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第十六章憧れの上司が一時帰宅しました

第79話

「はぁーっ……」


携帯を見ながら私の口からため息が落ちていく。

お兄さんが亡くなって龍志が実家へ帰り、もう次の週末がやってくる。

けれど彼は帰ってこないどころか何度メッセージを送っても既読にすらならなかった。


「宇佐神課長、やっぱり連絡なしですか」


「うん、そう」


私が暗いからか、由姫ちゃんが心配そうに声をかけてくれる。


「きっと、忙しくて連絡する暇がないだけですよ。

私も祖父が亡くなったとき、大変でしたもん」


そのときを思い出しているのか、彼女の目が遠くなった。

彼女の祖父は地元ではそれなりに知られた人で、弔問客が多くとても大変だったと聞いている。


「そうだね」


大丈夫だと笑顔を作る。

きっと、忙しいだけ。

そう、自分に言い聞かせながらもなぜか、龍志はもう帰ってこないような気がしていた。


今日も主のいない龍志の部屋へ帰る。


「ただい……」


「おう、おかえり」


ドアを開けると何事もなかったかのように龍志が料理をしていた。

その姿を見て、みるみる涙が浮かんできたが、耐えた。


「……帰ってくるなら帰ってくるって連絡くれたらよかったのに」


彼の胸を拳で叩いて抗議したが、それはへろへろだった。


「すまん、忘れてた」


顔をのぞき込み、すかさず彼が唇を重ねてくる。


「……そんなんで機嫌、直ると思ってるんですか」


「直らないのか?」


「うっ」


心配そうな顔をされ、言葉が詰まった。


「……直りました」


「なら、よかった」


右の口端をつり上げ、彼がにやりと笑う。

まんまと策に乗せられたと腹を立てながらも、ようやく彼が戻ってきたのだと嬉しくなった。


龍志の作ってくれた晩ごはんを食べる。


「実家、大丈夫だったんですか」


「んー、その話はあとだ。

やっと七星の顔を見られたんだから、つまらない話はしたくない」


苦々しげに彼の顔が歪み、少し不安になった。


「ちゃんと料理、してたんだな。

食材、揃ってた」


「あっ、……はい」


褒められてほのかに頬が熱くなる。

料理は龍志と私を繋ぐものだ。

作れば、教えてくれた日々を思い出す。

だからどんなに遅くなっても、作って食べるようにしていた。


「あんま、無理はするなよ」


にかっと彼が笑うだけで嬉しくなる。

たった五日、離れていただけと言われればそうだろう。

けれど私はあのとき、龍志はもうここに帰ってこないのではないかと思ったのだ。

だからこうやって、普通にごはんを食べているだけでほっとした。


食べ終わったあとはいつもどおり、並んで後片付けをした。

これでまた、彼が三十歳になるまでは今までどおりの生活が続けられる。

そう、思ったけれど。


「予定が変わって実家へ戻らなきゃいけなくなった。

すまない」


改まって龍志が私に向かって頭を下げ、なにを言っているのかわからない。


「でも、三十になるまでは自由にしていいって約束だって」


「そのはずだった。

でも、兄貴が死んで俺がそのあとを引き継がなきゃいけなくなった。

すまない」


再び彼が、私に向かって頭を下げる。


「じゃ、じゃあ、会社だけ辞めて、まだここで……」


「七星」


厳しい声で名を呼ばれ、身体がびくりと震えた。


「そういうわけにはいかないのは、わかってるだろ」


「……わかんない」


わかっている、あんな大会社の御曹司で跡取りである龍志は、自分の自由になんてできないのなんて。


「わかんないですよ……」


それでも、わかりたくなんかない。

龍志が私を嫌いになって去っていくなら仕方がない。

でも、家の都合だから?

しかも勝手に約束を破って。


「なんでいつも俺様なのに、こんなときは親に従うんですか?

いつもみたいに俺のやりたいようにやるって言ってくださいよ」


「そうだな」


そっと龍志の腕が、私を包み込む。


「そう、言えたらいいんだけどな」


彼の手は心細そうに震えていて、私の胸を酷く痛ませた。


「……そうだ」


その胸を押して身体を離し、彼の顔を見る。

眼鏡の向こうの瞳は濡れていた。


「いっそ、駆け落ちしましょう?

それで、知らない土地で、ふたりで一からやり直すんです。

きっと龍志ならどこの会社でも雇ってくれますし、私も頑張るから大丈夫ですよ」


「そうだな、それもいいな」


泣き出しそうに彼が笑い、私の目尻を指先で拭う。


「家のしがらみを捨てて誰も知らない土地で七星とふたりで暮らす。

そうできたら幸せだろうな」


「そうですよ。

今すぐ荷物をまとめて、……あ、でも、この時間だと新幹線も飛行機もないかもですね。

朝一で……」


「七星」


私を呼ぶその声は、どこまでも優しく、私を愛しんでいた。

けれどそれが反対に、私の不安を掻き立てる。


「りゅう、じ?」


お願いだから、そうすると言ってくれ。

縋るような気持ちで彼の顔を見た。


「ありがとう。

俺は七星を好きになって幸せだったよ」


なんでそんなに幸せそうに笑って、今生の別れのようなことを言うの?


「なに、言ってるんですか?

これからふたりで、幸せになるんですよ。

どこ、行きます?

逃避行は北と相場が決まってますが、私は寒いの苦手なので……」


「七星」


龍志が私を抱きしめる。


「ごめんな、こんな俺がオマエを好きになって」


「……ほんとですよ」


とうとう、耐えきれなくなって涙が一粒、ぽろりと転がり落ちた。


「こんなことなら龍志なんて、好きにならなきゃよかった」


それは続いてぽろりぽろりと落ち続け、終いには彼の胸に縋って泣きじゃくっていた。


「ごめん。

本当に、ごめん」


私の髪を撫でる彼の手は優しい。

それが一層、涙を誘った。


「仕事やなんかを整理しに戻ってきたんだ。

それでたぶん、一週間くらいはいる」


「……はい」


「それで、実家へ戻る前の一日、七星の時間を俺にくれないだろうか」


どういう意味かわからなくて、彼の顔を見上げていた。

私の手を両手で挟み、彼の親指が私の目尻を拭う。


「最後の、思い出を作ろう」


眼鏡の向こうで目尻を下げ、彼が私を見る。


「……はい」


また出てきた涙に気づかれたくなくて、龍志の胸に顔をうずめた。

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