「あのさ、夏休みだしちょっとジムでも入ろうかと思ってるんだけど……」
その日の夕食時、俺は思い切って母親に切り出してみた。
もちろん「今日生まれて初めてケンカをして、ボスヤンキーの吉田をぶっ倒したんだぜ!」などという興奮はおくびにも出さない。
20時頃だというのに父親はまだ帰宅しておらず、母親も相変わらず疲れた顔をしていた。両親とも仕事で忙しいのは仕方のないことだ。
「ああ、ジム? ……まあ、夏休みだからって家でネット動画ばかり見てるよりは良いのかもね」
母親は二言、三言尋ねはしたがあっさりとジムの入会を許可してくれた。
運動系の部活ではなく自分のペースで運動ができるジムが自分には合っているのだということ、受験勉強や今後の生活のためにも身体を鍛えて体力を付けておくことはとても有効だ……という話を事前に準備しておいたのが功を奏した結果だろうか。
だが母親が入会を許可してくれた最大の要因は『FIGHTING KITTEN』が格闘技のジムである、ということを告げなかったことにあるだろう。普通のスポーツジムだと母親は思っているはずである。
「おお、保君! キミはやはり入会してくれると思っていたよ! 一緒に頑張っていこうな!」
次の日、ジムに出向き正式に入会したいということを森田紋次郎師範に告げると、師範は屈託ない笑顔で喜んでくれた。
「そういえば、こないだ言っていた投げられる心配はもう無くなったのかい?」
無邪気に喜んでくれているとばかり思っていた師範だったが、その言葉を聞いて俺はドキリとした。
「ええ……まあ……」
もっと上手い誤魔化し方はいくらでもあったのだろうが、俺は返答に詰まった。だが師範はそのことについてそれ以上は追求してこなかった。
「あ、すず! こないだ体験に来ていた田村保君! 入会してくれるみたいだ。手続き頼むよ!」
恐らく裏の居住スペースになっているであろう場所から、すずがジムに出てきたところだった。
もしかしてすずがやはり何か師範に言ったのではないだろうか……と一瞬だけ思ったが、どうもそんな気配は感じられなかった。やはり紋次郎師範自身も体験に来た時の俺の雰囲気に何か感じ取っていたのかもしれない。
「そう。わかったわ」
俺の持ってきた入会申込書を受け取ると、すずは実に無表情にジムの受付にある端末にそれを入力し始めた。
いや流石に素っ気なさすぎないですか、お嬢さん! 昨日、文字通り生死を分けるような大事件を俺とアナタは共にしたんですぜ! ……と言いたくなったところで(むろんそんなこと実際には口が裂けても言えやしないのだが)不意に当のすずが顔をグッと近付けてきた。
薄い桃色の唇が妙に目に入った。
「ねえ……昨日の今日で大丈夫なの? ムリは禁物なんだからね……」
……お、お、お?
今まではどんなヤバい状況になっても一切表情を変えないアンドロイドなのではないか、と正直疑っていたのだが……何だ今の不安そうな瞳は? 囁くような枯れた声は? まるで予想もしていなかった彼女の表情に俺の鼓動はなぜか高鳴り始めた。
「ん、どうした? すず?」
すずの手が止まっていたことに師範が気付いて声をかける。師範は鷹揚な人柄に見えて、人の細かい動きや機微には目敏いようだ。やはり人間をよく観察している格闘家、ということなのだろうか?
「別に。保護者の方の名前を何て読むのか訊いていただけだから」
すずは目を伏せて、すぐに端末への入力を再開した。
しかしなぜ、すずは訊いてもいない俺の親の名前のことなどと言ったのだろうか? 少しだけ気になったが……まあ師範とすずとの間でも色々と親子の感情の機微もあるだろうし、余計な詮索はしないでおいた。
その日から、俺はいよいよ本格的にMMAの練習を始めた。
一応師範には「ゆくゆくはプロのMMA選手になりたい」ということは伝えたが、もちろん俺はまだ高1で格闘技経験どころか運動経験もほとんどないし、『FIGHTING KITTEN』はプロを目指すような会員も他にいないということなので、いきなり激しい練習メニューを課されたわけではない。
「最初は色々なクラスに参加するのが良いよ。色んな人と練習するのはそれだけで楽しいし、勉強になると思うよ!」
平日は夜の19時からクラスが毎日開かれていた。紋次郎師範とマンツーマンの環境を離れ、知らない大人と練習を共にする、という状況が最初は不安だったがすぐに慣れた。どの会員さんも基本的には優しくて、高校生の俺を珍しがって色々と教えてくれた。
「MMAは打・投・極といって大まかに3つの局面で成り立っていると言われているんだ。最初はとにかく体験してみて、その中から最初は自分の得意なもの・好きなものを伸ばしてゆくのが良いと思う」
紋次郎師範の指導もとても優しくおおらかなものだった。
むしろもっと厳しくプロになるための練習をしたい……とモチベーションで漲っている俺は思ったのだが、話を聞くと「絶対にプロになりたいんです!」と豪語して入会してくる人間ほど途中で挫折してジムに来なくなる割合が高いそうだ。
師範はとにかくMMAというものを好きになって欲しい。練習が楽しくなるように、ケガをせずに続けられるように……ということを重視して指導しているようだ。
じゃあ練習も楽で退屈なものだったかというと、そんなことはない。全然ない。
紋次郎師範の言った通りMMAは打・投・極というものに分けて考えることができる。そのためそれぞれの練習を俺も始めた。
打は打撃でキックボクシングの練習。
投は投げでレスリングの練習。
極は極め技。締め技や関節技などの寝技のことで柔術とグラップリングの練習……という風になる。
(……MMAって、やること多すぎねえか!)
どの分野もまだほんの基礎の基礎しか教わっていないのだが、それぞれの練習を始めると覚えること・やることの多さに身体よりも頭の方がパニックになりそうだった。
いきなり「プロに絶対なりたいんです!」などといくら豪語しても脱落する人間が多くなるのも頷ける。
そしてもちろん、それぞれの分野だけでも奥が深いし技術と駆け引きがある。
ノールールのケンカとはいえ、吉田というボスヤンキーを1対1で倒したことに俺は自信を持っていた。俺は本気でやれば強いんじゃないか? と思っていた。だがその些細な自信はクラスに参加して練習を始めると一瞬にして打ち砕かれることになる。
キックボクシングのクラスではまず相手のミットに向かってパンチやキックの練習をするのだが、ダイエット目的で通っている主婦の人の方が俺よりも遥かに上手いのだ!
レスリングのクラスでは中学生の男子にも投げ飛ばされたし、柔術のクラスでは平本さんという常連のおじさんに延々と一本極められ続けた。
平本さんは40代後半くらいの近所に住む会員のおじさんだ。今まで何度も一緒のクラスに参加し、キックや柔術でのスパーリングをしているが、俺にとってはイマイチ苦手な部類の人だ。
悪意ある言動や行動をされたわけでは一切ない。ただただ何となく俺にとって苦手な雰囲気の人、というだけだ。
「はは、保っちゃんも頑張ってるけどなぁ、寝技はやっぱりキャリアがものを言うんだよなぁ。まだまだ俺の方が強いな、ははは!」
何となく苦手なのは、この人が元ヤンキーであることを隠さないからだ。おじさんになっても金髪でやんちゃな雰囲気をまとっている。まあ苦手なのはそれよりも、スパーリングをやってもまるで歯が立たない、という実質的な面の方が大きいのかもしれないが。
体格的には俺とあまり変わらないが、10年近くジムに通っているそうで、柔術だけでなくキックをやってもレスリングをやっても強い。少なくともジムに入って数か月の俺がかなう相手ではない。
「ま……MMAってのは奥が深いからね。そんなすぐに強くはなれないわよ」
平本さんに延々と一本極められて顔に出るほどショックだったのか、受付でその様子を見ていたすずが帰り際に声をかけてくれた。
「いや、でもさ……平本さんは別にプロだったわけでもないんでしょ? なのに全然軽くあしらわれてる感じでさ、ボクってやっぱ才能ないんじゃないのかな?」
むしろあの時吉田に勝てたことこそが何かの間違いだったのではないか、という気さえしてくる。
「大丈夫よ。保君もちゃんと強くなってる。打撃もレスリングも寝技もきちんとレベルは上がっているわ。でも平本さんも言ってたけれど、本当に寝技は地味な基礎錬習の積み重ねだから。打撃はセンスによる部分が結構大きいけれど、寝技はやればやるだけ技術が向上するものだから。それに……もし本当に自分に才能がないと思ってるんだとしたら、それでも毎日ジムに通い続けられるっていうのは一番の才能だと思うけど?」
すずに言われ、たしかにここ数か月間週に5~6日はジムに通い続けていることを思い出した。今までこんなに何かを続けられたのは、俺にとっては生まれて初めてのことだった。
「それに、保君が毎日ジムに来てくれて、私も純粋に嬉しいし……」
「……そうなんだ? まあ、できるだけ頑張ってみるよ」
……ああ、そうか。一瞬すずの言葉の意味がわからなかったが、すぐに理解できた。
俺のような人間でも会員は1人でも多い方がジムにとっては収入になる、ということだ。
すずがすでにジム経営のことまで念頭に置いているというのはスゴイことだ! 同じ歳とは思えないほど大人な彼女の目線に、頭が下がる思いだった。
自分が一般会員のおじさんおばさんにもまるで勝てない、という事実を突き付けられショックではあったが、冷静に考えれば何のバックボーンも運動歴もない自分が強いわけがない。それだけ自分に伸び代があるのだ、という風に考え方を切り替えることができた。
クラスは基本的に夜に設定されていたから、夏休み期間中である俺は昼間の時間空いていた。
もちろん今まで運動経験のない俺は、夜のクラスに参加するだけでも最初はキツかったのだが、すぐに身体は慣れて練習をもっと欲するようになった。
師範が空いている時はマンツーマンの練習もしてもらったし、早朝に階段ダッシュの練習も続けた。
もちろん学生の本分である学業……今は夏休み期間中なので基本的に宿題だけだが……もきちんとこなした。ジムに行き出して学業が疎かになった、などと親に思われては辞めさせられること必至だからだ。
毎日の練習で疲れてはいたのだが、身体を動かすと頭も不思議と良く回るような気がして勉強にも集中できた。
練習に宿題に毎日クタクタではあったが、今まで味わったことのない充実感に満ちた夏休みだった。