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第八話 異世界、行っちゃうのかよ?(一)

 正直、初めはエルミヤさんが冗談か悪ふざけでもしているのかと思った。もしくは、また姿を見えなくする魔法でも使って、俺をからかっているのだと。

 しかし、いくらその名前を呼んでも、これまであんなに近くに感じられたメガネ魔女の笑顔はもうどこにもなかった。


 俺は、目に見えない「隷属の鎖」で彼女の首と厳重に繋がれていた自分の左手首を無意識に見つめていた。だが、もうその先にエルミヤさんはいない。


 思えば、エルミヤさんと暮らし始めたのはいつのことだったか。ほんのつい最近だったような気もするし、もう何年もずっと一緒にいたような感じもある。

 俺の脳裏にこれまでの彼女との生活くらしが、茶褐色セピア調のアルバムのページをめくっていくように、つぎつぎと浮かんでは消えた。



 そして最後の記憶は、彼女の唇の感触である。小さく震える肩を抱きしめ、熱く濡れたエルミヤさんと想いを重ねたのは、時間にすればほんの一瞬のことだった。



――――って、青臭い若造ガキじゃあるまいし。すでに三十歳過ぎのオッサンにして、任侠集団針棒組の若頭カシラともあろうこの軍馬竜司が、いったい何を感傷に浸っていやがる。女が黙って家を出ていった。それだけのことだ。




 俺は、いつもの朝のように飯を食って身支度を済ませると、愛車ハコスカに乗って出社した。ただし、助手ナビ席は空のままだ。

 株式会社針棒組の事務所は、ちょっとした騒ぎになっていた。まあ無理もない。長らく俺たちと縄張シマ争いを続けてきた泥縄組が、昨日の一件で完全に崩壊したのだから。


 若頭補佐兼経理部長兼俺の親友、雷門伍道が俺の姿を見つけると、手招きをして会議室の方に呼び寄せた。どうやら伍道は、昨夜からずっと細かな仕事で動いてくれていたらしい。


「昨日は大変だったな、竜司。大丈夫か?」


「ああ。伍道おまえのほうこそ、いろいろ面倒をかけちまっているようだが」

 会議室の椅子に腰かけながら、俺たちは向かい合ってお互いをねぎらった。


「大したこたぁねえよ。それで、まずは泥縄組のほうだがな」


「おう、組長の泥田暴作はどうなった?」


「とりあえず、奇跡的に一命はとりとめたらしいがな。肉体的にも精神的にも再起不能ってとこだ。他に縄張シマを仕切る者もいないようだしな。泥縄組は解散、潰した後は針棒組オレたちがもろもろを引き継ぐことが正式に決まった」


「ウチの組長オヤジのほうには?」


「無論、了承済みだ。だが、泥縄組ヤツらとウチとはかなり毛色が違うからな。残った組員をウチの傘下に入れることは絶対にまかりならんとさ。ま、今後カタギになるか別の道に行くかは、ヤツらしだいだ」

 そりゃそうだ。泥縄組ヤツら針棒組ウチらがうっかり合体なんかしたら、「泥棒組」になっちまうぜ。


「そうか。……で、お嬢の様子はどうだ?」


「ああ、自分の命が狙われてたことも知らずにケロッとしてるぜ。お前とのティバニーデートが相当楽しかったようだな。すっかりゴキゲンで、組長オヤジにも嬉々として報告してたぜ」

 小虎ことらから話を聞いて、苦虫を嚙み潰したような彼女の父親・針猫はりまお権左ごんざの表情が目に浮かんだ。組長オヤジにしてみれば、目の上のタンコブであった泥縄組が俺一人の手で始末されたことで、小虎との件はプラマイゼロという心境かもしれない。


「なあ竜司、お嬢と組長オヤジの感じからすると、もうほぼ決定って雰囲気なんだが」

「何がだ?」

「決まってんだろ、針棒組の次期組長だよ」

「俺がか?」

「少なくとも、お嬢はお前にゾッコンだぜ」

 伍道は、俺を指さしながらそう言った。


 天涯孤独、任侠道一筋で生きてきたこの俺が、組長オヤジの一人娘である針猫小虎と結婚して針棒組の組長になる――なんて考えたこともなかった。と言えばまあウソになるが、あるとしてもまだまだずっと先の話だと思っていた。


「まあ、べつに慌てるこたあねえ。じっくり考えりゃいいさ」

「ああ、そうだな」


 席を立って会議室を出ていこうとしていた伍道は、振り向いて俺に聞いた。

「そう言やあ竜司、エルミヤさんはどうした?」


「出てったよ」

 俺は、一言だけ答えた。


「……そうか、わかった。じゃあ、あの事務机デスクとパソコンはもういらねえな」

 そう言いながら、伍道は会議室を後にした。てっきり、彼女の失踪のことをもっといろいろと聞かれるかと思ったが、その表情からは何もうかがい知ることはできなかった。




 伍道が去り、そろそろ自分も席に戻ろうかと思ったその時、突如俺の携帯スマホが鳴った。表示された発信元の名前を見て、俺は軽く笑みを浮かべた。それにしても、いつもいきなり電話をしてくるヤツだ。


「どうした? 亜也子。ずいぶん連絡なかったじゃないか」

 通話ボタンを押した俺は、かつて自分の女房だった大森おおもり亜也子あやこに話しかけた。つまりこの俺は、自分の部屋から女に逃げられるのはこれで二回目ということになるのか。


「ごめんなさいね、竜司くん。私もいろいろ忙しくて。でもようやく、本格的に目途めどがついたから、この前話した件をちゃんと説明しようと思ってね」


「何の話だ?」


「もお、忘れたの? うちの会社に、竜司くんをヘッドハンティングしたいって言ったでしょ?」


「ああ、そう言やあそんなこともあったな。たしかそれって、お前が買収したっていうゲーム会社だろ? いったいこの俺に何をさせようって言うんだよ」


「ふふっ。竜司くんにピッタリのお仕事ビジネスよ。くわしいことは、夕食ディナーでもとりながら話すから、今週都合のいい時間教えて?」


「それじゃ、明日の十九時でいいか? 場所は亜也子そっちに任せる」


「わかった。じゃ、またメールするわね。よろしく、竜司くん」


 そう言って、亜也子は電話を切った。なんだか俺の未来が、少しずつ動きはじめたような気がした。




続く



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