正直、初めはエルミヤさんが冗談か悪ふざけでもしているのかと思った。もしくは、また姿を見えなくする魔法でも使って、俺をからかっているのだと。
しかし、いくらその名前を呼んでも、これまであんなに近くに感じられたメガネ魔女の笑顔はもうどこにもなかった。
俺は、目に見えない「隷属の鎖」で彼女の首と厳重に繋がれていた自分の左手首を無意識に見つめていた。だが、もうその先にエルミヤさんはいない。
思えば、エルミヤさんと暮らし始めたのはいつのことだったか。ほんのつい最近だったような気もするし、もう何年もずっと一緒にいたような感じもある。
俺の脳裏にこれまでの彼女との
そして最後の記憶は、彼女の唇の感触である。小さく震える肩を抱きしめ、熱く濡れたエルミヤさんと想いを重ねたのは、時間にすればほんの一瞬のことだった。
――――って、青臭い
俺は、いつもの朝のように飯を食って身支度を済ませると、
株式会社針棒組の事務所は、ちょっとした騒ぎになっていた。まあ無理もない。長らく俺たちと
若頭補佐兼経理部長兼俺の親友、雷門伍道が俺の姿を見つけると、手招きをして会議室の方に呼び寄せた。どうやら伍道は、昨夜からずっと細かな仕事で動いてくれていたらしい。
「昨日は大変だったな、竜司。大丈夫か?」
「ああ。
会議室の椅子に腰かけながら、俺たちは向かい合ってお互いを
「大したこたぁねえよ。それで、まずは泥縄組のほうだがな」
「おう、組長の泥田暴作はどうなった?」
「とりあえず、奇跡的に一命はとりとめたらしいがな。肉体的にも精神的にも再起不能ってとこだ。他に
「ウチの
「無論、了承済みだ。だが、
そりゃそうだ。
「そうか。……で、お嬢の様子はどうだ?」
「ああ、自分の命が狙われてたことも知らずにケロッとしてるぜ。お前とのティバニーデートが相当楽しかったようだな。すっかりゴキゲンで、
「なあ竜司、お嬢と
「何がだ?」
「決まってんだろ、針棒組の次期組長だよ」
「俺がか?」
「少なくとも、お嬢はお前にゾッコンだぜ」
伍道は、俺を指さしながらそう言った。
天涯孤独、任侠道一筋で生きてきたこの俺が、
「まあ、べつに慌てるこたあねえ。じっくり考えりゃいいさ」
「ああ、そうだな」
席を立って会議室を出ていこうとしていた伍道は、振り向いて俺に聞いた。
「そう言やあ竜司、エルミヤさんはどうした?」
「出てったよ」
俺は、一言だけ答えた。
「……そうか、わかった。じゃあ、あの
そう言いながら、伍道は会議室を後にした。てっきり、彼女の失踪のことをもっといろいろと聞かれるかと思ったが、その表情からは何も
伍道が去り、そろそろ自分も席に戻ろうかと思ったその時、突如俺の
「どうした? 亜也子。ずいぶん連絡なかったじゃないか」
通話ボタンを押した俺は、かつて自分の女房だった
「ごめんなさいね、竜司くん。私もいろいろ忙しくて。でもようやく、本格的に
「何の話だ?」
「もお、忘れたの? うちの会社に、竜司くんをヘッドハンティングしたいって言ったでしょ?」
「ああ、そう言やあそんなこともあったな。たしかそれって、お前が買収したっていうゲーム会社だろ? いったいこの俺に何をさせようって言うんだよ」
「ふふっ。竜司くんにピッタリの
「それじゃ、明日の十九時でいいか? 場所は
「わかった。じゃ、またメールするわね。よろしく、竜司くん」
そう言って、亜也子は電話を切った。なんだか俺の未来が、少しずつ動きはじめたような気がした。
続く