目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報

第9話

「今なら間に合うぞ。私の元へ来い。そのまま這いずってくるのだ。私に触れれば、お前はただの人間として闇に蝕まれるのではなく、妖怪として全ての種族を蹂躙できる存在になる。私たち九尾はそうあるべきなのだ」

「九尾……」

「ああ、ああ、なんと愉快な事か。まさか封印されてからこんな愉快なものを見れるとは思わなかったぞ。お前の絶望が手に取るようにわかる。そうか、私やクスコの過去ではなく、お前のトラウマを見せればよかったのか。人間とはわからぬものだ。妖怪の地獄よりも、人間同士の他愛ない会話が地獄に感じていたとは露ほども理解できん」

「地獄……」

「ああそうだ。楠葉。人間と言う種族で居る限り、お前が今味わっている絶望と言う地獄は延々と続く。そこから逃れたくば、来い。私の傍に来るのだ。そして私に触れて封印を解け。さすればお前は人間という地獄から解き放たれ、自由な九尾へとなれるのだ」

「自由……」


 まともな返事が出来ない楠葉は、苦埜が紡いでいく言葉の中にある単語を摘み取ってオウム返しをしていた。

 もう、まともに目も開けていられないほど楠葉には疲労感が襲い掛かっており、ゆっくりと頭を下ろし額を地面につけた。


(私は、どうしたいんだろう)


「考える暇などないぞクスハ。もう時間はない。闇に蝕まれて無力な妖怪になるのではなく、私と共に頂点の九尾となるのだ」


 考えたいのに、苦埜が甘い言葉をささやき続けるから楠葉の思考はすぐに静止させられる。

 しかし、時間がないという言葉は正しかった。

 楠葉を蝕む黒い糸は、もう顔の半分を黒く染め上げていた。そのため、楠葉の片目は黒く覆われていて、視界もかなり狭まっている状態へとなっていたのだ。


(ああ、ダメだ。本当に時間がない。このまま妖怪になったら私はどうなるんだろう?今まであった辛いことを全部忘れられるのかな。それだったらその方がいいや。だって、私の人生はずっと辛くて、運命の人なんて――)


 そこまで考えてから、ふと楠葉は自分の指に光る金色の糸を視界に入れた。

 色はかなり薄くなっているが、狭まった視界の中で唯一輝く金色は、楠葉の視界をゆっくりとぼやけさせた。


「何をしている。早く来いクスハ」


 苛立ったように苦埜が言った。

 今の状態になってしまった楠葉は苦埜に触れて九尾となった方が楽になるのは間違いないだろう。

 楠葉もそれは理解していた。

 けれど、金色の糸が目に入った瞬間。

 楠葉は、忘れたくない思い出がたくさんあることを思い出していた。


(九尾になる方を選べば忘れずに済むかもしれない。だけどそしたらきっと、二度と戻れない。私がどうしても一緒に居たいと思った人と、一緒にいれなくなってしまう。そんなことになるぐらいなら、私は辛さも悲しさも全部飲み込む。だって)


「会いたい」

「何?」


 楠葉の呟きに苦埜が訝し気に言葉を投げかけた。

 それに対し楠葉は、今までの疲労感を少し忘れて顔を上げ、真っ直ぐと苦埜を見据えた。例え倒れたままでも、妙に意識がハッキリしてくるのを感じていたのだ。


「苦埜。あなたはもう二度と元のあなたに戻さない。あなたはもう、二度と私を手に入れられない。今その状況が、全ての答えよ」

「ハッ、今にもくたばりそうなお前が何を言う。ならお前はそのままくたばると言うのか」

「そうかもね」

「……何?」


 楠葉の答えが意外だったのだろう。

 先ほどまで余裕そうに見下していた表情が一変し、驚愕の色へと変わっていた。


「私をこのまま縛り付けるために、お前は死ぬというのか」

「さぁ、どうなんでしょうね」

「お前は一体何が言いたいのだ?」


 段々と、苦埜の言葉が苛立ちを帯び始めていた。

 そんな苦埜に対し、楠葉はにっこりと微笑んでみせた。


「わかんない。ただね」


 楠葉は一度目を閉じた。

 咄嗟に浮かぶ、運命の人を瞼の裏で鮮明に浮かべて。

 そして、瞼を持ち上げた楠葉は。

 思いをのせた言葉を紡いだ。


「もし、私がここで何も出来なくてもね」


 喋るだけで息が切れる。それでも、楠葉は笑顔で言葉を続ける。


「きっと、貫がなんとかしてくれるもの」


 そう言った瞬間。

 楠葉の視界が変わった。


 目の前に、貫が居るのだ。

 それだけでなく、なんと唇が重なっていた。

 まるで、結婚式の時幻惑から目が覚めた時と同じように。

 その時は驚いて仕方がなかった。

 けど今は。

 幸せで胸がいっぱいになった楠葉はその唇を受け入れ、貫の首に手をまわした。

 すると、貫がピクリと震え、唇を離した。

 それが名残惜しく思ってしまった楠葉だが、唇を離した貫は驚きの表情でこちらを見ていた。

 相変わらず精悍な顔立ちをした愛しい人は、どんな表情でも愛しく輝いて見える。

 もしかしたら楠葉はもう死んでしまったのかもしれない。

 だからこうして、愛しい人と触れ合える幻覚を最後に見ているのかもしれない。

 そう感じた楠葉は、驚いている貫の頬に手を伸ばし、そっと挟む。

 そうして彼の肌の温かみを感じながら、黒い瞳を覗き込み。

 楠葉は、笑って、告げた。


「えへへ、大好き」




この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?