「はぁーっ……」
携帯を見ながら私の口からため息が落ちていく。
お兄さんが亡くなって龍志が実家へ帰り、もう次の週末がやってくる。
けれど彼は帰ってこないどころか何度メッセージを送っても既読にすらならなかった。
「宇佐神課長、やっぱり連絡なしですか」
「うん、そう」
私が暗いからか、由姫ちゃんが心配そうに声をかけてくれる。
「きっと、忙しくて連絡する暇がないだけですよ。
私も祖父が亡くなったとき、大変でしたもん」
そのときを思い出しているのか、彼女の目が遠くなった。
彼女の祖父は地元ではそれなりに知られた人で、弔問客が多くとても大変だったと聞いている。
「そうだね」
大丈夫だと笑顔を作る。
きっと、忙しいだけ。
そう、自分に言い聞かせながらもなぜか、龍志はもう帰ってこないような気がしていた。
今日も主のいない龍志の部屋へ帰る。
「ただい……」
「おう、おかえり」
ドアを開けると何事もなかったかのように龍志が料理をしていた。
その姿を見て、みるみる涙が浮かんできたが、耐えた。
「……帰ってくるなら帰ってくるって連絡くれたらよかったのに」
彼の胸を拳で叩いて抗議したが、それはへろへろだった。
「すまん、忘れてた」
顔をのぞき込み、すかさず彼が唇を重ねてくる。
「……そんなんで機嫌、直ると思ってるんですか」
「直らないのか?」
「うっ」
心配そうな顔をされ、言葉が詰まった。
「……直りました」
「なら、よかった」
右の口端をつり上げ、彼がにやりと笑う。
まんまと策に乗せられたと腹を立てながらも、ようやく彼が戻ってきたのだと嬉しくなった。
龍志の作ってくれた晩ごはんを食べる。
「実家、大丈夫だったんですか」
「んー、その話はあとだ。
やっと七星の顔を見られたんだから、つまらない話はしたくない」
苦々しげに彼の顔が歪み、少し不安になった。
「ちゃんと料理、してたんだな。
食材、揃ってた」
「あっ、……はい」
褒められてほのかに頬が熱くなる。
料理は龍志と私を繋ぐものだ。
作れば、教えてくれた日々を思い出す。
だからどんなに遅くなっても、作って食べるようにしていた。
「あんま、無理はするなよ」
にかっと彼が笑うだけで嬉しくなる。
たった五日、離れていただけと言われればそうだろう。
けれど私はあのとき、龍志はもうここに帰ってこないのではないかと思ったのだ。
だからこうやって、普通にごはんを食べているだけでほっとした。
食べ終わったあとはいつもどおり、並んで後片付けをした。
これでまた、彼が三十歳になるまでは今までどおりの生活が続けられる。
そう、思ったけれど。
「予定が変わって実家へ戻らなきゃいけなくなった。
すまない」
改まって龍志が私に向かって頭を下げ、なにを言っているのかわからない。
「でも、三十になるまでは自由にしていいって約束だって」
「そのはずだった。
でも、兄貴が死んで俺がそのあとを引き継がなきゃいけなくなった。
すまない」
再び彼が、私に向かって頭を下げる。
「じゃ、じゃあ、会社だけ辞めて、まだここで……」
「七星」
厳しい声で名を呼ばれ、身体がびくりと震えた。
「そういうわけにはいかないのは、わかってるだろ」
「……わかんない」
わかっている、あんな大会社の御曹司で跡取りである龍志は、自分の自由になんてできないのなんて。
「わかんないですよ……」
それでも、わかりたくなんかない。
龍志が私を嫌いになって去っていくなら仕方がない。
でも、家の都合だから?
しかも勝手に約束を破って。
「なんでいつも俺様なのに、こんなときは親に従うんですか?
いつもみたいに俺のやりたいようにやるって言ってくださいよ」
「そうだな」
そっと龍志の腕が、私を包み込む。
「そう、言えたらいいんだけどな」
彼の手は心細そうに震えていて、私の胸を酷く痛ませた。
「……そうだ」
その胸を押して身体を離し、彼の顔を見る。
眼鏡の向こうの瞳は濡れていた。
「いっそ、駆け落ちしましょう?
それで、知らない土地で、ふたりで一からやり直すんです。
きっと龍志ならどこの会社でも雇ってくれますし、私も頑張るから大丈夫ですよ」
「そうだな、それもいいな」
泣き出しそうに彼が笑い、私の目尻を指先で拭う。
「家のしがらみを捨てて誰も知らない土地で七星とふたりで暮らす。
そうできたら幸せだろうな」
「そうですよ。
今すぐ荷物をまとめて、……あ、でも、この時間だと新幹線も飛行機もないかもですね。
朝一で……」
「七星」
私を呼ぶその声は、どこまでも優しく、私を愛しんでいた。
けれどそれが反対に、私の不安を掻き立てる。
「りゅう、じ?」
お願いだから、そうすると言ってくれ。
縋るような気持ちで彼の顔を見た。
「ありがとう。
俺は七星を好きになって幸せだったよ」
なんでそんなに幸せそうに笑って、今生の別れのようなことを言うの?
「なに、言ってるんですか?
これからふたりで、幸せになるんですよ。
どこ、行きます?
逃避行は北と相場が決まってますが、私は寒いの苦手なので……」
「七星」
龍志が私を抱きしめる。
「ごめんな、こんな俺がオマエを好きになって」
「……ほんとですよ」
とうとう、耐えきれなくなって涙が一粒、ぽろりと転がり落ちた。
「こんなことなら龍志なんて、好きにならなきゃよかった」
それは続いてぽろりぽろりと落ち続け、終いには彼の胸に縋って泣きじゃくっていた。
「ごめん。
本当に、ごめん」
私の髪を撫でる彼の手は優しい。
それが一層、涙を誘った。
「仕事やなんかを整理しに戻ってきたんだ。
それでたぶん、一週間くらいはいる」
「……はい」
「それで、実家へ戻る前の一日、七星の時間を俺にくれないだろうか」
どういう意味かわからなくて、彼の顔を見上げていた。
私の手を両手で挟み、彼の親指が私の目尻を拭う。
「最後の、思い出を作ろう」
眼鏡の向こうで目尻を下げ、彼が私を見る。
「……はい」
また出てきた涙に気づかれたくなくて、龍志の胸に顔をうずめた。