翌朝、早い時間に目が覚めた僕は、髪を丁寧に梳いてリボンで結わえ、鏡の前で身だしなみを整えた。そして部屋を出て食堂に向かって歩いていた……はずだった。
それなのに???
「……ここどこ?」
気づくとまるで見覚えのない景色の中に立っている。……もしかしてこれも魔法??
「……いや、きっと迷ったんだ、僕の馬鹿。エルモアかエイダに迎えに来て貰えるようお願いしておけば良かった」
公爵邸でも何度か同じ事があって、そのたびに反省していたはずなのに。
「僕はどうも注意力が散漫みたいだ。もっとしっかりしなきゃ」
反省をしながら周りを見渡すと、そこは温室のような場所だった。
空気は暖かく、色とりどりの花が咲き乱れ、その後には何本もの大きな木が立っている。
「……どうして?僕、外に出てないはずなのに」
急いで寮の中に戻ろうとしたが、どこにも出入り口が見当たらない。こういう時は下手に動かない方がいい。そう判断した僕は、公爵邸で迷った時と同じように、その場にしゃがみ込んで通りかかる人を待つ事にした。
「……そのうち誰か来るよね」
そう思っていたが、いつまで経っても人っ子一人やって来ない。いい加減心細くなってきたところで、真っ赤な花の影に黒い髪が揺れているのを見つけた。
「あのっ!!」
「ひっ?!」
その人はよほど驚いたのか、振り向いた拍子に手に持っていたジョウロを取り落としてしまい、制服のスカートを濡らしてしまった。
「あっ!ごめんなさい!」
僕が慌てて駆け寄ると、そこにいたのは初日に僕の顔を見て逃げ出した黒髪の少女だった。
「えっと……もしかしてノーマさん?」
「は……はい」
確かこの子は……。
僕は記憶を引っ搔き回してエイダとエルモアの言葉を思い出す。そうだ、僕が入学式に意地悪して水を掛けたと言っていたよね!?それなのにまた水を掛けてしまった!
目を隠すように前髪を鼻の辺りまで伸ばしている彼女は表情が読めない。けれど、恐れて怯えているようには見えなかったので、僕は彼女に向かって一歩踏み出した。
「ノーマさんですよね?会えて良かった!ずっと謝りたかったんです。僕……じゃない私、入学式の日に、貴女に酷いことをしてしまったみたいで。それに今だってまた貴方に水を……」
「え?」
ノーマは戸惑いを隠せない様子で僕を見た。
「あの……スカートなら大丈夫です。この制服はすぐ乾くように出来てますから。それに酷いことなんてされてません。私の方こそ……」
あれ?どういうこと?
「ごめんなさい。実は私、ショックな事があって入学式の時の記憶がないの……でも友人たちから私が貴方に水を掛けたって聞いて謝りたくて探してたんだけど……違うの?」
「あの……間違いではないんですけど……」
ノーマは空っぽのジョウロをぎゅっと胸の前で抱きしめている。なんだ?じゃあやっぱり水を掛けたってこと?
「間違いではないんですけど、意地悪されたんじゃないんです!私こそお礼を言わなければならなかったのに、恥ずかしさのあまり貴女を悪者のままにして……後で公爵家の令嬢と聞いて恐ろしくなって、お休み中にお手紙も出せず……申し訳ありません!」
……お礼?悪者にして?一体どういうこと?
「……ごめんなさい、さっきも言ったように私にはその辺りの記憶がないのです。良かったら何があったか教えていただけると嬉しいのですが……」
もじもじしていたノーマは、一つ深呼吸をして意を決したように僕の方に向き直った。
「アメジスト様は何も悪くないのです……むしろ、私を助けてくださって……」
「……え?」
……助けた?ジスがこの子を?
「あの……覚えておられないのならそのまま忘れていただきたかったんですが……」
ノーマは言いにくそうに口ごもりながらも、少しずつ語り始める。
「あの日は談話室に集まって皆でお喋りをしてました。……と言っても主に話していたのは公爵家のご令嬢であるエメルさんで……」
「エメルさん?」
「あ、ドリアータ公爵家のお嬢様です。一つ上の学年に大魔法士様の婚約者であるお姉さまがいらっしゃるとかで、とても勢いのある家門です」
「あっ……もしかして金髪縦ロールで青い目の……」
「そうです。お二人とも外見も中身もとても良く似ていらっしゃるんですよ。……良くも悪くも……」
僕の脳裏に食堂での大騒ぎが蘇った。
それにしても良くも悪くもってどういう意味?
「そのエメルさんが、とてもお話好きな方なんですが、席を立つと不機嫌になるんです。私はこの通り気が弱く何も言えない性格なのでお手洗いに行きたいとも言えなくて……とうとう」
「……とうとう」
あ……
「頭が真っ白になりました。こんな令嬢にあるまじきこと、人に知られたらもうこの学園にいられないと……」
……僕、男の子だけどこの話聞いて良かったのかな。
「その時、横におられたアメジスト様が魔法で私に水をかけてくださったんです。それはもう大量に」
「大量に」
「はい、あまりにも突然だったのできっと気付いてくださったんだと思います。でもそのせいでアメジスト様が皆から悪女だと言われてしまって……本当に申し訳なくて……」
真相は分からないけれど僕もきっとアメジストは気付いてたんだと思う。ハンナたちから聞いたアメジストは本当に優しくていい子だったから。
「アメジスト様、本当に……」
「もういいの、謝罪もお礼ももう十分よ」
「アメジスト様……」
「様もいらないわ。それより良かったら友達になってくださらない?」
「あ……でも私は田舎の貧乏子爵家で……とてもアメジスト様と釣り合わない……」
「あら、お友達に家門なんか関係あります?」
「……アメジスト様お優しい!……私でよければ喜んで!」
ノーマの前髪がサラリと風に舞い、そこから覗いたサファイアのような瞳が感激の涙で濡れている。
……めちゃくちゃ綺麗な子じゃん!前髪もったいない。もっと仲良くなったらヘアスタイルを変えるよう伝えてみよう。
「じゃあこれからよろしくね。敬語もなしよノーマ。私のことはどうぞジスを呼んでちょうだい」
「ええ!じ……ジス?」
恥ずかしそうにノーマが僕に呼びかけると、返事より先に僕のお腹がぐぅと鳴って答える。
は、恥ずかしい!
「ジス?もしかして食事はまだ?」
「そうなの……食堂に行く途中に迷子になっちゃって」
「じゃあ一緒に行きましょう」
「助かるわ」
本当に助かる。救いの神、いや天使様?
そうして僕はその天使様のおかげでようやく遅い朝食にありつくことができた。