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悪魔様のお気に召すまま Side-M⑥

 この学校にはもう、萌流水もなみを脅かす存在はいなかった。

 教室にも、図書室にも。

 悪魔様のおかげで。

 悪魔様が、穢れた魂を浄化してくださったから。

 萌流水を脅かすものは、この学校にはもう、一つも存在しないはずだった。

 そう思い込んで、満足してしまった。

 きっと、それがいけなかったのだ。

 呼び止める声を掻き消すほどに、強く激しく燃え盛る炎。

 どす黒い煙を上げて踊り狂う炎の中に、萌流水は今、進んで身を投じようとしていた。




 女王の魂を悪魔様に捧げてからの萌流水は。

 バターとクリームとお砂糖がたっぷりのスイーツを、深夜に食べるような、背徳感と恍惚感に浸りきっていた。

 悪魔様と名付けた不可思議な存在と契約を交わし、悪魔的な力を得る代償として、他人の魂の一部を勝手に捧げることに、罪悪感はなかった。正しいことをしているとすら、思っていた。だって、学校は前よりも平和になった。別人にされた当人たちも、歪んだ魂を失って、善人になった。むしろ、前よりも人としての魅力は上がっている。周囲を平和にしただけでなく、本人たちにとっても、それは“いいこと”のはずだ。

 多少の後ろめたさは、あった。誰かを別人のように生まれ変わらせてしまうその力を、空恐ろしく感じている自分も、確かにいる。けれどそれは、悪魔様との契約をためらわせるほどのものではない。深夜に食べるスイーツ程度の背徳感。悪魔的な力を手に入れたことの恍惚を、より一層深く味わうためのスパイスに過ぎない。

 だから、心の奥底から時折聞こえてくる警鐘の声は、耳をふさいで聞こえないふりでやり過ごしていた。


 あれから。

 梨々花りりかの魂を捧げ、その変貌を確認したあの日から。

 萌流水自身もイメージチェンジを遂げた、あの日の朝から、ずっと。

 毎日が楽しくて、充実していた。

 鳥かごから放たれたような解放感。

 好きなように翼を広げて飛び回れる自由を、その歓びを、味わっていた。


 これからは、もう。

 地味を装う必要も、梨々花よりも劣っているふりをしなくてもいい。

 新しい髪形は、萌流水によく似あっていた。萌流水の清楚で大人びた魅力を、最大限に引き出してくれた。抑圧から解放されたことで、無意識のうちに着こんでいた心の鎧がなくなり、自然と笑うことが多くなった。作り笑いではない心からの笑顔は、萌流水の少女らしい魅力をよりいっそう引き立てた。星蘭せいらん乙女の名に恥じない美少女ぶりだと、内心では自賛していた。もちろん、そんな素振りは表には出さない。自分の容貌をひけらかすなんて、星蘭乙女には相応しくない、はしたない行為だからだ。

 授業やテストで手を抜く必要もない。梨々花の機嫌を気にすることなく、全力を振るえることが嬉しい。自分の能力を、正しく評価してもらえることが、嬉しい。

 純血星じゅんけっせいとしての歪んだプライドを失くした梨々花は、素直に萌流水の能力を認め、屈託のない笑顔で褒め称えてくるようになった。意見を求めてくることすら、ある。毒の牙を抜かれた蛇は、子犬のように懐いてくるようになった。とはいえ、それは萌流水に対してだけで、クラスの中では相変わらず女王として采配を振るっていた。

 クラスのその他大勢たちは、女王の心変わりが一時的な気まぐれではないと分かると、あっさりと女王に習った。いつの間にか萌流水は、クラスの中で一目置かれる存在となった。

 だからと言って、女王とのこれまでを水に流すつもりも、女王に靡いただけの烏合の衆たちと慣れ合うつもりも、流水にはなかった。

 その他大勢たちと慣れ合うなんて、綺璃亜きりあ的でない。悪魔的ではないからだ。

 クラスメートたちが萌流水を持て囃すようになったのは、何も女王に靡いたからだけではなく、純粋に、外見だけでなく内側からも輝きを放つようになった萌流水自身に魅かれたせいもあるのだということに、萌流水は気づいていなかった。どちらにせよ、烏合の衆たちの胸の内など、萌流水にはどうでもよい事だった。


 萌流水にしてみれば、今まで隠していただけの爪と翼を解放したに過ぎないのだけれど、世間からすれば、魂の一部を食べられた井原や梨々花と同様に思われているようだった。

 いつの間にか、萌流水と梨々花の変化は、恋人が出来て心を入れ替えた井原の指導のおかげということになっていた。

 実際、歪んだ心を失った井原は、真の意味で星蘭乙女を育てるべく、指導に熱心なようだった。純血星と外来星がいらいせいの区別なく、素行の悪い生徒には指導を行い、本来の力を引き出せていない生徒には助言を与えた。萌流水に髪形を変えるように声をかけてきたのも、その一環なのだろう。

 萌流水が本来の姿を現したことを、井原による変化だと思われるのも、梨々花と同列に扱われることも、癪ではあったが都合がよくもあった。

 萌流水が裏で糸を引いていたことを、その他大勢たちが知る必要はない。

 萌流水が悪魔と契約したことも、その力を使って、萌流水こそが二人を変えたのだということを知るのは、世界でただ二人、綺璃亜と萌流水だけでいい。

 いいや、そうでなくてはならないのだ。


 現状に満足する一方で、井原と梨々花に続く、次のターゲットは決まっていなかった。

 図書委員長の最上は、悪魔様への捧げものとしては、カウントしていない。梨々花の前の練習台にすぎないから、という理由からではない。どうやら、悪魔様は最上の魂はお気に召さなかったようなのだ。ほんの一舐めしただけで、召し上がってはいないようだった。完全に別人のようになってしまった井原や梨々花とは違い、最上はほんの数日で元に戻ってしまった。元の、教師からの評判を得ることには熱心だが、仕事にはやる気を見せない最上に。

 条件は、三人とも同じだったはずだ。

 外来星に不当に害をなす人物であること。放課後の図書室で、相手を怒らせた状態で、ゼリービーンズを食べさせること。

 怒りが一番燃え上がった瞬間の魂が、悪魔様のお好みの味のはずだ。

 考えた末、恐らく、悪魔様は味だけではなくて、質にも拘っているのだと判断した。

 先の二人に比べれば、最上は小物だったし、二人ほどの歪みは持っていなかったように思う。ムカッとさせられることはあるが、それだけだ。誰かの運命を、力づくで捻じ曲げるほどの歪みではない。

 悪魔様に捧げて力を得るためには、それ相応の穢れ切った魂が必要となる、ということなのだろう。

 けれど、そうなると、ターゲットの選定が難しくなる。

 井原や梨々花に匹敵するような、歪んだ魂の持ち主がいれば、噂くらいは耳に入って来そうなものだが、特にそうした話は聞かない。

 自分から積極的に、情報を探りに行くつもりはなかった。目立つことはしたくない。あくまでも、自分は隠れた存在でいなければならないからだ。

 当分、次の贄を捧げることは出来そうになかったけれど、萌流水に焦りはなかった。

 萌流水にとっての最大の障害であった梨々花が敵ではなくなったせいで、今の学校生活に満足しているからだ。綺璃亜には及ばなくても、確実に、悪魔的な力を手に入れたと実感しているせいもある。

 図書室の中であれば、ある程度、自由にふるまうことが出来た。生徒でも教師でも、目を合わせて命じるだけいい。大抵のことは、思う通りに出来た。ゼリービーンズを使わなくても、最上に大人しく仕事をさせるくらいは朝飯前だった。今まで散々好き勝手をしてきた図書委員長の最上を言いなりに出来るというのは、それだけで気分がよかった。


 教室にも、図書室にも。

 この学校にはもう、萌流水を脅かす存在はいない。

 いないはずだった。

 だから、きっと。

 油断をしてしまったのだ、と。

 萌流水は今、食いちぎりそうなほど強く、唇を噛みしめていた。

 流風るかがポニーテールに白いリボンを結んできた時から、胸の内でずっと燻り続けていた熾火が、萌流水のすべてを焼き尽くしそうなほど激しく燃え上がっている。

 それは、水曜日。

 音楽室へ向かう途中の、廊下での出来事だった。




 水曜日の三時間目は、音楽の授業だった。

 自分の教室から音楽室まで向かうその時間を、萌流水は楽しみにしていた。別に、音楽が好きなわけでも、授業そのものが楽しみなわけでもない。

 綺璃亜たちのクラスは、萌流水たちの授業の直前、二時間目が音楽の授業なのだ。運が良ければ、移動中に廊下や階段で綺璃亜とすれ違うことが出来る。綺璃亜には気まぐれなところがあるのか、音楽室を出る時間や自分の教室へ戻るルートは決まっていないようだった。すれ違えるかどうかは本当に運頼みで、だからこそ、ルートの予想が当たってすれ違うことが出来た時は、嫌なことすべてを忘れてしまえるぐらいに幸せになれた。まだ梨々花が毒蛇女王として君臨していた時でさえ、学校が天空のお城になったような心地がした。


「ここのところ、ずっと読みが外れてたからなぁ。今日こそ、先輩に会いたいよね!」

「そうだね」


 音楽室は、南校舎三階の西側、一番奥の突き当りの部屋だ。北校舎三階の図書室と対になる位置でもある。東側の階段から三階へ上がりながら、流風がニコニコと話しかけてきた。弾むような流風の言葉に合わせて、ポニーテールの毛先と白いリボンの先が揺れている。

 先輩と『すれ違う』ではなく、『会う』と言った流風に、黒い靄が湧き上がりかけたけれど、萌流水は冷静な返事とともにそれを踏みつぶした。

 少し前なら、湧き上がる炎を抑えるのに苦労したことだろう。燃え上がる前に鎮火できたのは、悪魔的な力を手に入れたという自信と余裕のおかげだった。

 階段を下りてくる三年生が萌流水に見とれている様子に、よりいっそう自信を深める。最近、こういうことが多い。萌流水を見て、驚いたように目を見張る、他のクラスの生徒たち。これまで埋もれていた萌流水の開花した魅力に驚き、羨望もしくは嫉妬の視線を浴びせてくる他所のクラスの生徒たち。

 その他大勢たちなんてどうでもいいけれど、それでもやはり、気分はいい。

 それまで、地味な萌流水と平凡な流風は、お似合いのコンビだと思われていたはずだ。注目を浴びる要素など、何もない。知らない人からすれば、背景の一部のような存在だった。だからこそ、二人が友人として付き合うことを、かつての毒蛇女王は見逃していた。萌流水にはその程度の友人が相応しいと見下して笑うために。ずっとお似合いの二人でいなさいと、そう思っていたはずだ。

 でも、それも昔の話。

 今は、違う。

 萌流水は、すれ違う人たちが足を止めて見とれるほどの、麗しき星蘭乙女へと変貌を遂げた。隣を歩く流風を気に留める人はいない。流風なんて、引き立て役にすらなれていない。いてもいなくても、どうでもいい存在。

 そのことを、流風が気にしている様子はない。そもそも、気づいているのかどうかすら、怪しい。

 胸の内に、冷たい笑いが波紋のように広がっていく。もちろん、表情には出さない。表面的には、慎ましやかな笑みを浮かべて、どうでもいい流風との会話を続ける。


 もうすぐ、階段が終わる。

 その先の音楽室へと続く廊下に、果たして綺璃亜はまだいるのだろうか。

 今週こそは、運よくすれ違うことが出来るのだろうか。

 弾む気持ちを隠そうともせず、流風はリズムカルに階段を昇っていく。

 きっと、もしも綺璃亜とすれ違うことが出来たら、何か話しかけてもらえたり、目が合ったりするかもしれないなどと夢想しているのだろう。


 ――――分かりやすい。


 声にも表情にも出さず、心の内だけで冷たく吐き捨てる。

 そんなことが起こるはずはないと信じながらも、いい気分はしない。


 ――――そう、そんなこと、あるはずがない。流風なんて、その他大勢の一人にすぎないもの。綺璃亜先輩はいつものように、子ザルたちの群れの中を泳ぐ一匹だけの美しい魚のように、悪魔的に無関心に通り過ぎていくだけ。ううん、それとも、もしかしたら……。


 乱れる気分を落ち着けようと自分に言い聞かせていたら、小さな期待がふと沸き上がり、火花のように弾けた。流風の浮かれ気分が伝染したわけではない。久しぶりに、綺璃亜の悪魔的に美しい姿を見ることが出来るかもしれないという期待に、萌流水自身も浮かれていたのかも知れなかった。


 ――――綺璃亜先輩にはまだ及ばないけれど、でも、わたしは確実に力をつけている。そのことに、気づいてもらえるかもしれない。


 ちゃんと気づいていると、ほんの一瞬だけ萌流水に視線を投げかけて、すぐに何もなかったかのような顔に戻って、素っ気なく通り過ぎて行ってしまう綺璃亜を想像する。

 それだけで、全身の毛穴という毛穴から、花びらが噴き出しそうなほどの喜びが、体中を吹き荒れる。

 たったそれだけのことでいい。

 たった、それだけのことが、いいのだ。

 それこそが、萌流水の求める綺璃亜なのだから。


 タンと小気味い音を立てて、流風が最後の一段を昇った。

 予感がした。

 きっと、綺璃亜は現れる。

 そうして、萌流水に気づいてくれるはずだ。廊下をすれ違う他の生徒たち同様に、流風には目もくれず、萌流水だけに視線を投げかけてくれるはずだ。

 流風に遅れて、萌流水も最後の一段に足をかける。一段分だけ上がった視界。音楽室へと繋がる廊下へと視線を向ける。視線を遮る壁の向こう。少しずつ広がる視界の先に現れたのは、萌流水が期待した通りの人だった。

 悪魔的なまでに美しい、萌流水の憧れの人。

 心臓が、制御を外れて勝手に働き出した。意識して、呼吸を正常に保つ。顔が赤くなっていないか、心配になった。喜びが表情に現れないように、いつも以上に落ち着いた笑顔になるように心がける。

 みっともなく浮ついたところを見せたら、同じ高みに昇りつめる相手として相応しくないと思われてしまうかもしれない。綺璃亜に相応しく、悪魔的にクールでいなければならない。

 今日も綺璃亜は、悪魔的に美しかった。

 背中の真ん中まである、光沢のある黒髪がサラリと揺れている。赤いゼリービーンズのように艶めいた唇は、きっとほんの少しの毒を含んでいるに違いない。ビスクドールのように整った顔立ちは、退廃的な雰囲気を醸し出している。ガラス越しに世界を観察しているだけの冷たい眼差しには、別の世界への興味が薄っすらとだけ垣間見えた。

 その独特の距離感が、萌流水の魂を痺れさせた。

 綺璃亜は、萌流水たちに気づいたようだった。気づいた、と言っても、流風が期待しているような意味ではない。障害物として認識しただけの眼差し。

 少しだけ、がっかりしたけれど、それならそれでよいとも思った。まだ、綺璃亜に認めてもらうだけの力を手にしたわけではないというだけだ。

 隣を歩く流風が、分かりやすく意気消沈しているのが、むしろ小気味いい。


 ――――ほら、やっぱりね。綺璃亜先輩は、あんたのことなんて、眼中にないのよ。


 思わず上がりそうになった口角を、必死に引き結ぶ。

 二人並んだ左側にいるのは、萌流水の方だった。星蘭の校則で、廊下は必ず右を歩くように定められている。

 つまり、綺璃亜の脇をすり抜けるのは、流風ではなく萌流水の方なのだ。

 それだけで、充分幸せだった。

 もうあと数歩ですれ違うというところで、綺璃亜の右手が動いた。真っすぐ進行方向を向いたまま、綺璃亜は右手の人差し指を立てて、そっと唇に押し当てながら、萌流水の隣をすり抜けていった。


 ――――今のは、もしかして…………。


 ぎこちない動きで、右隣に視線を流す。

 真っ白に凍り付いた顔をしている萌流水の隣で、真っ赤なミニバラが咲き乱れていた。流風の顔の上にも、それから恐らく頭の中にも。満開過ぎて、廊下が花びらまみれになりそうなほどだ。

 聞くまでもなかった。

 花びらを巻き散らしながら俯く流風を見ているだけで、何があったのかなんて萌流水には分かってしまった。


 あの日、あの時、北校舎の裏で。

 綺璃亜は、ちょうど図書室の窓から覗き見る萌流水に背中を向けていた。

 綺璃亜が流風に、水色のゼリービーンズを食べさせているところは、目撃した。

 校則違反のゼリービーンズ。綺璃亜の共犯者となった流風。内緒の仕草。

 つまりは、そういうことなのだろう。

 あの時、二人は。

 共犯者の密約を交わしたのだ。


 胸の奥がギシリと軋んだ。

 あの時は、真っ白い絶望に凍り付いた。

 けれど、今、萌流水は。

 どす黒い怒りの炎に、存在全てが飲み込まれていた。

 自分を見失いそうになる。

 炎の矛先を流風に向けることで、萌流水は自分を保とうとした。


 ――――違う。こんなこと、あっていいはずがない。流風が、流風ごときが、二度も、綺璃亜先輩と…………っ。ううん、違う、そうじゃない。そんなはずない。こんなことが起きていいはずがない。だから、そう、つまり、これは……。


 一人だけの世界を生きているはずの綺璃亜が、透明なガラスで隔たれた向こうの世界へ自ら手を伸ばすなんて、あっていいはずがない。

 しかも、その相手が流風だなんて、断じて認められない。

 認めてはならない。

 だから、そう。つまり、これは。


 ――――きっと、これは、わたしへの試練なんだ。この程度で満足していたわたしへの、試練。ちょうどいい獲物が見つからないことを理由に、真の高みへ到達する前に歩みを止めてしまったわたしへ課せられた試練。早くここまで昇って来いって、綺璃亜先輩はそう言っている。だから、今のは…………。


 すれ違う誰かの視線を吸い寄せるほどに綺麗になった萌流水ではなく、背景に溶け込むように平凡な流風にだけ合図を送った綺璃亜。

 その理由を、考える。

 怒りによって活性化したエネルギーのすべてを頭脳に注ぎ込んで、その理由を考える。

 答えは、すぐに出た。


 ――――違う。今だけじゃない。最初から全部、仕込まれていたんだ。あの日、あの時。綺璃亜先輩は、わたしが図書室の窓から見ていることに気づいていた。流風にゼリービーンズの種を蒔いたのは、共犯の証なんかじゃない。あれは、わたしへのメッセージだった。だから、綺璃亜先輩は種を蒔いただけで刈り取らなかった。それは、私の役目だって、綺璃亜先輩はそう言っていたんだ。練習台は最上先輩だけじゃない。井原先生も梨々花でさえも、本番前の前哨戦に過ぎなかった。いつまでも、友人ごっこをしていないで、早く同じ場所までやって来いって、綺璃亜先輩は言っているんだ。つまりは、そういうこと。綺璃亜先輩の蒔いた種を刈り取ってこそ、流風を、流風の魂を捧げてこそ…………、わたしは、本当の意味で……。


 綺璃亜と同じ場所に到達できる。

 それぞれの独立した世界の、唯一の存在となることが出来る。

 綺璃亜と対を為す存在になることが出来る。


 思いついてみれば、もうそれしかなくなった。

 それこそが、萌流水の真実となった。

 心の奥底から、警鐘を鳴らす声が聞こえてきた。

 その先へ進んではいけないと、ソレから手を引けという、萌流水を引き留める声。

 聞こえないふりは、しなかった。ちゃんと最後まで聞き届けたうえで、萌流水は。

 自分を繋ぎとめようとするその声を、踵で踏みにじった。

 声はいつも、萌流水が底辺のさらにその下へと転がり落ちないように呼び止めてくれた。でも、それだけだ。今より下に落ちることはないというだけ。萌流水が上に昇りつめるための手伝いはしてくれないのだ。

 だから、本当に欲しいものを手に入れるために、萌流水は自らの意思で一歩を踏み出すことにした。


「流風」

「…………ん?」

「相談したいことがあるの。今日の放課後、ちょっと付き合ってもらえる? あ、返したい本があるから、先に図書室まで一緒に来てほしいんだけれど、いい?」

「萌流水があたしに相談? うん! いいよ!」


 音楽の授業が終わった、その帰り道。

 授業が終わっても、まだ心ここにあらずで蕩けきっている流風に、自らの城である図書室への誘いをかけると、流風はあっさりと応じた。

 相談を持ち掛けられたのが嬉しいらしく、さっきまでとは違うオーラの小花を飛ばしながら、相談の内容に思いを巡らせているようだった。

 恋する乙女全開の忌々しいオーラがなくなったことに心を宥められはしたけれど、萌流水に頼られたことを純粋に喜んでいるらしき流風の姿を見て、決意が揺らぐことはなかった。

 その鈍感さに助けられたことも、確かにあった。

 でも、もういらない。

 萌流水の世界にも、綺璃亜の世界にも、流風は必要ない。

 排除すべき存在だった。

 だから、もう躊躇わない。


 問題は、魂の味と質だった。


 ――――こんな、平凡でつまらない魂なんて、全然、悪魔様のお好みじゃないはずだけれど。でも、それをどうにかしてこそ、真の悪魔様のパートナーとなれる。きっと、そういうこと。そういうことなんですよね? 綺璃亜先輩……。


 これは二重の意味での試練なのだと、萌流水は考えた。

 自らの手で、友人ごっこを終わらせること。

 本来、悪魔に捧げるに相応しい味と質を持ち合わせていない魂を、悪魔好みに仕立て上げること。

 最終試練に相応しいと、萌流水はそう思った。


 用意周到な萌流水にしては珍しく、流風の魂を美味しく仕上げる方法は、まだ決まっていなかった。それなのに、図書室への誘いをかけたのは、もうこれ以上待てなかったからだ。

 放課後までは、まだ時間があるし、方法はそれまでに考えればいい。とにかく、リーチだけでもかけておきたかった。

 明日とか、それより先だなんて、とても待てない。

 何としてでも、今日中に片を付けてしまいたかった。


 ――――大丈夫。図書室にさえ連れ込めば、何とでも出来る。あそこで、綺璃亜先輩が合図を送って来たのは、今のわたしにならそう出来るだけの力があると認めてくれたからこそ。早く、悪魔的な力を完全に手に入れろって、催促だったのよ。だから、きっと大丈夫。


 そこに何の根拠もないと、どこかでは薄っすらと分かっていた。でも、だからこそ、自分に言い聞かせる。決行を早めたのも、心の奥からの声に日和ってしまわないように、なのかもしれなかった。

 そうしなければ、どのみち壊れてしまいそうだった。

 流風と綺璃亜の未来が繋がったなんていう現実は、どうしても認められない。

 認めるわけには、いかなかった。

 それをこそ偽りにするためなら、なんだってしようと、萌流水は腹を括った。


 ――――今のうちに、せいぜい浮かれているがいいわ。あんたのつまらない魂は、わたしがちゃーんと、美味しく料理してあげるから。悪魔様のお気に召すように、最高に美味いディナーに仕立ててあげる。


 ふわふわと揺れるポニーテールと白いリボンを、萌流水は冷たく見つめた。

 それを為してこそ、自分は本当の意味で悪魔的な存在となれるのだ。

 黒くて冷たい炭酸水が、萌流水の足元まで押し寄せていた。

 パチパチと小気味い音を立てて、気泡が弾ける。


 それは、悪魔的な喜びの音だった。


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