帰りの電車に揺られながら、僕は顔面蒼白になっていた。
レオさんに読んでおけと命じられた、封筒のQRコードから飛ぶ、電子マニュアル。
スマホで開いたそれに、ほとんどの謎の答えが書かれていたからだ。
まず最初の気付きが、いきなりトップページにあった。
スマホ画面半分を占めるほどの大きさで、表示されてるロゴ。
看板に描かれていたのと、同じデザインのものだ。
注目すべきは、「けも耳」と「CAFE」の文字の間にある☆マーク。
☆の空間の中に、看板では見落としていた「BL」の2文字が踊っていた。
つまり、あの店の正しい店名は、「けも耳BLカフェ」。
BLという単語の意味くらい、非ヲタの僕だって知っている。
要するに悪の巣窟の正体は、けも耳の男性同士の恋愛劇をコンセプトに、BLをこよなく愛する女性をターゲットとしているカフェだった──という事だ!
(だからか……!)
やたらとスキンシップしてくる先輩キャスト達。
見せ物のようなポッキーゲーム。
それらの様子を眺めてニヤニヤするお客さん達。
全部のつじつまが合った。
(とんでもないバイト先を紹介してくれたな、美羽ちゃんめ……!)
心の中で恨み言をこぼしながら、画面をスクロールしていく。
「当店ではお客様に、キャストとの店外での交流、連絡先交換(SNS上での交流は可)、キャストとのスキンシップ、キャストの無断撮影を禁止しています」
こんな感じで、注意事項のような項目がしばらく続いている。
意外とルールがしっかりしてるんだな、なんて感心していたけれど、最後の項目を読んで、ぎょっとしてしまった。
「キャスト同士の恋愛は自由ですが、店内での性行為は禁止です」
キャスト同士とは、すなわち男同士。
おまけに性行為だなんて、そんな事があり得るのだろうか。
いや、BLをコンセプトにしているお店だから、逆にあって当然なのかもしれない。
それに今は多様性の時代だ。
僕の古い価値観もアップデートしなければ、きっと流れに取り残されてしまう。
実際に僕自身も、美形な先輩キャスト達に囲まれた時に、ほんのちょっぴりだけれど、妙な胸の高鳴りを感じた。
レオさんとのポッキーゲームの時だってそう。
(あれ? 僕の感覚って普通なの? それともどっかおかしくなった?)
考えれば考えるほど、アイデンティティが揺らいでくる。
胸のもやもやと思考のぐるぐるで、精神的限界を迎える寸前、電車が寮の最寄り駅に到着した。
今日はもうこれ以上、悩みたくない。
改札へ向かいながらイヤホンを装着し、アプリで適当な洋楽を流す。
英語の歌詞の知らない曲は、思考を遮断するのにぴったりだ。
おかげで寮までの徒歩8分の道のりを、穏やかな感情で歩けた。
しかし寮が見えてきた辺りで、不穏な気配が漂い始めた。
空気がなんとなくコゲ臭い。
寮の前の道に、大勢の野次馬と、消防車が5台も並んでいる。
(え、火事? うちの寮⁉︎)
イヤホンを外し、早足で近付いていくと、寮内のカフェテリアでたまにお喋りする知り合いが、路上に集まっていた。
僕の姿を見つけた一人が、険しい表情で手招きしてくる。
「どうしたの? 火事? どの部屋から?」
「いいか、瀬戸くん。落ち着いて聞いてくれよ」
投げかけられた枕詞に、悪い予感しかしない。
「瀬戸くんの部屋、たぶんダメだわ。真上の部屋から火が出て、もう鎮火したんだけど、消火活動でバンバン放水してたから……」
やっぱり的中した。
身構えてはいたけれど、実際に聞かされたら、なかなかショックだ。
(どうして僕ばっかり、今日一日でこんな立て続けに不幸が……)
全身の力が抜けた僕は、へろへろとその場にしゃがみ込んだ。
心を支配している虚無感に、少しずついろいろな感情が混ざってくる。
悲しみ、憤り、怒り。
それらがお腹の中で合体して、魂の叫びとなって、僕の口から放たれる。
「なんて日だ‼︎」
僕が子供の頃にちょっと流行った、お笑い芸人の持ちギャグのフレーズだ。
笑いを取ろうとしたつもりはない。
大真面目に最適な言葉を選んだだけだ。
こだまする残響の中、顔見知り達が小さく吹き出した後、慌ててごまかしの咳払いをした。
✼••┈┈┈┈••✼••┈┈┈┈••✼
「よお晴真、大変だったらしいな!」
午後から大学に行くと、僕を見つけた大崎くんが、豪快に笑いながら近付いてきた。
昨夜イケメンばかり目にしていた反動だろうか。
大崎くんの個性的でユニークな顔が、まるで赤ちゃんのようにチャーミングに感じる。
「大崎くん、君はそのままの君でいてね?」
「なんそれ。てか、火事で部屋水浸しって、夜どうしてたんだよ?」
「ネカフェに避難したよ。部屋の中の物、全部ダメになってて、もう最悪」
午前中いっぱいを使って火災保険の会社と連絡を取り合って、分かった事がある。
僕はどうやら、ケチって一番お安い火災保険に入っていたせいで、最低限の補償しかしてもらえないらしい。
出火元である上の部屋の住人も、同じような契約内容だった。
だから服やら教材やらの私物は、自腹で買い直すしかなくて、おまけに被害を受けた寮備え付けの家具家電の賠償も、僕がしなければならないそうだ。
つまり僕は、けっこうな額の借金を背負ってしまったも同然。
自分自身に非がないのに、理不尽すぎる仕打ちだ。
火事関連の事を考えていると、悲しくて悔しくて、目頭が熱くなってきてしまった。
「おい泣くなよ! 気持ちは分からんでもねえけど」
「だって、ううぅ~……!」
僕の涙を止めようと、大崎くんが懸命に頭を撫でてくれる。
そんな僕達の様子を、聞き慣れた声が楽しげにからかってきた。
「ま~たイチャこいてる。仲良いねぇ、お二人さん!」
美羽ちゃんだ。
僕はこの子に問いたださなければいけない事が、たくさんある。
「美羽ちゃん、ちょっと!」
雑に涙を拭い、美羽ちゃんの手首をつかんで、人気のない廊下の隅っこに連れて行く。
「どしたの瀬戸くん。ていうか、カフェどうだった?」
「その話するつもりだったんだよ。なんなの、けも耳BLカフェって!」
さっきまでの悲しみが、美羽ちゃんの顔を見てすぐ、怒りに変わっていた。
だからちょっとキツい口調になってしまった。
それなのに美羽ちゃんは、けろりとした顔で明るく返してくる。
「初めに説明したじゃん、アタシの行きつけのカフェだって。アタシ腐女子っていうか、腐ギャルなんだよね~!」
訊き方が悪かったのか、ピントがずれた返答だ。
「そうじゃなくて、なんで僕をあんな店に紹介したのかって訊いてるんだよ」
今度はちゃんと通じるように、明確な言葉を選んだ。
すると途端にデカ目カラコンが、右に左にと泳ぎ始める。
「いや、受けのキャストが足りないって聞いて?
アタシの周りで受けっていったら、瀬戸くん一択じゃん?
だから写真見せたら、レオさんに「こいつ連れてこい」ってご指名入って?
紹介して採用されたら割引券くれるって話で、的な……」
受け云々は置いておいて、美羽ちゃんの話をまとめると、つまり──。
美羽ちゃんとレオさんの間で、僕を巡って人身売買のような契約が成立していた、という事らしい。
真相を知って、僕は大きな溜め息をつくしかなかった。
「えっと、瀬戸くんごめんね?」
「いいよ……。不本意だけど、すぐ働き始められる場所があるの、ありがたい状況になっちゃったから」
まさか自分が借金を背負う羽目になるなんて、一日前には夢にも思っていなかった。
さらには僕がけも耳カフェで働く事が、予め仕組まれていただなんて、予想すらしていなかった。
再び暗い気持ちになった僕は、美羽ちゃんを残し、のろのろとその場を離れた。
ものすごく気が重い。
あと数時間後に僕はまた、あの悪の巣窟で犬の垂れ耳をつけて、セクハラを受ける事になるのだから。