平凡でつまらない
意外とグルメな悪魔様のお口には合わないであろう、平均以下の薄ぼんやりした味の流風の魂。
それを、悪魔様好みの、極上の味に仕上げる方法。
タイムリミットである放課後までに、その方法を見つけ出さなければならなかった。
グラグラと沸き立つような怒りをエネルギーにして、四時間目の数学の授業中はずっとそのことを考えていた。目まぐるしく考えを巡らせながらも、授業は疎かにしない。考えに集中しつつも、先生の話を聞き、ノートを取り、問題を解く。
流風の方は完全に上の空だったようで、たびたび注意をされていた。三時間目の音楽の時間からこの調子だったはずだけれど、その時に何も言われなかったのは、音楽教師がおっとりとした性格をしているためだろう。見逃しただけなのか、見逃してくれたのかは分からない。興味もないし、
ヒントは、悪魔様との出会いにあった。
出会いの、その始まりに隠されていた。
本当の始まりは、萌流水にとって、とてつもなく忌まわしい記憶だった。
悲しみと絶望と恐怖に彩られた、忌まわしい記憶。
水色に誘発された真っ白い絶望も。冷たくて恐ろしい真っ黒な何かに、心臓を掴まれそうになった恐怖も。
二度と思い出したくない、忌まわしい記憶だった。
だから、その部分だけ、箱に入れて鍵をかけて、心の奥底にそっと沈めた。
何かのはずみで、うっかり思い出してしまわないように。
けれど、今。封印したはずのその記憶を、萌流水は自らの手で解き放った。躊躇いはなかった。恐怖よりも忌まわしさよりも、流風への怒りが勝った。
封印した記憶以外に、ヒントは見当たらなかった。あの日の放課後、葉山が図書室に現れてから、
もっと、魂に根差したような、常に心の奥底で燻っているような強い怒りでなければ、悪魔様はお気に召してくださらないだろう。でも、そんなもの、能天気でお気楽な流風にあるはずもない。怒り以外の、何か代わりになるものを見つけなければならなかった。
ヒントが眠っているとすれば、後は沈めた箱の中しかない。
だったら、鍵を開けるしかない。
既に覚悟は決めたのだ。薄ぼんやりとしたつまらない魂を、悪魔様好みの極上ディナーに仕立て上げるためならば、何だってするつもりだった。
だから。
深い深い心の奥底に沈めた箱を拾い上げて。鍵を開けて。箱を開けて。
悲しみと絶望と、恐怖に彩られた忌まわしい記憶に、手を差し入れた。
そっと、でも念入りに、中をかき混ぜる。
恐怖に襲われる前、悪魔様の真っ黒に透き通った冷たい手が胸の中に差し込まれる直前の萌流水は、どうだった――――?
どういう状況だった?
どんな感情に、囚われていた――――?
一つ一つ、記憶をトレースしていく。
胸の奥に、薄い氷の板を差し込まれたような痛みが走った。けれど、氷の板も、それがもたらした痛みも、すぐに溶けて消えていった。どす黒い煙を上げて燃え盛る炎にくべられて、悲しみも絶望も痛みも恐怖も、全てが灰になっていく。
灰の中から芽生えた感情は、炎に炙られることで、鮮やかに色づいていった。
――――真に悪魔的な力を手に入れるためには、私自身が本当の意味で悪魔的な存在にならなければ。痛みから目を背けていては、望むものは手に入れられない。痛みをナイフで切り裂いたその中にこそ、本当の答えが眠っている。悪魔様が本当に求めている、極上の味の魂。そのヒントが、眠っている。
そうして、答えを見つけてしまえば。
放課後までの時間は、とても長く感じられた。
能天気でお気軽な流風の脳内に咲き乱れているお花畑を、早く氷漬けにしてやりたかった。風にほわほわと揺れている花たちが、真っ白に凍り付いて時を止めている様を思い浮かべると、それだけで脳髄は甘く痺れた。
もうすぐ。
もうすぐ、その時が訪れる。
図書室へと向かう道中、流風はチラチラと萌流水へ視線を寄越しながら、上ずった調子で、どうでもいい話を振ってきた。萌流水の相談の内容を早く聞きたくてうずうずしているのだろう。給食の話とか、体育の授業で失敗した話とか、今日の宿題の話とか、本当にどうでもいい話に、どうでもいい相槌を打ちながら、二人並んで廊下を進んで行く。
落ち着きなく動く頭に合わせて揺れる、ポニーテールの毛先と、白いリボンの先。浮ついた流風の心情を表すかのようにリズムカルに揺れる白いリボンを、ずっとうっとうしく思っていた。無理やり解いて、窓の外に投げ捨てたくなったこともある。
でも、それももうすぐ終わる。
白いリボンは、流風の中で意味を失う。
そうなるように、萌流水が仕向ける。
図書室へ入ると、まずは今日の当番と司書の北見先生に挨拶をした。挨拶と言っても、軽く目を合わせて会釈するのみだ。
これで、準備は完了。
利用者も数名いる様だけれど、こちらも邪魔になるようなら、目を合わせて軽く命じてやればいい。
流風を伴って、奥の本棚へと向かう。
一番奥の本棚の裏側。梨々花をやった場所だ。
歴史関係の本が並ぶその棚は、一部の歴史マニアを除いて、あまり人気がないコーナーだ。幸いにも、誰もいなかった。誰かいたところで、どいてもらえばいいだけだが、最初から誰もいない方が、幸先がいい。
本棚の真ん中、完全に死角となる場所で立ち止まって振り返る。後をついて来ていた流風も立ち止まり、わくわくと萌流水を見つめてくる。
萌流水はスカートのポケットに手を差し入れ、無言のまま巾着を取り出した。紐を解いて入り口を寛げると、左の掌に載せて流風に差し出す。
不思議そうに巾着の中を覗き込んだ流風は、その中に収められていたものを見ると、目と口を真ん丸にして萌流水を見つめてきた。
萌流水はゆったりとした笑みを浮かべて、流風を見つめ返しながら、右手の人差し指を立てて、そっと自分の唇に押し当てる。
内緒のポーズだ。
流風は、真ん丸だった目をさらに大きく見開いた。それから、右へ左へと落ち着きなく視線を彷徨わせてから、困った顔で天井をぐるりと一周見回して、そして。
えい、とばかりに巾着の中に指を伸ばしてきた。
選んだのは、蛍光ペンのような発色の黄色い一粒。
キョロキョロと周りを気にしながらも、流風は摘まみ上げた一粒を口に運び入れた。
暗示は、かけていない。最悪、無理やりにでも食べさせるつもりだったけれど、出来れば流風自身の意思で、その選択をしてほしかった。
運命は、萌流水に味方をしたように思えた。
そもそもの話をすれば、ここでどうしても流風にゼリービーンズを食べさせる必要はなかった。なぜなら、流風はすでに
萌流水は、その運命のバトンを引き継ぐだけでよかったのだ。
それでいいはずなのに、でも、それでは萌流水の気が済まなかった。
流風が二人の思い出だと信じているものを、踏みにじってやりたかった。
流風が二人だけの内緒の約束だと思っていることを、自分は知っているのだと突きつけてやりたかった。鈍感な流風には通じないだろうけれど、それでも、そうしたかった。
必要のない儀式だと思っていたけれど、こうしてうまくいってみれば、やってよかったと思えた。
綺璃亜が与えた、始まりの一粒。
萌流水が与えた、終わりの一粒。
二人の共同作業のように思えて、心が震えた。
結婚式でのケーキ入刀のように、二人で手と手を取り合ってというわけではないけれど。でも、むしろ。
これこそが、萌流水が求める理想の距離感だった。
――――これくらいの方が、綺璃亜先輩には……ううん。わたしたちには、相応しい。
校内で堂々と校則違反をしている後ろめたさからか、ろくろく咀嚼もしないままに、流風は黄色い一粒を飲み下した。
それを確認してから、小さく囁くように流風の名前を呼び、視線を絡み合わせる。
流風の瞳から、後ろめたさと見つかったらどうしようという怯えが消え、代わりに好奇心の火が灯った。
証拠品は隠滅済みなのだ。となれば、脇へ追いやられていた萌流水の相談内容への興味が再び芽吹き、好奇心が息を吹き返す。
「流風におすすめの、とってもいい物語があるの。そうね、異世界の森で、青の騎士と出会った女の子の、恋と冒険の物語だよ」
「…………うん。ありがとう」
「閲覧席に行きましょうか」
「うん」
相談があると呼び出したはずの萌流水は、流風に物語の斡旋をしてきた。
図書委員としては間違っていないが、流風としては肩透かしだ。
けれど、流風は苦情を申し立てることなく、素直に頷いた。
不満を飲み込んだ、というわけではない。
流風の瞳からは、光が消えていた。
好奇心の光が、という意味ではない。
ありとあらゆる感情の光が、消え失せていた。
光を宿さない、虚ろなだけの瞳。
萌流水は、それを確認すると、口元に薄っすらとした笑みを浮かべ、本棚の陰から抜け出し、閲覧スペースへと向かう。
流風は、人としての意思が感じられない虚ろな足取りで、萌流水の後をついて行く。
ご主人様の言いなりの、人形のようだ。
促されるまま、流風は空いている閲覧席に腰掛けた。
「物語って、素敵だよね。経験したことのないことを、ページをめくるだけで、文字を追いかけていくだけで、自分のことみたいに体験できるんだから。ねえ、流風。わたしね、流風のために腕によりをかけてとっておきの物語を用意したんだ。ここでしか味わえない、本当に経験できる物語だよ。初めての試みだけど、自信はあるの。だから、安心して?…………それじゃあ、流風。いい夢を見てね?」
ぼんやりとどこかを見つめている流風の耳元で、甘く優しく語りかける。
流風は小さく頷くと、テーブルに突っ伏して静かに寝息を立て始めた。
気配を感じたらしく、受付で貸し出しを受けていたツインテールに黒いリボンを結んだ子が振り返った。閲覧席で堂々と眠る流風に眉をひそめたその子は、次に隣に立つ萌流水に視線を投げかけた。
好都合とばかりに、萌流水は目を合わせる。
軽く目が合うだけで、訝しげだった瞳は虚ろになった。
そして、それから。
黒いリボンのツインテールは、何事もなかったかのように、前に向き直った。受付をすませて、流風と萌流水には目もくれず、図書室から出ていく。
図書当番と北見先生は、何も気にすることなく、いつも通りに仕事を続けていた。
そういう風に、既に仕込み済みだからだ。
萌流水は満足そうに笑いながらそれを見届けると、居眠りをしている流風に視線を向けた。
閲覧机にダイブした流風は、楽しい夢を見ているようだ。
だらしなく頬を緩ませ、口の端から涎を零している流風を、萌流水は冷たく見下ろす。
「念のために、いろいろ設定も考えてはあるけれど、流風には必要ないかもしれないね。興味なさそう。まあ、そこは大事なところじゃなから、別にいいけど。ふふ。せいぜい、楽しんでよね。そうして、あんたも味わうといい。幸せの絶頂から、どん底に叩き落される気分を、ね」
氷のような眼差し。口元には、冷たい愉悦。
あの日、あの時、この場所で。
萌流水が味わった以上の悲しみと絶望を、流風にも味合わせてやりたかった。
思い知らせてやりたかった。
夢の世界で。
萌流水が用意した物語を直接体験させることで、流風の魂を絶望へと導く。
それが、萌流水が選んだ、流風の魂を美味しく調理する方法だった。
悪魔的な力を手に入れた図書室の支配者に相応しい方法だと思えた。
何より、直接手を汚さずに済むのがいい。
現実でどうにかするよりも、よほど手っ取り早いし、スマートなやり方だ。
成功するかどうかは賭けだったが、萌流水はその賭けに勝利した。
萌流水が用意した舞台に、流風は無事に降り立った。その様子が、手に取るように分かる。外から流風の夢を監視し、その夢に介入することも可能なようだった。
これから流風は、萌流水が用意した人物、いや、キャラというべきだろうか?
萌流水の作った綺璃亜によく似た、けれど、ただ似ているだけの悪魔的に美しい騎士と出会い、共に森の奥を目指すのだ。
最後に、何が待ち受けているのかも知らずに。
「今はまだ、異世界での冒険を楽しむといいわ。一人で好きに盛り上がってちょうだい。盛り上がれば盛り上がるほど、最後の絶望がより際立つもの」
暗い愉悦に唇を綻ばせながら、白いリボンの端を指先でなぞっていく。
萌流水が創りあげる、極上の絶望。
きっと、悪魔様も気に入ってくれるはずだ。
興味津々で、事の成り行きを見守っている気配を感じる。
「薄ぼんやりしたつまらない流風の魂を、私が最高に美味しくしてあげる」
甘い囁きは、異世界の森へと旅立った流風の耳には届かない。
白いリボンを滑り落ちて、図書室のどこかへと転がっていった。