「何もないけど適当にくつろいで」
六畳一間の小さな部屋は生活感と、静寂に満たされていた。埃ひとつない小さなちゃぶ台や、綺麗にたたまれた布団がイノリの几帳面さを感じさせる。
その中に小さな白い本棚が置かれていることに気づいたミヤコは、思わず並べられた本の題名を目で追っていく。大学の教科書や有名な漫画の中に一冊のかわいらしい絵本が混ざっていた。それは『夢見姫』だ。
「あっ!」
「うん。『夢見姫』」
ミヤコはすぐさま『夢見姫』のページを開く。その結末を確かめるためだ。
しかし、本を開いて飛び込んできたのはグチャグチャのミミズが這いずったような文字たちだった。それはゆらゆらと揺れ続け、まるで踊っているようだ。
「これって……?」
ハッとしたミヤコは、自分のスマホを開く。どのアプリの名前も、画像もめちゃくちゃで読めたものではない。何かを検索しようにも、どれが検索画面かもわからなかった。
ミヤコは読めない、わからないということが、こんなにも怖いことだとは知らなかった。
「昨日までは読めてたのに」
横からのぞき込むイノリの顔はすっかり青ざめてしまっていた。そしてハッとして何かを考えこむ。その呼吸は徐々に浅くなっていく。
「やっぱり、夢見姫の内容がうまく思い出せない」
その言葉を聞いたミヤコもまた、顔から血の気が引くのを感じた。
「夢は僕らをもう出さない気なんだ。だから改札も閉じてしまった」
そう言って頭をおさえるイノリに、ミヤコは慌てて駆け寄る。畳で滑りそうになったが、なんとか踏みとどまった。
「ごめん、こんなことに巻き込んで」
ミヤコはその言葉に激しく首を横に振る。そして、その背中をパンッと叩いた。
「しっかりしてよ、イノリ! 中学生に励まされないで!」
するとイノリは驚いたようにミヤコを見る。ミヤコは唇を震わせながら、それでも強い言葉を紡ぐ。
「閉じ込められたからって何? 大丈夫。絶対に外に出る手段はある。夢は絶対に覚めるから。自由は誰にも奪われない」
その言葉とは裏腹に、ミヤコの手はどんどんと冷たくなっていく。イノリも背中に触れたミヤコの手からその異常に気付いたのだろう。一瞬、目を伏せかけたが、はっと目を見開く。
「ごめん。そうだ、必ず外に出られる。僕らは自由になれる」
そしてイノリは窓の外を見る。空はどこまでも青く、遮るものは何もなかった。
そんなイノリの横にミヤコは歩み寄る。
「最悪、気球を作ろう! 空からだったら、外に出られるかもしれない」
そう強がるミヤコの姿に、イノリは申し訳なさを感じながら同時に強い希望を感じていた。この夢を見る前の世界に、彼女なら戻してくれるかもしれない。『夢見姫』はもう終わりになるかもしれない。
イノリはそっと窓を開ける。夏の生ぬるい風が、部屋に入り込む。しかし不思議とそれすらも心地よく思えた。
「君がこの街に来てくれてよかった」
本当にふとした言葉だった。ミヤコも気に留めていない。むしろ喜び、照れたように笑っている。しかし、イノリは何かに気づいたように口を抑える。
ミヤコを閉じ込めたのは、やはりイノリ自身の意思だったのだ。ミヤコを帰したくなくて、改札を茨の壁に変えた。
イノリはまた目を閉じかけて、やめた。ミヤコに今励まされたばかりだ。必ず自由になれる。ミヤコも元の街に帰れる。
イノリは自分自身に強く言い聞かせて、そしてミヤコをまっすぐに見つめた。
「出よう。この街から」
こうして二人は、この夢からの脱出方法を考え始めるのであった。
金色の夕日の差し込む部屋で二人はちゃぶ台を囲んで座っている。その視線はいくつものメモに注がれていた。
「まずはやっぱり王道だけど、ほっぺたをつねるなんてどうかな?」
ミヤコはそう言うが、イノリは首を横に振る。
「もう何度も試したけど、目は覚めなかったよ。痛くもないしね」
そう答えるイノリだったが、ミヤコは引き下がらない。
「じゃあもっと強い衝撃はどうかな?」
「え?」
そう言うとミヤコは本棚から分厚い教科書を取り出してみせる。
「これで一発殴るとか」
イノリはその言葉に絶句する。
「いやいやいや、君には人の心ってものがないのかな」
「でも、試すならこれくらいがいいでしょ? それとも」
ミヤコの視線がキッチンへと向けられる。キッチンといえば殺傷能力の高いもののオンパレードだ。イノリはこれ以上のものが出てこないように、慌ててミヤコを止める。
「教科書! 教科書で僕を殴ってくれ」
イノリがそう言うや否や、ミヤコはフルスイングで教科書を振りぬいた。イノリはその衝撃で、ちゃぶ台におでこをぶつける。
「どう? 目は覚めた?」
「……これが現実だったら、僕は永眠してたと思うよ」
そう言いながら、イノリはよろよろと頭を起こす。その言葉は冗談交じりではあったが、ここが夢の世界だということを証明していた。
「やっぱり、痛みとか衝撃なんかじゃ無理なんだよ。もっと、画期的な方法を考えなくちゃ」
イノリはそう言って頭を捻る。ミヤコも共に頭を捻るが、名案は浮かばない。苦し紛れに頭に浮かんだものをなんとなく口にしてみる。
「例えば、真実の愛のキスとか?」
「僕と君の間に真実の愛はないだろう」
イノリはミヤコの提案に顔をしかめる。明らかに不快な表情をされたことでミヤコは思わず意地を張る。
「芽生えさせればいいじゃん!」
「君は中学生じゃないか。僕はそんなことで捕まりたくない!」
イノリは強くミヤコの主張を退ける。そこまで言われてしまったら、ミヤコも食い下がる気にはなれなかった。何よりイノリとそんな関係にもなりたくない。
ミヤコは思わずため息をつく。
「あーあ、銀の靴があれば、踵を鳴らして家に帰れたのに」
そうぼやくミヤコに、イノリは冷たく、
「残念ながら、ここにはないね」
とあしらった。
いよいよ二人の考えは煮詰まる。イノリはその場でうなり、ミヤコは近くの柱に頭をゴンゴンとぶつけてアイデアを捻りだそうとするが、無いものは何をやっても出てこなかった。
その時、部屋のドアがガンガンと叩かれる。
「ちょっと、うるさいんですけど! 壁叩かないでくれる?」
イノリはガバッと立ち上がり、
「はい、すみませんでした!」
と相手からは見えないのに頭を下げる。
「まったく、当たり前のルールも守れないのかしら」
足音は扉の前から遠ざかっていき、隣の部屋のドアがバタンと閉まる音がした。
「気を付けて。隣のイノシシはちょっと厳しいんだ」
イノリは声をひそめて、ミヤコに注意する。
「ごめん」
ミヤコはそう小さく謝った。しかしすでにイノリは聞いていない。神妙な顔に戻ると、再び思考を巡らせ始めていた。
「ねえ、夢にルールがあるとしたらどうだろう?」
イノリはそう言って、ミヤコのことを見る。
「ルールって、外に出られないとか?」
「そうだけど、それ以外にもルールがあるのかもしれない」
そう言って、イノリは口元に手を当てる。ミヤコはいまいちイノリの言っている意味がわからなかった。
「つまり、何らかのルールを破ったら、魔法がとけて夢が終わるんじゃないかと思うんだよ」
イノリはミヤコがよくわかっていないことに気づいたのか、補足の説明を設けた。
「うーん、でもそのルールはどうやって探すの?」
「二人でもう一度夢をよく観察したら、何かわかるかもしれない」
そう言うと、イノリは立ち上がる。
「明日、もう一度街へ行こう」
気づけば外は真っ暗だ。といってもミヤコの地元とは違い、街中は看板や店の明かりで昼間のようにまぶしかった。ミヤコは改めて見知らぬ土地に来たことを実感させられる。
その夜、イノリは夢を見た。
全てが『夢見姫』になる前の、元に戻った世界の夢。今の自分が切望する世界だ。もう目なんて覚めなければいいと思った。
しかし無情にも朝はやってくる。なんて幸せで、なんてむなしい夢だろうか。イノリはぼんやりと朝日を見つめていた。