深淵の闇を進むカイとリサ。蜘蛛たちとの激戦を経て、二人の歩みは一層慎重になっていた。薄暗い通路は静まり返っており、まるでダンジョン全体が二人を監視しているような不気味な気配が漂う。
リサはカイの横顔をちらりと見た。その腕や顔には真新しい小さな傷がいくつか見える。彼女は足を止め、声をかけた。
「カイ、ちょっと待って」
「え?リサさん……どうしたの?」
カイが立ち止まり、リサを振り返る。その声はいつも通り穏やかだが、彼の服から覗く細かな傷跡に目を留めたリサは眉をひそめた。
「少し怪我してるみたいだけど……どうして?防御フィールドを使わなかったの?」
その問いにカイは困ったような表情を浮かべ、軽く息を吐いた。
「えっと……それがね、実は武王との戦いの時に防御フィールドを禁止されたままで、再起動させる方法がわからなくてさ」
「えっ?」
リサは一瞬耳を疑った。一定の攻撃を防ぎ自動反撃する防御フィールドは高等なスキルで、ほとんどの配信者が憧れている能力だ。それを使えるカイが、その使い方を忘れたというのか。
「どうして?自分のスキルなら普通わかるでしょ?」
リサの問いかけに、カイは少し戸惑った様子で答えた。
「うーん、実はね……最初に修練から戻った時には、もうスキルとして使える状態になってたんだ。でも、なぜ使えるのかも、その使い方も覚えていないというか……思い出せないんだ」
「そんなことが……ほんとに?」
【あの防御フィールドがあれば蜘蛛も余裕だったろ】
【それは……さすがにやばくね?】
【黙ってたカイくんかわいい!】
【なんか急に不安になってきた】
恥ずかしそうに頷くカイを見てリサは驚きながらも、疑念よりも納得を覚えた。
正直、彼の能力は、普通の配信者とは桁違いだ。なのにカイはいつも自信がなさそうで、戦う度に思い出したかのように強くなっている。
——もしかしたら、彼自身も、自分の力の全容を把握できていないのかもしれない。
カイの肩越しに見える闇の奥をじっと見つめながら、リサは思った。
(でも、それって危険よね……。この先、ダンジョンボスが特殊スキルや魔法を使う相手だったら……どうなるの?防御フィールドが使えないカイの怪我はこんなものでは済まないかも……)
焦燥感が胸をよぎる。カイの潜在能力を信じたい気持ちと、目の前に迫る現実の危機がせめぎ合う。
そんなリサの心情を察したのか、カイは笑顔を浮かべた。
「大丈夫だよ、リサさん。ボクが絶対に守るから」
その言葉は、自信というよりも静かな決意に満ちていた。リサはその声に励まされ、軽く息をついた。
「私はカイを信じてる。でも、無理だけはしないでね、私だって戦えるんだからね!」
「う、うん、もちろん」
しばらく歩くと、奈落へと続く巨大な大穴の広がる場所へ出た。
天井は見上げても霞むほど高く、中央には巨大な吹き抜けがぽっかりと開いている。吹き抜けの内壁は螺旋状の通路になっており、通路に沿っていくつかの階層が続いているのが見える。最下層にはかすかに赤く照らされた床が見えていて、おそらくそこが最深部だと感じられた。
リサが吹き抜けの縁に近づき、下を覗き込む。
「下までけっこう時間がかかりそうだね……携帯食、足りるかなぁ?」
彼女の声には、不安と緊張が混じっていた。カイは吹き抜けの内壁を一瞥し、ほんの一瞬考え込んだように見えた。
次の瞬間——カイはリサをお姫様抱っこのように抱えた。
「え?なに!?カイ、急にどうしたの?」
リサは突然のことに目を丸くし、頬を赤らめて思わずカイの肩に手を置いた。だが、カイは微笑みを浮かべたまま、軽い口調で言った。
「リサさん、ちょっとだけつかまってて」
「え?え?ちょっと待って、何を——」
リサの言葉が終わる前に、カイは吹き抜けの縁に足をかけ、そのまま躊躇なく飛び降りた。
「きゃああああっ!」
リサは悲鳴を上げ、カイの首にしがみつく。吹き抜けの風が二人の間を切り裂き、耳元でヒュンヒュンと鳴り響く。
カイは降下中も冷静そのものだった。周囲の状況を把握し、着地地点を瞬時に見極めると、軽やかに螺旋状の通路の縁を蹴りながら速度を調整する。
ドスン、と微かに足音が響く。全くの無傷で立っているカイを見て、リサは驚きと呆れが入り混じった顔で彼を見上げた。
「……カイ、さっきの説明なしって、どういうこと!?」
「ごめんごめん、でもこれが一番早いかなって思ったんだ」
カイは肩をすくめ、苦笑いを浮かべた。その様子に、リサはため息をつきながらも、思わず笑ってしまう。
「ほんとに、あなたって時々ぶっ飛んでるよね」
「え?そうかな……まあ人と話すのが苦手だから、でも——」
カイは足元を見下ろし、次の層へと続く通路を指差した。
リサは呆れつつも、カイの腕にしがみつき直した。
「じゃあ、次もお願いね。もうどうにでもなれって感じだし」
「了解。じゃあリサさん、準備はいい?」
「……もう聞かなくていいわよ。行って!」
カイは一瞬だけ微笑み、再び宙へと飛び込んだ。リサの悲鳴が響く中、二人の影は次々と吹き抜けを飛び、最深部へと近づいていく。
何度か繰り返した後、やがて赤く光る床面に着地した。
「最下層に着いたみたいね……」
「うん、かなり時間は節約できたかな」
二人は再び歩き出した。足元の石畳が次第に変化し、壁には奇妙な模様が浮かび上がる。やがて、目の前に巨大な扉が現れた。
扉全体は深い漆黒に包まれているが、無数の筋が走り、赤黒い光が脈打つようにゆっくりと流れている。模様は絡み合った蔦のようでありながら、どこか生物の血管を思わせる有機的なラインを描いている。触れれば脈動が伝わってきそうな、不気味な存在感があった。
「……ここがダンジョンボスの部屋、だよね」
リサがつぶやくと、カイはゆっくりと頷いた。二人は扉の前で立ち止まり、しばし無言で向き合う。
扉の中央には円形の窪みがあり、そこには赤黒い光の核のようなものが浮かんでいた。それは一定のリズムで明滅し、周囲の空間を微かに震わせている。その光を見つめると、どこからか低い唸り声のような音が耳に響く。
まるで扉そのものが生きており、二人の存在を観察しているかのようだった。
「もし怖いなら、リサさんは無理して入らなくてもいいよ」
カイは微笑みながらリサを振り返る。
「……言ったでしょ?私だって戦えるって」
リサは大きく息を吸い込み、自分の弓を強く握りしめた。
「でもカイ、もし相手が強力な魔法を使うタイプだったら……正直、今の私たちには太刀打ちできないと思う。そうなったら、無理に戦おうとしないで。逃げることを優先しよう」
「……うん。でも、リサさんだけは、絶対に守るから」
カイの言葉に、リサの胸が高鳴り少し熱くなる。まだ抱き抱えられてた時のドキドキが残っている。
彼の静かな強さと優しさに触れ、彼女は守られるだけじゃなく、自分もカイを守りたいと、改めて覚悟を決めた。
【おまえらもう結婚しろよ】
【リサちゃん抱っこシーンで心拍数200超えた】
【配信史上初のS級ボス部屋だ!】
【扉開けたら温泉でした!とかないよな?】
【やばい、なんか怖くなってきた】
【カイ!リサちゃんだけは守ってくれ!】
カイが扉に手を置くと、低い振動が広がった。赤黒い光がさらに強く脈動し、紋様が不気味に輝き始める。それはあたかも扉が応答しているようだった。
ゴゴゴゴ——。
重々しい音が響き、扉がゆっくりと開き始める。隙間から吹き出した冷たい風には、金属のような匂いと僅かに血の気配が混じっている。それは、ただの空気ではなく、敵意と威圧を孕んだ冷気だった。
扉の向こうに広がる闇の奥から、何かが二人を待ち受けているのを感じ取る。カイとリサは無言のまま、互いに一度だけ頷き合った。
現在:同時接続数——105万人
その先に待つものが何であれ、二人は進むことを選んだ。