目次
ブックマーク
応援する
6
コメント
シェア
通報

6-2

 ――おれは、今はもうべつに、寂しいとか、悲しいとか思ってない。おれには母ちゃんがいるからさ。あと、父ちゃんは最初っからいないことにした。それでいいんだ!


 あれはまだ――。一星が幼稚園にかよっていた頃の話。一星は来る日も来る日も、寂しい日々を送っていた。一星は母とふたり暮らしだったが、母はあまり一星には興味がないようで、いつもケータイを持って、誰かとメールをしたり、電話をしたり、忙しそうにしていて、一星はあまり構ってもらえなかったのだ。


 ただし、彼女が仕事をしていたのかどうかは定かではない。今から思い返しても、仕事に明け暮れるとか、必死に働くとか、そんなふうではなかったように思う。


 母は、どうしてか、男には相当モテたようで、父がいなくても、わりといつも楽しそうにしていた。中には、金銭的に援助をしてくれた男もいたようだ。


 付き合っていた男は複数人いて、デートに行く日、彼女はいつもお気に入りの香水をつけて出かけていった。その匂いは、今も嫌になるほど強く、記憶に染みつくように残っている。ただ、「新しいパパ」として、紹介されたのは、ひとりだけ。あとにも先にも、源太郎だけだった。それを思えば、母は案外、男を見る目はあったのかもしれない、と思ったりすることもある。


 太郎が家にやって来てから、一星の寂しさはいくらか軽減された。太郎はまだ幼い一星を不憫ふびんに思ったのか、よく構って、遊んでくれたからだ。母も最初は、そんな太郎の優しさにれていたのかもしれないが、太郎が常に一星を優先するのは、おもしろくなかったようだった。


 母はある日、手紙を置いて、太郎と一星を残して出て行った。「私を一番大切にしてくれる人のところへ行きます」と、手紙にはそう書かれていた。


 残された一星は、まず泣いた。母とのいい思い出なんか、ほとんどなかったが、それでも当時の一星にとって、母は母だった。父はいないと、はなから理解していても、太郎を父だとはまだ思えなかったし、もともと、父がいなかったことから、そのうち太郎もどこかへ行ってしまうのだろうと思ってすらいた。けれど、母は、母なのだから、どんな母だとしても、消えることはないと思っていたのだ。だから、途方に暮れた。ただ、途方に暮れて、泣くしかなかった。だが、太郎はそんな一星を抱きしめて言ったのだ。「大丈夫、僕がいる。僕はきみと一緒にいるからね」と。


 あの言葉と太郎がいてくれたおかげで、ひとまず、一星はひとりぼっちにはならずに済んだ。彼のおかげで無事に小学生になれたし、ランドセルもピカピカのを買ってもらった。


 だが、母に捨てられたという感覚だけは残っていたし、寂しさが消えることもなかった。太郎はその頃、近所の接骨院に勤務していて、当然だが、留守をすることも多かったのだ。


 太郎がいないときには、彼の後輩で、部下でもある、猛がよく一星の面倒を見てくれたが、ちゃんと見守られていても、ひとりで遊んでいると、やはり、ふとした瞬間に猛烈に寂しくなるもので、こっそり涙をこぼすこともあった。ちょうど、そんなときだ。一星はひとりの少年に出会った。


『なんだぁ、お前。誰かに泣かされたのかよ?』


 彼はそう言って、公園でひとりで遊んでいた一星に声をかけてきた。鼻水をすすり、頭はもじゃもじゃで、だが、とてつもなく気の強そうな少年だった。一星はどちらかといえば内向的なほうだったから、初見で「怖い」と感じたのを覚えている。それが、風太だった。一星が無言のままかぶりを振ると、風太はしゃがみ込んで一星の顔をのぞいた。


『違うのか。じゃあ、なんか嫌なことがあったとか?』


 風太はそういた。まるで、おれが話を聞いてやろうか、とでも言うようだった。一星はそばに猛がいないことを確認して、こわごわ話した。――たしか、猛はあのとき、元気のない一星を喜ばせようと、ジュースを買いに行ってくれていたのだ。


『お母さんがね、いなくなったんだ。今はお母さんのなかよしだった人と一緒にいるけど、でも、また捨てられちゃったら、どうしようと思って……。僕、お父さんもいないから……』


 ふるえる声で、そう答えた。一星はその時、おそらくはじめて、自分の心の内を言葉にした。小学校に上がってからは、太郎や猛に心配をかけないようにしなければいけないと、いつも気丈にしていたからだ。そうでなければ、一星はまた捨てられてしまうかもしれない、今度こそひとりぼっちになってしまうかもしれない、と思っていた。だから、寂しくても、絶対に弱音を吐かないようにしていたわけだ。すると、一星の言葉を聞いて、風太は言った。


『でも、そのなかよしの人がいんだろ。うちも父ちゃん飛んじゃったからさ、母ちゃんしかいないぜ』

『そうなの? お父さん……、飛んだって、なに……?』

『どっか行っちゃうってこと。クソヤローだったから、いいんだってよ』

『クソヤロー……』


 子どものわりに、妙な言葉遣いをする少年に、一星はすぐに好奇心を持った。今から思えば、それは、雅に影響を受けた、ただのヤンキー言葉だったのだが、ひょっとしたら、千葉弁も多少入っていたのかもしれない。


 風太は、手に持っていた手作り感たっぷりのおもちゃの刀を持っていて、それでときどき、一星に「べしッ」とか「ざしゅッ」と言って、遊びで攻撃をくり返しながら、話してくれた。


『クソヤローな父親はさ、いねえほうがよっぽど家ン中が平和なんだって。母ちゃん言ってたぜ。……ざしゅッ』

『そうなんだ……。で、でも、寂しくないの?』

『全然。お前だって、なかよしの人が一緒にいるなら……でしッ、いいじゃん』

『うん……、で、でも……、ほんとのお父さんじゃないしさ……』

『ほんとじゃなくても、一緒にいるなら、家族じゃん』

『家族……』

『おれは今はもうべつに、寂しいとか、悲しいとか思ってない。おれには母ちゃんがいるからさ。あと、父ちゃんは最初っからいないことにした。クソヤローだったからな。うちは、それでいいんだ!』


 にかっと笑って、風太はそう言った。そうして、また、おもちゃの刀で一星を遊びで斬りまくってから、「おれ、ふーたっていうんだ。今度、お前にも刀、作ってやるからさ。チャンバラやろうぜ」と誘ってくれた。

この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?