかすかな記憶が蘇るのを感じた。
——二界……動物との融合……1000年、修練、意思疎通……狩猟者と獲物、闇に潜む獣たちとの緊張感。
かつて知性を持った生物たちと、互いに気を探り合いながら行った修練の記憶がフラッシュバックのように思い出される。
カイはハッとして目を見開き、すぐに隣のリサの腕を掴んだ。
「リサさん、まずい。あの蜘蛛たちは戦略的に後退している」
リサは驚きの表情でカイを見つめる。
「え?でも……逃げてるだけじゃないの?」
カイはすぐに首を横に振り、奥で小さく瞬き続ける赤い瞳を見据えた。
「いや、彼らは、狩をしている。ボクたちを弄んでいるんだよ」
その言葉に、リサも息を呑むように前方の暗闇を見つめる。その間に、佐久間らは笑みを浮かべながら蜘蛛たちを追っていこうとする。
「おい、なんだ?逃げ足だけは速ぇじゃねえか!追いかけて、みんなに派手な映像を見せてやろうぜ!」
配信者たちが蜘蛛の群れを追いかける中、カイとリサもやむを得ず彼らの後を追従する。
暗闇の中で先を行く配信者たちの姿が見え隠れし、彼らが進む先は次第に入り組んだ地形へと変化していく。細い通路や急なカーブが増え、蜘蛛たちを追いながらも周囲を気にする余裕を失っていた。
「まずいな……かなり奥まで来ているみたいだ」
カイの低い声にリサは頷くが、次第に心に不安が広がっていく。ふと周囲に目を凝らしてみると、いつの間にか周りの壁や天井には蜘蛛の巣が張り巡らされているのが見えた。か細い糸が無数に絡まり、まるで逃げ場をふさぐように広がっている。
前を行く佐久間もついに異変に気づいたのか、足を止めて周囲を見回した。ほかの配信者たちも立ち止まり、恐怖を帯びた視線を蜘蛛の巣だらけの壁に向ける。
「……なんだ、ここ……いつの間にか囲まれてるじゃねえか!」
しかし、その時、通路の奥で静かに待ち構えていた蜘蛛の一匹がゆっくりと姿を現した。佐久間は不気味な沈黙に耐えきれず、苛立ちを込めた声で叫ぶ。
「なんだよ、止まってんじゃねえか!こっちがビビってると思ってんのかよ?」
そう言うなり、佐久間は蜘蛛に向かって一撃を見舞う。しかし、蜘蛛はその瞬間、口から白い糸を吹き出し、佐久間の攻撃を防いだ。糸は強靭に絡み合い、まるで盾のように蜘蛛の体を覆っている。
「くそっ、糸ごときで防ぎやがって……!」
佐久間がさらに攻撃しようと構えたその時、周囲の蜘蛛たちが一斉に動き出し、じわじわと集団を取り囲むように迫ってきた。隙間という隙間が蜘蛛の巣のような糸で塞がれていて、自分らが入ってきた出入口すら蜘蛛の糸で塞がれ始めている。
「やっぱり……これって……」
リサが息を呑み、ようやく状況の異常さを理解する。
「……もう逃げ場がない。蜘蛛たちは最初からここへ誘い込むつもりだったんだ」
カイは冷静に言葉を紡ぐが、その言葉が周囲の配信者たちの心を凍りつかせた。
カイはリサに向き直り、静かに尋ねた。
「君のアナライザーで、ボクの強さは測れる?」
不意の質問にリサは“はっ”となった。A級になった今ならカイの強さが測れるかもしれない。冷静にアナライザーでカイのステータスを解析しようとする。しかし、結果は解析不能。
「……解析不能よ。A級になったアナライザーならS級の強さまで解析出来るはずだけど、やっぱりカイはその域を超えているってことね」
「じゃあ、あの小さな蜘蛛達の強さはどうだろう?」
カイは少し目を細め、佐久間と対峙する小さな蜘蛛を指差した。
リサはその問いに従い、アナライザーで蜘蛛を解析する。すると、目の前に現れた結果に息を呑んだ。
「……A級!?あの小さな蜘蛛が、A級の強さ!?」
リサの顔が青ざめた。
「A級があんな弱いはずがない……。やっぱりわざと弱いふりして逃げてたんだ……!」
リサは震えながら周囲の配信者たちに声を張り上げた。
「みんな!あの蜘蛛たちの強さはA級よ!わざと逃げてた!これは罠だよ!」
「A級?!100匹はいるぞ!なんで早く教えてくれなかったんだよ!?」
「落ち着け、俺たちはディアブロスだ!こんなクモごときにやられてたまるかよ!」
「お前が短絡的に動くからだろ!いつもそうだ!」
この状況に、佐久間とディアブロスの面々にも不協和音が生まれている。
その間も、蜘蛛たちは糸を器用に使い、獲物が逃げないように配信者達の行動範囲を狭めていく。
その時、奥の壁面に一際大きく赤い瞳が鋭く光った。
『——よくやった兄弟たち——』
ずっとカイの耳に聞こえていた、指示役の低い囁きが間近に響く。
壁面の窪みから現れたのは背丈だけでも3mはあろうかという巨大な蜘蛛。しかも三体。
リサが唖然とした表情で大きな蜘蛛を見上げた。
「カイ……あの蜘蛛はS級だ!そんな……まだダンジョンのボス戦ですら無いのに」
【あれがS級!?本物?】
【A級が100匹、S級が3匹って詰んでるだろ】
【どうすんのれ?全滅?!】
【ディアブロスが舐めプするからだろ!】
「S級?どうするよ!この小さい奴でも苦戦してんのに!」
「集まって全方位集中しろ!」
「とりあえず各自が目の前の蜘蛛に対処しよう」
騒めく配信者達の輪の後方にいたカイとリサも、集団に背を向け目の前の敵に集中する。
「リサさんはボクが守る……そもそも格が違う」
その言葉を聞いてカイの方を見やるリサ。
(え?この状況で笑ってるのカイ……)
「うん!やろう!カイとなら私、いける気がする」
追い込まれた巨大蜘蛛の巣の中で、人間とモンスターの生き残りをかけた戦いが、始まろうとしていた。