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五山送り火の奇跡

しんちゃん、ちょい待って」


 加代の手がぼくの手をひっぱる。京都五山送り火の日は、今年も大勢のひとでごったがえしていた。


「そないに急がんでも」


 加代は牛乳瓶の底のようなメガネをかけていた。生まれつきの弱視なのだ。メガネを外した彼女の素顔をほとんどの人が知らない。


「ごめん。急ぎすぎた」


 ぼくは送り火の大文字だいもんじを良い場所で見たかったので、いやがる加代を京都御苑に無理やり連れてきたのだった。


 ぼくらは人波に押し流されて、なんとか清和院御門せいわいんごもんのそばまでたどり着くことができた。夜の8時になろうとしている。いよいよ京都五山の送り火が始まる時刻だ。


 ぼくと加代はそっと眼を瞑る。すると、魂がふたりの身体からするりと抜けだして天高く舞い上がった。


※※※※※※


 京都大文字焼きの大は、奈良時代、大文字山のふもとにある浄土寺が火災に見舞われたとき、天空に阿弥陀仏が現れて眩いばかりの光明を発せられた。


 その光を空海(弘法大師)が“大”の字と見定めて儀式としたのが始まりだと言われる。

 ぼくと加代は上空から、まず大の文字に火が灯るのを確認した。この“大”は、精霊の人形ひとがたを現している。


 その5分後に“妙法”に火が灯る。精霊が何無妙法蓮華経を唱え始めるのだ。

 さらに“舟形”に火が灯された。三途の川を精霊が船に乗ってお渡りになる。

 次は“左大文字”だ。精霊は再び後ろ姿をお見せになる。

 最後に“鳥居”が現れる。精霊はこの鳥居をくぐって黄泉よみの国に帰られるのだ。


 ぼくらは目を開けた。目の前に大文字焼きが赤々と燃えている。


「伸ちゃん。綺麗やな」加代がにっこりと笑って大文字焼きを見ている。


「うん。加代、手を出してごらん」


「こう?」


「手でお椀を作って」


 加代が両手で丸いお椀を作った。ぼくはたもとから飲料水のペットボトルを取り出して、加代の作った手のお椀に水を注いだ。


「冷たおして気持ちええわ」


 ぼくは笑った。


「その水に大文字を映して飲み干してごらん。願いが叶かなうから」


 加代は言われた通りに、水に浮かぶ大文字を飲み干した。


 次にぼくは袂から大ぶりの茄子を取り出した。茄子の胴には大きく穴が開けられている。


「今度はこの穴から大文字をみるんだ」


「なんか伸ちゃん注文がおおいなあ」


 加代は素直に言われた通りにする。


「目の病が治るって言い伝えがあるんだ」


「アホみたい。そないなわけあらへんて」


 加代が微笑みながら茄子の望遠鏡を覗いている。


 大文字焼きはおよそ30分で消えて行った。精霊さんも冥界に帰られたのだろう。


「じゃぼくらも帰ろうか」ぼくは加代の手を引いて帰ろうとした。


「ちょい待って伸ちゃん。ぼけてもうて良う見えへんで」


「どうした?」


 加代はメガネを外した。


「あ、これでようやく見えるようになったわ」


 目の前に、加代の美しい素顔が現れた。

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