展示会が終わり、その後片付けでバタバタしているうちに源二の元に保健所から一通の封書が届いた。
「やっぱこの時代でもお役所書類って紙ベースなんだなあ……」
源二がそんなことを呟きながら開封すると、中に入っていたのは紙——ではなかった。
紙のように薄いが、素材はプラスチックなのか透明なシート。しかし畳めば割れたり折り目がついたりせずにフレキシブルに曲がる不思議な感触に、源二が「あー」と声をあげる。
「今のフレキシブルディスプレイってこんなに薄いのか……」
「あぁ? 電子ペーパーだろ? 今時珍しくもなんともねえよ」
透明なシートには微弱な電気信号が流されているのか、光る文字で飲食店ではお馴染みの営業許可証の文言が記載されている。その一部の数字が定期的に更新されており、これはこれで偽造防止や問い合わせの際に利用する
「いやー、こういった書類の本物を間近で見るなんて滅多にできねえからな。ほーん……」
ヨシロウが興味深げに営業許可証を眺めている横で、源二はさて、と手を叩く。
「これで仮押さえしている物件の正式な申し込みができるな」
「? ああ、そうだな」
保健所に飲食店の営業許可を取り付けるには様々な書類提出が必要とされたが、その中でも店舗の図面は特に重要だった。水回りや消火設備などを明らかにしなければ何かあった時の責任問題につながる、と言ったところだが、これに関してはこの時代、店舗予定物件を仮押さえしてその図面を提出することが許されていたので万一許可が下りなかった際のキャンセルはしやすくなっている。
とはいえ、こうやって許可が下りたのなら仮押さえ物件は正式に申し込まなければいけないもの、許可が下りたのにキャンセルしようものならキャンセル料はかなりの額になる。
逆にいえば審査に落ちた場合は仕方ないという理由からかキャンセル料はかからないという親切設計なのでこの時代の飲食展開業のハードルはかなり低かった。
ヨシロウが営業許可証を源二に返し、ヨシロウが椅子に掛けていたジャケットを手に取る。
「じゃ、早速行きますかね」
あの展示会で多くの人間が源二の料理に興味を持った。それなら開業も急いだほうがいい。
源二もそのつもりだったか、ヨシロウがジャケットを羽織る頃には同じくジャケットを羽織り終わっており、二人は並んで玄関に立つ。
「じゃ、行きますかね」
「別に俺一人でもいけるとは思うが——何かあった時は頼らせてもらうよ」
そんなことを言いながら、二人が外に出る。
天気予報ではこの後雨が降るらしく、外はどんより曇っているが空気の匂いを嗅ぐ限りは出かけて帰る数時間くらいは大丈夫そうだろう。
じゃ、傘は持たなくていいか、と二人は不動産屋に向かって歩き出した。
◆◇◆ ◆◇◆
「——はぁ!?」
不動産屋にヨシロウの絶叫が響き渡る。
「おい待て仲介手数料がそんなにかかるわけ——」
「仲介手数料は家賃の一ヶ月分と法律で決まっていますが、敷金、礼金とかクリーニング費用とか色々ありますからねえ」
落ち着き払って答える不動産屋の職員はほら、と見積書の一角を指差す。
「特にこの店舗、以前食中毒事件を起こしていますからね、消毒とか念入りにしておかないと——」
「にしても限度があるだろ」
言い争うヨシロウと不動産屋。それを源二は黙って聞いている。
「借主さんは特にご不満もないようですが?」
源二が黙っていることを肯定と見做したか、不動産屋は勝利を確信したような様子でヨシロウを煽る。
「おいゲンジ、お前も何か——」
《これは明らかにぼったくりだ。とりあえずお前はそのまま不動産屋と言い争ってくれないか?》
「お前も何か言え」とヨシロウが言いかけたところで、源二の声が聴覚に届いた。
(は!?)
通常の電話回線ではない。フレンド登録した上で、一定距離間にいる時のみ使える
電話回線と違って発着信の操作が不要の内緒話モードを使ってくるとは、源二も色々と思うことはあったが不動産屋には知られたくない、ということか。
《今の法律がどうなっているかは分からんが、仲介手数料に関しては適法だ。だが、敷金とかクリーニング代とかでぼったくる不動産屋は俺の時代にも結構あったからな》
(マジか)
「いやでも前に仮押さえした時はそんな話なかっただろ」
ウィスパーで源二とやりとりしつつ、ヨシロウがなんだかんだとゴネにかかる。
こういう時BMSって便利だなあと思いつつも源二はヨシロウに一つ思っていることを確認した。
《ヨシロウ、こういう時は消費生活センターに通報するのが効果てきめんなんだが、そういった組織ってこの時代にあるのか?》
源二の言葉に、ヨシロウは「あー……」と心の中で声を上げた。
「ですから、また食中毒事件起こされると今後の評判に——」
「るせえ、普通そういうのは事件直後に徹底的にやるもんだろうが」
(一応、あるにはあるがこういう手合いにはあまり効果ないぞ?)
《そんな気はした。いや、待てよ——》
源二が何かを考え始めたようだが、ヨシロウは源二とは
思い当たることがあるならさっさと考えてくれ、と急かしつつも、ヨシロウはヨシロウでふと気になることがあった。
——いや待てこの不動産屋、明らかに悪徳なのに俺が把握していないってどういうことだ?
クリーンな不動産屋ならヨシロウが把握していなくても納得できる。清廉潔白な企業なら手数料の吊り上げなど行わないし、そういう企業は裏社会も関わらないと決めている。しかし悪徳企業は大抵裏社会——何かしらの反社勢力の後ろ盾があるもので、そこに上納するための資金を得るためにさらに悪どい商売に走る、というのが定番である。
つまり、この不動産屋は何かしらの反社勢力と繋がっている。ただ、それは
(おいゲンジ、話を変われ)
《えっ》
え、今ここで変わるのか? という源二の言葉をスルーし、ヨシロウは源二に目配せする。
(ちょっと調べたいことがある。三分、任せられるか?)
《それくらいなら、まぁ》
(どうせ借主はお前なんだ、お前がはっきり言えば話は多少変わるかもしれん)
《……分かった》
ヨシロウに言われて、源二も腹を括ったらしい。
「しかし、それでも消毒費用に百万とかぼりすぎじゃないですか」
源二もすっ、と見積書の一角を指差し、指摘を始める。
「聞いたところ、不動産会社が扱う消毒液は市販のもので、普通に購入しても数千円で済みますし、そこに業者を挟むとしても数万円が関の山。どのような薬品を使用するのか、どの業者を使うのか、明細を出していただきたいです」
「ぐっ」
まさか、今まで黙っていた源二が口を挟むとは思っていなかったのだろう。しかもかなり鋭い指摘に、不動産屋が思わず呻く。
「そ、それは——」
「たまに聞くんですよね、仲介手数料自体は法律で決められているからそれ以外の手数料で小遣い稼ぎをする悪どい不動産屋の話」
まさかここがそうだというんじゃないでしょうねえ、と表情を変えずに凄む源二に、ヨシロウは内心「怖っ」と呟く。
源二が怒ったところは見たことがないが、こいつは怒らせると絶対怖い奴だ、などと考えながら、ヨシロウは机の下で素早く指を動かす。
まずは不動産屋の法人登記簿。そこから裏ルートを使えばこの不動産屋がクリーンな企業か、どこか反社勢力と繋がっているかを調べることができる。
——む、白鴉組がケツモチしてないな。
トーキョー・ギンザ・シティを裏で牛耳る反社勢力——ヤクザといえばいくつかのグループが存在しているが、最大手は白鴉組である。ヨシロウもよく世話になる組だし、この近辺は白鴉組のシマのはずだ。
白鴉組がケツモチをしている不動産屋なら、そもそもヨシロウは顔パスである。初めて相談に行った時から相手がヨシロウを知っている様子ではなかったからてっきりクリーンな不動産屋だと思っていたが。
まさか、とヨシロウがさらにネットワークを潜り、バックについているヤクザがどこかを洗い出す。
——
うわあ、やべえ、などと考えつつも、ここでヨシロウがすることといえば一つだけ。
即座にメールを作成、白鴉組に通報する。
電話は掛けない。電話はウィスパーと違い、通話ステータスが相手に開示されてしまう。
(ゲンジ、時間稼ぎご苦労。あと数分、二人で保たせるぞ)
《警察に通報したのか?》
源二が確認してきたのは「法外な手数料だが違法ではない」と判断したからか。
それに対しヨシロウは表情を変えることなく、口調だけは悪びれた様子で、
(もっといいところ、だ)
と説明した。
《はぁ》
納得したような、納得していないような源二の返答。
大丈夫だ、とヨシロウはほんの少し頷いてみせ、
「あー、俺も調べた。この近隣の不動産会社と契約してる清掃業者って『ホワイト・バニッシュ』だろ? あそこ早くて丁寧で安いって評判のとこじゃねーか。ぼってんじゃねえよ」
と、源二に加勢した。
流石に二対一となると形勢が逆転したか、不動産屋もたじたじとなっている。
時々オフィス内を見回して助けを求めようとするものの、ここで下手に助けに入れば逆に怪しまれると判断したのか、誰も助けにこない。
そうするうちに。
「こーんにーちはー!」
突然、乱暴にドアが開け放たれ、数人の男がオフィスに乗り込んできた。
「あ、あの、どういうご用件で……」
恐る恐る受付の女性が対応するが、男たちはそれに介さず中へと入っていく。
「はい、こちら白鴉組でーす。うちの許可を得ずにアコギな商売やってると通報受けまして来ましたー」
先頭の男が指を鳴らす。その目の前に白いカラスを意匠に使った代紋が浮かび上がる。
「シマを荒らす奴にはお仕置きしないとなぁ!」
「は、早く早房組に——!」
凄む男に、職員の一人が別の一人に指示を出すが、それを見逃す男——白鴉組の若い衆ではない。
あっという間に連絡しようとした職員の首根っこを掴み、オフィスの真ん中へと引き摺り出す。
そうなってしまえば不動産会社ももうどうすることもできなかった。
白鴉組によって全ての権利書を奪われ、「もうここでは商売しません」という念書を書かされ、不動産屋の面々は途方に暮れた状態でオフィスを追い出されてしまう。
「——で、イナバ」
全てが終わり、白鴉組の男がヨシロウに声をかける。
「お前、ほんっと外れくじばかり引いてるよな」
今度は何だよ不動産トラブルか? と茶化す男に、ヨシロウが肩をすくめて見せる。
「まぁ、そういうこともあるさ。今回は助かったよ」
「今回は早房組のシマ拡大を防げたからそれでチャラだ——で、こいつが今回お前が面倒見ようとしてた奴か?」
ヨシロウと軽く挨拶を交わした男が源二を見る。
「すまんな、俺たちヤクザもののゴタゴタに巻き込んで。今回は迷惑料ってことで仲介手数料だけ払ってくれたらいい、ここの不動産はうちが引き継ぐからな」
「いや、敷金礼金くらいは——」
手数料ぼったくりから一転、仲介手数料だけでいいと言われた源二が慌てて手を振るが、男はいいからいいからと契約書のデータを源二に送る。
「本当は仲介手数料も無料にしたいんだがな、そこは法律で決まってるからそれだけはな」
「……」
ヤクザ相手にごねてはいけない。ましてや、向こうが「迷惑料」と言っているのだからそれを断るのはヤクザのメンツを潰すことになる。
もう既に裏社会に片足を突っ込んでいる源二にはそうする選択肢はなかった。
「分かりました。そのご厚意、ありがたく頂戴します」
そう言い、源二は店舗の賃貸契約書にサインをするのだった。