仕事終わりの夕方五時。航太は課長に会議室へ呼び出されていた。
オレはなんとなく帰る気になれず、オフィスに残っていた。航太がとったありえない行動は六組全員の知るところとなり、A班の深瀬さんとB班の麦嶋さんも何故か残っていた。
「危ういな、とは思ってたんだよねぇ」
オレらより七歳も年上の深瀬さんがやわらかく苦笑する。
「想像する側でなくても、物語を愛する人にはそもそも向いてないんだよ。この仕事は」
「とか言いながら、深瀬さんだって元作家でしょ?」
と、返すのは麦嶋さんだ。
彼女の指摘に深瀬さんは困った顔をし、ため息まじりに返す。
「そうだけど、俺は全然売れなかったからさ。デビュー作は話題になることもなく、出版不況もあって二作目を出させてもらえなかった」
「じゃあ、何で『幕引き人』に?」
と、オレが素朴な疑問をたずねると、深瀬さんは首をかしげながら言う。
「何でかなぁ。他に仕事がなかったから、かなぁ」
「抵抗、なかったんですか?」
横目に彼を見ながら麦嶋さんが言い、深瀬さんはため息をつく。
「あったよ。物語を消すなんて嫌だったし、それもやり方が恐ろしくてたまらなかった。登場人物を消しちゃうんだ、自分の手で。でも、仕事だと割り切ってやるしかない」
ふと航太のことが思い返される。
「あいつ、割り切れなくなっちゃったんですかね」
オレの言葉に麦嶋さんがため息をつく。
「そういうことでしょうね。特に好きなジャンルのパスティーシュでしょ? まあ、消したくないって思っちゃうのも、分からなくはないけれど」
「でも日の目を見なかった、価値のない物語なんだ。消さないとアカシックレコードは限界へ近づくだけだし、やるしかないんだよ」
深瀬さんの言葉にオレは目を伏せる。
「価値のない物語って、何なんだろ……」
オレは虚構の住人たちを消すのが楽しいし、それでアカシックレコードが救えるなら一石二鳥だと思って仕事を続けている。
でも、元々小説を読むのが好きな航太の場合、どう考えているのだろう。どうすれば、割り切って仕事をしていけるのだろう。
「嫌な話に聞こえるかもしれないけど、結局は運なんだ。新人賞に応募した時、それが痛いくらいに分かった」
静かなオフィスに深瀬さんの声が重く響く。
「下読みで弾かれることもあれば、最終選考まで残っても選考委員の好みじゃないからって落とされることもある。誰かに気に入られなきゃ、どんなにいい作品でもゴミになるんだ」
「あたしたちのやってるのも、それと同じってことですか?」
「ああ、そうだよ。管理部の人たちが、各々の裁量で価値の有無を決めてる。もしかしたら、誰かにとっては大事な物語だったかもしれないのに、ね」
元作家の言葉は想定外に重く胸へ突き刺さった。
三人が沈黙したところで扉が開き、航太が戻って来る。
「あれ、まだ帰ってなかったんですか?」
驚いた顔をする彼へ、オレはにこりと笑みを向けた。
「待ってたんだ。一緒に帰ろうぜ」
と、デスクに置いた鞄を肩にかけながら立ち上がる。
「ああ、そうか。ありがとう」
航太がロッカーを開けて荷物を取り出す。
麦嶋さんも席を立ちながら言った。
「さてと、あたしたちも帰りましょう。深瀬さん」
「そうだね」
彼女たちも心配してくれていたことを、航太はすぐに察して笑う。
「麦嶋さんと深瀬さんも、ありがとうございました」
二人はそれぞれに笑みを返した。
「いいのよ。あたしら、同期でしょ?」
「俺は物語を愛する同士として、放っておけなかっただけさ」
すると航太は何を思ったのか、無言で深々と二人へ頭を下げた。
それから扉の前で待っていたオレを振り返り、「行こう」とだけ言った。その目が少しうるんでいるように見えたのは、きっと気のせいではない。