ノゾムがいつものように家を出ると、同じクラスのミライと出会った。ミライはどんな時も冷静でしっかり者。少し遅れて二人のところへ元気なユウジが駆けてくる。
「おはよう、ユウジ、ミライ!」
ノゾムが笑顔で挨拶をすると、
「おう、ノゾム!さぁ元気に行こうぜ!」
「おはよう、ノゾム。今日も明るく元気に過ごしましょう」
と二人が挨拶を返してきた。そして、三人で「今日もいい一日になりそうだね!」と声を合わせる。これは学校で推奨される「一日のスタート笑顔」だった。
ノゾムの住むエコロ・シティでは、街往く誰もが笑顔で過ごし、誰もが幸せそうに暮らしており、ノゾムもそんな街で、元気いっぱいの日々を送る小学5年生だった。
高度な科学技術が発達し、世の人々は利便性を求めて世界中でオートメーション化が進んでいた。仕事上の付き合いや友達付き合い、家族の触れ合いもマニュアル化され、人々は煩わしいコミュニケーションから解放されてストレスのない平和な世の中を生きることができるようになっていた。そして、政府は「笑顔」だけは常に絶やさぬようにする法律を決めた。著しい違反者には厳しい罰則も設けている。
かつて、人類は、かつて民族間の感情のもつれが原因となって世界的な混乱を引き起こし、そして愚かしい破滅的な行為に突き進んでしまった。その反省から、政府は感情を制御する政策を取ったのだ。
もっとも、「笑顔は平和と調和を象徴する感情表現であり、みんなが幸福になれる素晴らしい表現なんだよ」と授業ではやや道徳的色合いが強い言い方をするけれども。
学校へ行く通学路の途中、三人は街の中央広場を通る。そこには巨大な笑顔を模したモニュメントがそびえ立っている。
モニュメントは、すぐ傍にモニター表示機能を備えた像とつながっている。モニターには「昨日の笑顔:112358
「うへ、昨日のwara、すげえ数じゃん。みんな笑笑、幸せいっぱい!」
とユウジが笑いながら茶化すように言った。
「でも、今の市長さんがみんなのためにこの像とかモニターを作ったんだよね。何か大事な考えがあるんだって。そんな風に言ったら駄目だよ」
ミライが笑顔で反論する。
ノゾムたちの住むエコロ・シティの中央広場のど真ん中に建つ、笑顔をかたどった奇妙なモニュメント。
このモニュメンは新しく市長に選ばれたやり手の市長が、政府の方針を積極的におし進め、強引に作成設置したものだ。
モニュメントは市民の笑顔を感知するようにできており、備え付けられたメーターに「本日の笑顔」と表示され、集まった笑顔数が示される。
ノゾムたちの住む市は、もともとは「ヒガシズミ市」という名称だった。市長に当選した市長が、就任したのちに「笑顔溢れる街にしたい」という号令のもと、「笑心(エコロ)」という名称に変え、「エコロ・シティ」という市が誕生した。
「集まれ集まれ、みんなの笑顔、アハハ」
とユウジが可笑しそうに言う。
「でもさ、笑顔を数えるなんて、必要あるのかな?」
ノゾムは素直に思ったことを口にした。
「笑顔は大切だよ」
と念を押したミライの言葉に、ノゾムは歩きながらみんなが笑顔でいることの意味を考えていた。
ノゾムは普段から「みんなの役に立つ大人になって社会に貢献したい」と考える、いわゆる優等生的な生徒として周囲から見られていた。実際にノゾムもそうなれることを強く望んでいた。
ノゾムの家庭では、両親が「他人を助けることが大切だ」と常々話していた。ボランティアなど周囲に親切を惜しまない優しい性格の両親を見ながら育ち、「自分もこんな風に人のために尽くせる大人になりたい」と自然と感じるようになっていた。
ノゾムにとって、学校授業の日常は特別なものではない。
が、今日の彼の心のどこかにはいつも小さな疑問が渦巻いていた。
翌日、ノゾムたちのクラスは、市内にある大きな工場への社会科見学に出かけた。
精巧な機械の部品を組み立てることで有名なメーカーの工場では、歯車などのパーツが次々と作られる様子を工場長に案内されて見学した。働く工場の作業員も常に笑みを絶やさず和やかに作業が進行していく。
「この工場は、こんな細かい部品を高いレベルで作れるんです。どうしてだと思いますか。わかるかな」
と引率の担任教師が一人の生徒を指名する。
「はい!工場の技術も素晴らしいと思うんですけど、作業している工場の人たちがみんな楽しそうに部品を作っているからだと思います!」
その答えを聞き、満足そうに頷いた工場長は、
「その通りです。大人になったらこうやって世の中の人たちの役に立てるよう、自分ができることを一生懸命しましょう」
と生徒に向けて笑顔で話す。
見学が進み、クラスメイトたちが歓声を上げる中で、ノゾムは奥にある閉ざされたドアが気になった。他の扉が「○○製造部」と書かれているのに対し、何か物々しい感じのぶっきらぼうで頑丈な鉄扉で閉ざされているのだった。
「ねえ、ミライ、あれ何を作ってるんだろう?」
とノゾムが小声でミライに尋ねた瞬間、ドアが勢いよく開き、1人の作業員が飛び出してきた。男の被っていた作業帽子が飛び、男は髪を振り乱しながら叫んだ。
「これは!こんなのは違う!笑顔なんかじゃない!人間の心を駄目にしてるんだ!」
一瞬騒然となった生徒たちだったが、すぐに飛び出してきた作業員に対してみんな笑顔で面白そうに笑い声をあげる。
工場長はにこやかな笑顔を崩さず、
「おやおや、これはいけませんね。今日は大事なお客さんが見学にみえているのに。ちょっと働きすぎかな」
作業員の表情は明らかに恐怖と混乱に歪んでいた。一人が慌てて工場内に備え付けられた内線電話でどこかに連絡した。男はノゾムたちに向かって叫ぶ。
「笑顔が幸せだって⁉君らはこれを見てそう思うか⁉」
男は自分が飛び出してきた部屋の扉を力一敗引き開けた。
そこに広がる光景にノゾムは言葉を失った。
無数の作業員が機械的な動作で作業を続けている姿。彼らの表情には感情が一切なく、ただ命じられたことを淡々とこなしているだけだった。机の上には試験管やフラスコが並び、光る液体が絶えず混ぜられている。その液体は、隣の大きな装置へと送られ、巨大なチューブを通してどこかへ運ばれていくようだった。
奥には笑顔を模倣した人工的な顔が並ぶラインが見えた。作業員が操る機械の腕が笑顔を加工し、それをまた別の装置に運ぶ。
「これが……笑顔の正体?」
ミライが呟いた。
壁の表示モニターには、「エネルギー収集状況:75%達成」と表示されている。その下には「笑顔エネルギー取り扱い注意」と記されている。ノゾムは驚きのあまり、しばし笑顔を失っていた。。
男が叫ぶ。
「みんな幸せなんかじゃない!笑顔で隠しているだけで、本当はみんな幸せなんかじゃじゃない!市長が……この人工笑顔を街にひそかにバラ蒔いて笑顔を集め、政府と結託して笑顔をよそへ売り払ってるんだ!」
ほどなくして、白い防護服を着た職員が現れた三人の防護服の男が、叫ぶ男に近づき一気に押さえ込んだ。注射器が首筋に押し当てられ、薬液が注入されると、作業員の瞳は虚ろになり、抵抗の意思を失ったように見えた。
「驚かせてしまってごめんなさいね。あの作業員は笑顔が足りなかったのです。笑顔を忘れてしまうと、あんな風になってしまいますよ。みんなも気をつけましょう」
振り返った工場長が、生徒たちに向かって爽やかな笑顔を浮かべながらそう言った。
連れ去られる作業員が虚ろな目で一度だけノゾムたちを見た。その目には、悲痛な訴えとともに、何かを託すような光が宿っていた。しかし、それも扉が閉まる音とともに、完全に遮断されてしまった。
「先生、笑顔って……私たちの市がやっていることって……」
ミライが引きつった笑顔を浮かべて教師に尋ねた。
「どうしましたか、ミライさん。私たちの笑顔は世界を救うので……」
「違うよ!先生!」
ノゾムの胸の中で何かが弾けるような感覚がした。
「ノゾム君、君は確か『早く大人になって世の中の役に立ちたい』といつも言ってましたね」
クラスの生徒たちが連れ去られた男を嘲笑する中で、教師が笑みを浮かべてノゾムに話し掛けた。
ノゾムは身構えた。
「良かったですね、ノゾム君。今日君はあの奥の扉の中に、大切なモノを見て勉強したんですよ」
教師は工場長と並んで満面の笑みで言う。
「君は世の中の仕組みを知ったんだ。ノゾム君、これが『大人になる』ということなんだよ」
「アハハ、あの人、気失って引きずられて可笑しいや」
ユウジが笑みを浮かべて男を指差していた。