「あなたは誰なの? 不審者か何か?」
「人間でないことくらいは既に察してると思ってたんだけどな。寒いだろう、アキ。暖かいところで話をしよう」
彼が指を鳴らすと、地面の下から赤みかがったオレンジ色のオーラが現れ、私たちを包み込んだ。
冷えた体は一瞬にして暖かくなり、血の巡りが良くなっていく。
たしかに、人間でこんなことできるはずがない。
私は驚きを隠しながら、彼に尋ねた。
「あなたは何者?」
「私の名はジェンダー。偉大なるMotherの従者だよ。君がここへ来たのは、必然だった。Motherが君を候補者に選んだんだよ」
「Mother?」
ジェンダーは優しく微笑むと、丁寧に説明してくれた。
「Motherは愛と幸福を司る女神。彼女はたった一人の人間に、自分の愛と幸福を与えることに決めた。いわゆる女神の子供、Childを選ぼうということだ。さっきも言ったが、それらを与える資格を持つ人間は一人だけ。その候補に君が選ばれた。今の君に必要なのものは、愛と幸福。ちょうど欲しかったものが手に入るまたとないチャンスだと思わないかい?」
「女神が大学にでも行かせてくれるの?」
「それ以上のものを与えてくださるんだ」
このときのジェンダーはにやりと、悪魔のような微笑みで私に答える。
きっと彼は悪魔だ。
私に甘い言葉で誘惑して、悪の道に進ませようとしているんだ。
私は警戒してその話を断った。
「そんな話になんて乗らないわ。愛やら幸福なんてあいまいすぎるし、都合がよすぎる。いい話には裏があるんでしょ。私にそんなもの必要ない。悪魔の誘いには乗らないわ」
「都合がいいわけないし、いい話だけじゃないよ。Motherの審査は厳しいからね。それに、私が悪魔ならもっと手っ取り早い方法で君を陥れるはずさ。それに愛や幸福が必要ないなんて大嘘をつくのはおやめよ」
ジェンダーは私の顎を持ち上げて、視線を合わせてきた。金色を帯びた神秘的な瞳だ。私の全てを知ってるぞと言っているような気がして、少し怖くなった。
「君の本質は、愛を求めている。幸福を求めている。たしかに君の生まれは惨めなものだ。不幸そのものだよ。極寒の冬に生きている君に必要なものは、Motherという暖かい春だ。私は君がここへ来るまで何年も待ったんだよ。ようやくこの時がきたわけだ。君は特に期待している候補者なんだからね」
期待?
何を期待しているというの?
この話も、彼も、危険な香りがする。
私は彼の手を払って、暖かかなオーラの外へと出た。
「私はMotherの候補者になんてならない。宗教勧誘みたいな手には乗らないんだから」
「いいや、君は必ずまたここへ戻ってくるよ。それまでまた、ここで待ってるから」
私はくるりと向きを変えて、一度も振り向くことなく走った。
アパートの階段を駆け上がって、ドアを開ける。
台所に置いてあった進路希望の紙は、くしゃくしゃに丸められてゴミ箱に入れられていた。
あの人は既に別の部屋に移動していた。あれだけビールを飲んだのだからぐっすりと眠っているだろう。私はゴミ箱から丸められた紙を取り出して、自分の部屋に戻った。
「女神が愛や幸福を与えるなんて、そんな夢のような話があるわけないじゃない……」
私は丸まった進路希望の紙を丁寧に伸ばす。
時折紙から生ゴミのような匂いがして、悔しくなって目頭が熱くなった。
ジェンダーが言ったことを認めるしかない。
大学へ行けば、いいところへ就職すれば、愛と幸福が得られるんじゃないかと思っている。
すべては愛と幸福のためだ。
母親のような温かい存在。
不安や心配をすべて包み込んで、ここにいていいという安心感を得てみたい。
私の周りをとりまく環境には、哀れなことにそれが無い。
だが、ジェンダーの話はどこか引っ掛かる。簡単に受け入れれば大変なことになるに決まっている。
現実を見なければ。
暗くて冷たい現実が今の私に与えられたもの。
あの非現実的な出来事は、寒さのせいで見せた幻なのだ。
***
その日、珍しく夢を見た。
私はオレンジ色の砂浜に立ち、紫色の海の上に昇っている2つの三日月を見つめていた。その2つの三日月はエメラルドグリーン色に輝き、少し溶けているのか月の一部が海に滴っていた。
すると向こうから赤紫色の長い髪を流し、白いシルクのドレスを纏った包容力のありそうな女性がこちらへやってくる。私はその人がジェンダーの言うMotherであると直感した。
彼女は両手を大きく広げると、私を優しく抱き締める。そして穏やかな声で囁いた。
「アキ。あなたは頑張ってる。よく頑張ってるわ」
暖かい。
なんて暖かいのだろう。
私はMotherの背中に手を回して、離れないようにギュッと抱き締める。
だが、Motherは私からスーッと離れていった。
「待って。行かないで!」
Motherは空高く舞い上がり、遠く離れていく。私は追いかけたかったが、飛ぶことができない。
彼女は微笑みながら、私に言った。
「アキ。あなたを待ってるわ。必ずまた会える。それはあなた次第よ」
「行かないで!」
ジリリリリリリリリリリリリ!
目覚ましが鳴る音に驚き、勢いよく目が覚める。
目から涙がこぼれており、急いでそれを拭った。
Mother。
あれが、愛というもの。
温かくそしてどこか力強く抱き締められた幸福というものなのだろうか。
いいや。あの夢はジェンダーが見せたものに違いない。そんな簡単に誘惑に乗るものかと、私はカーテンを開けて外の様子を見る。
外はしっかりと雪が積もっていた。見るからに寒そうだと感じ、時折くしゃみをさせながら学校へ行く支度をした。