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俯いても、顔をあげても

19


 彼は一度、結婚指輪に視線を落とす。そして長いまつ毛の向こうから私を覗くような上目遣いで、静かに微笑んだ。


「ああ。だからこそ、君に安心して働いてもらえると思う。それに松恵さんが常に待機しているから、何か間違いがない限り、俺と二人きりになることはない」


 一瞬納得しかけて、気を取り直す。彼のペースに飲まれてはいけない。


「でも。船上、しかもプライベートな空間で、最初の予定には無かった若い女性と一緒に過ごすのは、どうかと」


「そういうものなのか?」


 意外そうに尋ねてくる彼に、私はかつて考えていたことをそのまま打ち明けた。


「ちらっとでも話してもらえると、嬉しいような気もします」


 あくまで私の意見。

 けれど文月家に育った稔二さんにとっては、疑問にさえならなかったことかもしれない。社交上、必要になることだってあるだろう。


 膝上に肘をついた稔二さんが、思案顔で呟く。


「……君の意見を聞かせてほしい」


 嫌です。とは言えない雰囲気で、私は黙ってうなずく。


「妻と暮らす家にも、何度か若い女性のハウスキーパーを入れたことがある」


 ドキッ、とする。私が先ほど思い浮かべた出来事、そのものだった。


 ある時。稔二さんは私と同年代の女性を、あえて指名してハウスキーパーとして呼ぶようになった。


それまで鈴村さんと同い年くらいの、年上の女性ばかりだったのに。


 稔二さんが目移りしてしまわないか、不安に感じたのをよく覚えている。


 何もかも必死に学ぶばかりの私に比べ、彼女たちは立派な家屋にも臆することなく、家事全般をバッチリこなしていたから。


 妻という立場ながら、まごつくことも多かった私に不信感をあらわにする子だっていた。


 しばらくしたら出入りがなくなり、ホッとしたのを覚えている。


「若い女性を選んだのは、自分は妻のためだと思っていた。妻はふるさとや友人とも離れて我が家に嫁いでくれたから、多少なりとも価値観のあう人と話す機会になればいいと思ったんだ」


 思いがけない発言に、私は首筋が熱くなるのを感じた。稔二さんはそんなことを考えていたのね。


 もし事前に知っていたら、彼女たちに違う眼差しを向けていた。素直に受け入れられたし、邪推することもなかった。


 私も何も聞かなかったから、あまり彼だけが悪いとも言えないけれど。


「知らっ……なかったら、奥様はその行動に稔二さんとは違う考えをしていたかもしれません」


 うっかり文月裕理として発言しそうになり、慌てて言葉を重ねる。


「私だったら、事前に話し合ってほしいです。価値観のあう人と話す機会そのものを、必要としていないかも」


 そうか、と稔二さんが呟いた。彼が立ち上がると、私の前に影が落ちる。


 話し込んでいた分だけ、太陽が動いた証拠だった。


「ありがとう、ユウさん。専属担当の件は、やはり君に勤めてほしい。君と話すことで……俺は生まれ変われるような気がするんだ」


 真剣な口調だった。彼が本気でそう考えていると分かるくらいには。


 自分の中に起きる感情を包み隠そうとして、ハッとした。

 それじゃあ、今までと同じじゃない。


 専属担当になってほしいと望まれたことは嬉しかった。

 でも、何かが引っかかっている。


 考えていると、きらり、と結婚指輪が稔二さんの左手で瞬いた。これだと直感する。


「ひとつ、条件があります。本来ならこのような条件を持ち出せない立場ですが、お許しいただけますか?」


 私が言うと、稔二さんが大きく頷く。


「もちろん。それが君を納得させる条件となるのなら」


「でしたら。私を専属担当にすると、奥様にお伝えください。奥様も納得されるのなら、私はおっしゃる通りにいたします」


 言葉にするとはっきりと分かる。今ここにいるユウは気遣われているのに、稔二さんの指輪がつながっているはずの文月裕理という女性は、気遣われていない気がしてならなかった。


 だから私は彼からの申し出に、素直にイエスと言えなかった。


 稔二さんは少し考えてから頷く。


「分かった。すぐに連絡するが、松恵さんをがっかりさせるのが少し心苦しいんだ。彼女には君に専属担当を頼むと伝えたら、とても喜んでいたから」


 鈴村さんのことを思うと、ちょっとだけ心が動いてしまう。でも、ここで譲れない。自分の心が不思議と落ち着いているのを実感する。


「では、私ともう一人別の担当者と向かう形ではいかがでしょうか」


「それがユウさんが納得する形なら申し分ないよ」


 明日か、今夜か、もしかしたら出港してからかも。でもとにかく、裕理である私に連絡が来る。


 稔二さんから電話やメールが来たのは、最初の一か月だけだった。この一年は、ちっとも連絡がなかったほど。


 彼はもう私になんの価値も抱いていないのかもしれない。

 彼と一緒に暮らせるのなら、手駒のままいた方がマシだったかも。


 悲しみと苦しみでどうにかなりそうだった。だからあえて目をそらしてきた。


 琴浦さんの言う通りだ。私は離婚したかったわけじゃない。

 一つは、稔二さんとの間にあるいくつもの問題を解決したうえで、彼と向かい合いと願っていたこと。


 だけど決定的な目的はまだ見えない。胸の奥底で、まだ何か得体のしれない彼への抵抗感が蠢いている。


 それでも。今日、一歩踏み出したのは確かだと思った。



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