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朗読

「なにひとりでボーッとしてんのよ」


 いつの間にか、彼女がぼくの部屋に入ってきていた。


「なにって・・・・・・とくにやることもないしね」


 ぼくは窓の外を眺めていた。大理石のような空に、鉛色の雲が重苦しく張り付いているだけの景色だった。


「でも・・・・・・きみが来てくれると、ちょっとやることができるんだけどね」


 ぼくは彼女を抱き寄せて言った。


「だめよ。昼間からそんなこと」


 彼女はあらがいながらも、唇を寄せて来る。「いいこと。このままだとあなたはボケてしまうわよ」


「まだそんな歳じゃないよ」


若年性痴呆症じゃくねんせいちほうしょうだってあるんですからね」


 彼女はぼくの胸に顔をうずめ、上目づかいにぼくを見あげる。


「そうだ。朗読をしたらどうかしら」


「朗読?」


「そうよ」


 彼女はぼくの腕の中から逃れて、本棚を指さした。


「本ならいっぱいあるじゃない。新聞でもいいのよ」


「音読と朗読って、どう違うの?」


「音読はただ単に、文章を声に出して読むこと。朗読は、人に聴かせるために読むことよ」


「独り暮らしなのに?」


「音読はアナウンサーの世界に近いけど、朗読はどちらかといえば声優の世界に近いかな」


「声優ってあのアニメとかの?」


「そうよ。あなた好きでしょ。音読は正確さが大切なの。でも朗読はそれに加えて表現力が必要になるのよ」


「朗読やって何かいいことある?」


「たくさんあるわよ。まずは声帯の筋肉を使うでしょう。自分の声を耳で聴くことになる。今度はそれを脳が感知する。だから脳の活性化につながるってわけ」


「ボケ防止ってことかな?」


 ぼくはコーヒーをれ始めた。


「それだけじゃないわ。カラオケ好きでしょ」


「ああ。気分転換に時々行くね」


「朗読にも同じような効果があるの。声を出して読むことで、自分自身を解放することができるのよ」


「へえ。しかも場所と時間を選ばないってか」


「そういうこと。室内でもできる趣味ってことね」


「まあ、お金はかかりそうもないね」


 ぼくはふたり分のコーヒーをテーブルに置いた。


「老後は子供や孫に絵本を読んであげられるし、物語の中に昔の郷愁を想い起こすとだってできるわ」


「今から老後の話かい。よしわかったよ。何か買って読んでみるよ」


 ぼくらはコーヒーを飲んだあと、ふたりだけの濃密な時間を過ごし、彼女を駅まで送って行った。その帰りに商店街の本屋さんに寄って、新刊コーナーで適当な本を選んで購入した。


 アパートの階段を登って来ると、ちょうど隣の部屋のおじさんが出て来て会釈をされた。


「あ、どうも」


※※※※※※


 翌日から朗読を始めた。


 朗読はアナウンサーでもあり、独り芝居の役者でもあるような気がする。描写部分は映像的な絵が浮かぶように、会話の部分は想像力を膨らませて読んでみた。


 数日して彼女が訪ねて来た。


「どうしたの?」


 ぼくは布団を被って本を朗読していた。そして布団から顔を出してぼくは苦笑いをした。


「実はさ、隣のおじさんに推理小説の最後をそんなに大声で読まれたら困るって苦情をもらったんだ」


「あら。そんなに声が隣に聴こえていたの?」


「うん、そうなんだ。ふたりのロマンスの声は我慢できるんだけど・・・・・・だってさ」

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