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最終章 大人と子ども(2)

なごみは美しいところにいた。そこがどこなのか、何なのか、名前はわからないが、とにかく美しい場所であったことは確かだった。


頭上には淡い水色の空が広がり、足元にはクローバーの白い小さな花が咲き乱れ、柔らかい風がその花弁を揺らしていた。なごみは一人ではなかった。周りには千瀬がいる、花鈴がいる、萌乃がいる、傑も、嵐たちもいる。


みんなで一緒になって、転げ回って遊んでいた。時折傑の唇と自分の唇が触れることもあった。そんな時、なごみはたまらなく嬉しい気持ちになって、心臓が子ウサギのようにぴょんぴょん跳ねた。



 楽しい時間だった。楽しいから、このままずっと、ここでこうしていたい。永遠にみんなと、ここで遊んでいたい。大人になんかなりたくない。そう、わたしはこのままでいい。子どものままでいい。


どうせ大人に戻ったって、大していいことは待っていない。自分が好きで選んだ仕事にだって辛いことはいくらでもあるし、それに寿はあのどこの馬の骨とも知らない、でもなかなかきれいな、年上の人に奪われてしまったし。



「そんなの、ダメよ」



 後ろから声がした。振り返るとなごみがいた。なごみの前に、なごみがいる。なごみがなごみを見ている。七歳の少女の、自分自身の顔にじっと見つめられ、なごみの呼吸が一瞬止まった。



 なごみは大人の姿に戻っていた。二十七歳のなごみの前に、七歳のなごみがいた。二人は何もない真っ白い世界で向かい合っていた。あんなに青く澄んでいた空も、風に揺れる可憐なクローバーの花も、千瀬も傑も嵐たちも、消えていた。


そこには二十七歳のなごみと、七歳のなごみだけがいた。不思議なことだったが、なぜか驚きはなかった。七歳のなごみは二十七歳のなごみに、真剣な口調で語りかける。



「子どもに戻りたいって、ずっとこのままでいたいって、そんなの今まで大人の自分が作ってきたもの、積み上げてきたもの、全部否定しちゃうのと同じだよ。そんな悲しいこと、思っちゃダメ」


「……」


「ここは現実じゃない。あなたが、あなたの頭の中が作り出した世界なの。だからいつまでもここにいてはいけない。早く現実に戻って。大人のあなたに戻って。そして子どもの世界じゃなくて、大人の世界で大人として、生きて」


「……それって、辛いよ」



 七歳のなごみの表情は動かない。二十七歳のなごみは俯いて、自分より二十歳も年下の子どもに弱音を吐くことを、ためらわなかった。



「あなたは子どもだからわからないだろうけれど、大人でいるのって結構辛いんだよ? 思い通りにならないこと、上手くいかないこと、いっぱいある」


「子どもだって、思い通りになることばっかりじゃないよ」


「それはわかる。でも大人になると、それこそ子どもの時の比じゃないの。世の中を作る全てのものが、思い通りにならないことだけで出来てるみたいなの」


「そんなこと……」


「そんなことないって思うでしょ? そんなこと、あるのよ。例えば自分がずっと暖め続けてきた夢で、それをどうにかこうにか叶えたとして、いつも幸せだとは限らない。やめたいって思うこともくじけそうになることもいっぱいあるの。恋だって、上手くいかないよ。わたし、大好きな人に裏切られちゃったんだから」


「それは、寿くんのことを言っているの?」



 聞き慣れた名前が目の前の少女の口から出て、思わず顔を上げていた。七歳のなごみが、二十七歳のなごみに優しく微笑んだ。大人が子どもを安心させるような笑みで、子どもが大人に笑いかけた。



「彼とあの人は、何でもないわ。あなたが見た光景は確かにショックなものだったろうけれど、彼はちゃんと、あそこで踏みとどまった。踏みとどまって、あなたを選んだ」

「……そうなの!?」


「そうよ。今、彼はあなたが戻ってくるのを待っている。一生懸命あなたが救われることを、あなたと生きる人生を、願っている。だから戻ってあげて、彼のためにも」

「……寿」



 久しぶりにその名前を口にした気がした。それだけで涙腺が熱くなるのがわかった。七歳のなごみは、二十七歳のなごみの目が潤むのを黙って見ていた。なごみは慌てて手の甲で涙を拭った。大人が子どもの前で、めそめそ泣くものではない。



「わかった、戻る」

 そこで初めて、子どものなごみが七歳の少女らしくぱっと顔を輝かせた。



「よかった! そう言ってくれなかったら、わたし、どうしようかと思ってたの」

「ありがとう。あなたに会えて話せたからこそ、この決断ができたんだから」


「いいよそんな、お礼なんて」

「ねぇ、戻る前に聞かせて。あなたは一体、誰なの?」



 七歳のなごみがくしゃっと微笑んで目を細くした。歌うような声がした。



「わたしは、あなたよ。七歳の時の、あなたそのもの」



 その言葉をなごみはすうっと、何の抵抗もなく受け入れていた。



 目の前の少女は、七歳の頃の自分……でもあの頃、ほんの小学一年生だったわたしは、こんなにもしっかりしていたっけ。いや、案外本当にこんな感じだったような気もする。


突然母親が亡くなって、下に三人もいる弟妹の母親に自分がならなくてはいけなくなって、掃除や洗濯や料理や、そんな家の中のいろいろのことをする役目が、必然的に長女の自分に回ってきて。


ある意味でその頃のなごみは、二十七歳のなごみよりも遥かに大人だったのだ。子どもらしい気持ちを押し込めて、友だちと遊びたいとかはしゃぎたいとかそういった当たり前の欲望を殺して、父のために弟妹たちのために、頑張っていた。わがままひとつ言えなかった。いつもぴんと気が張り詰めていた。



 そんな子ども時代を送ってきたからこそ、自分は子どもというものに、その自由な生き方に、ひどく憧れを抱いていたのかもしれない。自分ではそれと意識しなくても、子ども時代を楽しめなかったことの後悔が、ずっと心の底にわだかまっていたのかもしれない。


本当は大人になんかなりたくなかった。もう一度子どもになりたかった。大人にならなくてはいけないという気持ちと、子どもを羨ましがる気持ちと、その間になごみはずっと挟まれていた。



 しかし叶うことのないその夢は、子どもになりたいという実現不可能な希望は、あの怪しい占い師によって叶えられた。それはとても幸せなことだった。たとえほんの二ヶ月間のことだったとしても、なごみはちゃんと失った分を取り戻せた気がする。


子どもらしく遊ぶこと、はしゃぐこと、笑うこと、泣くこと、淡い恋に小さな胸をときめかせること。なごみは確実に、失ったものを手に入れた。だからもう、これでいい。子どもの時間は、終わりだ。



「あなた、随分しっかりしているのね」



 大人のなごみが腰をかがめ、子どものなごみと同じ目線になって、言った。子どものなごみは間を入れずに答えた。



「それ、よく言われる」

「寂しくは、ないの?」

「寂しいよ、とても。お母さんが死んじゃって、寂しくない子どもなんて、いるの?」



 七歳のなごみの目がわずかに潤んだ。歳に似合わず、感情を堰き止めようとしているのが二十七歳のなごみにもわかった。泣きたくて、でも歯を食いしばってこらえている。涙を目の中に留めようとしている。子どもは本来、そんなことをする必要はないのに。



「大丈夫よ」



 大人のなごみの大きな手が、小さな手を包んだ。潤んだ瞳が大人のなごみの瞳を見た。



「絶対、大丈夫。寂しいことは、いつまでも続かない。いつかあなたが大きくなって、大人になった時。ちゃんと、巡り会えるから。背伸びしなくても、無理をしなくても、ありのままの自分をそのまま、しっかり受け止めてくれる人に。その人があなたの寂しさを、拭い去ってくれる」


「……それ、本当?」



 なごみは深く頷いた。そして少女の身体をそっと胸に抱き締めた。母親が子どもにするように、慈愛を込めて。


 目の前がかすんでいく。自分たちを包んでいた白い光が、何もない世界が、徐々に遠ざかっていく。腕に包んだ少女の重みだけがはっきりしていた。恐怖はなかった。自分がこれからどうなるのかが、はっきりしていたからだ。


なごみはこれから、大人に戻るのだ。子どもの自分をしっかりと抱き締めて、今度こそちゃんとした大人になるのだ。



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