お母さんと会って、変わってしまった自分の体のことを正直に話す。
それは、年末年始に予定していた帰省でできることでもあった。
けど、そこまで待っていられない。
木下君のくれた言葉が妙にアタシの背を押してくれた。
『――好きな人にくらい自分の正直な気持ちは何でも伝えるべきだよ』
これに似た言葉は、今まで青宮君にも、つくしにだってそれとなく言われたことがある。
だから、そうしないといけないってわかっていたし、つくしや青宮君、松島さんたちには、なるべく伝えたいことを素直に伝えようと思って今まで行動してきた。
ただ、それは全部お母さんを除いた人。
お母さん以外の大切な人ばかりに目が向いて、アタシは本当に自分のことを話すべき存在と向き合うことをやめてしまっていた。
色々と言いたいことはあるし、思ってることだってあるけど。
一刻も早く抱えてることを伝えたい。
そう考え始めると、ゆっくりなんてしていられなかった。
「――そんな言い方するの、春が可哀想だと思います。前から思っていましたけど、春のお母さん、春に酷すぎます」
ただ事では済まない。
最初からそう考えてのことではあった。
けど、さすがにこんなことをつくしが言ってくれるとは思ってなくて。
「ひ、姫路さん……! ちょ、ちょっと……!」
車の中。
後部座席でつくしの隣に座っていた青宮君も、慌てながら止めようとしている。
彼がここまで動揺した口調になるのも初めてな気がする。
アタシは、助手席から、隣の運転席でハンドルを握っているお母さんの方を見た。
「姫路さん。あなた、優しいのね。友達とはいえ、春を思ってそこまでのことが言えるなんて」
……え?
「……? 私が……優しい、ですか?」
つくしが拍子抜けしたような反応をする。
アタシも似たような思いに駆られた。
絶対に怒られる。
そう思っていたのに、お母さんは表情を変えず、ただ車を運転しながらサラッとそんなことを口にしたから。
「そもそもこの子の友人をしてくれている時点で優しいとは思っていたけれど、まさか私もそんな風に言い返されるとは微塵も考えていなかったもの。優しい。優し過ぎるくらいね、あなた」
口調は変わらない。
アタシがつくしみたいに反抗したらどうなるんだろう。
気になって、若干の抵抗感が生まれるけど、どんどん背を押されるような感覚が募っていく。
今だ。
今しかない。
そう思って、言葉を発そうとするけど、それを遮るように青宮君の声が後ろから聴こえてくる。
「姫路さんではないですけど、先川さんのお母さんの言い方、少し気になりました。この子の友達になってくれるくらいだから優しいって、それは思い切り先川さんのことを下げている。何もそんな言い方しなくてもいいのでは……?」
「下げた言い方。そんな風に聴こえてしまったかしら?」
「……思い切り」
動揺していたはずの青宮君はハッキリとそう言い、やがてすぐに「すみません」と謝罪の言葉を口にした。
頼もしくて仕方がない。
アタシは、今までに無いくらい二人に支えられているのを実感して、遂に自分でお母さんへ言葉をぶつけようとする――
「……ふふ」
けど、それはまたしても遮られてしまった。
微笑するお母さんの笑い声によって。
「……!?」
そう。あの、決してアタシの前で笑うことが無かったお母さんの笑い声で、だ。
「……お母さん……?」
驚いて、静かに疑問符を浮かべるアタシ。
すると、ちょうど信号が赤になって車は止まり、お母さんがアタシの方を見つめてきた。
「春。あなた、いい友達を持ったわね」
「……え?」
「こうして私の元へ時期外れに来てくれたのは、紛れもなくこの子たちのおかげ、ということね。よくわかったわ」
明らかに楽しそうにそう言うお母さん。
車がまた走り出す。
海に到着するのももう少し。
「昔からあなたはそうだった。私に気を遣って、遠慮をして、それから怯えて。ずっと何もわがままなんて言わずに来たわ。手のかからない子。他の人からそう言われているのも耳にしたことがある」
「……それは……」
「ええ。そう。私が春にずっと厳しく、理不尽にあたってきたから。それ以外の何物でもない。情けなく、悪いのはすべてこの私」
ここまで赤裸々に話をしてくれるお母さんは初めてだった。
長年のしこりがどんどん無くなっていくような気がして、視界がぼやける。
涙が浮かんできた。
首を横に振りながら、それでも、とアタシは切り出す。
「で、でも、それはお母さんだって大変な思いをしてたから……だよね? 小さくて、何もわからないアタシに対してイライラすることだって多かったと思うし……」
「……ごめんなさいね、春。本当に」
「い、いや、だから謝らないで!? アタシもアタシでお母さんに迷惑掛けてばっかりだったから! もっと色々考えてあげられてたら、お母さんも…………って、あれ……?」
浮かんでいた涙の量が唐突に増える。
ぼとぼとと瞳から落ちて、それが止まらない。
目の中だけで留めておこうと思ってたのに、どうしてだろう。
感情がこぼれ出すように、アタシの外へ流れていく。
「なんで……? おかしい……どうして……?」
ようやく発せた言葉なのに。思いなのに。
涙の止まらないアタシは、それ以降車の中で何も言えなくなった。
「ごめんなさい」
お母さんはそれだけを言い続けて、車を目的地である砂浜まで走らせていくのだった。
▼
その後、車は五分ほどして、目的地に到着した。
昔から親しみのある砂浜。
小さい頃、小学生になる前、ここをお母さんと一緒に歩いていたのは今でも覚えてる。
懐かしい。
冷たい風と、波の音を聴いていると、素直にそう思えた。
湿った頬が特に冷たさを感じさせてくれる。
アタシたち三人は、適当に歩きづらい砂の上へ足を下ろした。
もちろん、靴を履いたまま。
「姫路さん。青宮君。あなたたちには思い出の場所というものがあるかしら?」
お母さんがつくしと青宮君へ話を振る。
二人は、少し不意を突かれつつも、すぐに考えて応えを口にした。
お母さんはそれを聞いて頷き、波の向こう側。水平線の方を遠く見つめながら続ける。
「ここはね、春がまだすごく小さかった頃、二人でよく歩いていた場所だったの。小学生になる前だったから、あまり覚えてないとは思うけれど」
視線がアタシの方へ移る。
アタシは、それに対して首を横に振った。
「覚えてるよ。全部覚えてる」
言いながら、お母さんの瞳を見て思い出す。
そうだ。
すごく小さかった時。
お母さんはこういう優しい目でずっとアタシを見てくれていた。
「……そう。覚えているのね。だったら、なおさらあなたには辛い思いをさせたわ」
「……っ」
「不器用な私の行い、それらすべてをちゃんと記憶している。そういうことでもあるものね」
――ごめんなさい。
付け足すように、何度目かわからないその言葉を口にするお母さん。
アタシは首を横に振った。
「謝らないで。本当に、もうこれ以上は」
「……でも――」
「お母さんにそうやって何度も謝られると、アタシがずっと嫌な思いをし続けてたみたいだし」
波の音が少し強くなった。
相変わらず吹き抜ける冷たい風は、アタシの頬を強く撫でていく。
「確かに辛いこともあった。優しいお母さんに戻って欲しいって思うこともあった。小学生の頃はずっとそう思いながら生きてた気がする。どうして? って」
言いながら、記憶がよみがえる。
本当に、そうだった。
星に願ったこともあった。
お母さんの悩みが全部晴れて欲しい、って。
「けど、気持ちの奥底にあったのは、全部お母さんが好きだったって思いなんだ。お母さんのことが好きだから、優しいお母さんに戻って欲しいって思ってたし、積み重なってた苦労から解放されて欲しいって思ってたの」
「……春……」
アタシの名前を口にするお母さんの声が震える。
口元を抑えていた。
アタシは、また流れ出す涙をそのままにする。
そのままにしながら、言葉を続けていった。
「……だから、ね。ごめんなさいは、アタシも同じ。お母さんの苦労を全部わかってあげられなくてごめんなさい。今だって、こんなことになってしまってごめんなさい。迷惑を掛けてしまってごめんなさい」
「いいの! いいのよ、春! ごめんなさいはもう! そんなの、私だって――」
「でも、アタシ、性別の変わった姿でお母さんの前にいる。また迷惑を――」
「それもいいの! 病院に行けばいい! 私は何もできない! 全然何もできなくて、だからごめんなさいという思いしか無くて――」
「お母さんもごめんなさいはもう言ってくれなくていい。悪いのはアタシで、それで――」
気付けば、お母さんはアタシのことを抱いてくれていた。
涙に濡れるお母さん。
アタシも同じで、ようやく思いが繋がった気がして。
ごめんなさい、という言葉が、アタシたちを繋いでくれていたことに気付けた。
互いに遠慮していたアタシたちは、それさえもわからなくなっていたのだ。
でも、もうわかる。
本当のことを言うだけでいい。
それだけで、全部は解決していく。
たったそれだけのことでよかった。
「うぅぅぅ! 春~! お母さん~!」
アタシたちの元へ、つくしが泣きながら詰め寄って来る。
「ひ、姫路さん! 君って奴は本当に遠慮の無い!」
言いながら、青宮君も泣いていた。
泣いてくれる友達ができた。
詰め寄って来た二人を見つめてそんなことを思い、アタシはお母さんと笑い合うのだった。
●〇●〇●〇●
お母さんの住んでいる家から帰り、自分のアパートの部屋に戻った翌朝。
目を覚ますと、アタシの体は女の子のモノに戻っていた。
あまりにも突然のことで訳がわからず、軽くパニックになったのは言うまでもない。
せっかくお母さんと病院へ行こうとしてたのに、何から何まで予定崩れ。
とにかく、今までに無いくらい驚いた。男の子になった時よりも驚いたかもしれない。
しばらく鏡の前で固まったくらいだ。
「は、春!? 戻ったの!? 何で!? どういうこと!?」
つくしにもすごく驚かれた。
何もかもが急過ぎる。
変化の凄さで別の問題を引き起こしていないか心配になるほどだ。
大丈夫かな、と思う。
「でもさ、でもさ、これで全部解決……なのかな? 最後はあまりにも呆気ない感じだったけど……」
「本当……。結局これは病気だったのかな……?」
「病気ってより、魔法か何かにかかったような感じっぽくない? 春、呪われの魔女とかと会ってた?」
「あるわけないよ、そんなの。ちゃんと現実世界に生きてます」
「じゃあ、ますます意味わかんないじゃん。えぇぇ……?」
訳がわからない。
本当にこれに尽きる。
尽きるけど。
「あ、そうだ。このこと、お母さんにも伝えないと」
「え、もう伝えて伝えて! 早く伝えないと、お母さん色々心配するよ!」
こうして気軽にお母さんへ電話できるようになった。
その事実だけで、アタシは全部を許せるような、そんな気持ちになるのだった。
「お母さん。あのね?」
つくしが芽吹く、暖かい春のような。
そんな気持ちに。