樹木に乏しいこの地では珍しい、太く大きな木が生えている場所だった。
そこに立っていたのは、筋肉質な体躯を持つ、壮年の爬虫人。その雰囲気から、夜襲をしかけてきた部隊のリーダーである可能性が高そうだ。
その隣には、槍を持った、やや若めであろうオーク族の者もいた。
他は特に敵の気配を感じない。
両種族の代表だけが、砦の外であるこの場所に残り、指揮をしていたというところか。
「来るべき奴が来たかと思ったら。また違うじゃねえか」
壮年の爬虫人はそんなことを言うだけで、すぐに襲ってこなかった。
「なんだか知らんがずいぶんきれいな顔の女が来たな。ここは戦場だが……おれは夢でも見てるのか?」
とても剣士には見えないこちらの格好が、困惑を招いているようだ。
いつぞやの野盗と同じで、私の性別すらも勘違いしている。もっとも、今回は種族が違うため仕方がない部分はあるが。
「いや、お前は……どこかで見たような気もするな…………そうか。わかったぞ。あのときおれの矢の邪魔になっていた荷物持ちの奴か」
その言葉で、こちらもわかった。どうやら彼は、行軍中にバクを狙って矢を放った爬虫人と同一人物であるらしい、と。
私は時間の猶予をもらえている間に、サッと周囲を再確認した。気配の感知だけではなく、視認でも。
どうやら、周囲に敵がいる様子はない。ペンギンもうまく闇に紛れている。気配も消せている。今のところ条件は悪くない。
狼人族は夜でも比較的目がよく見える。爬虫人族も人間より多少は夜目が効くとされているようだが、狼人族はそれ以上とされる。
そのおかげか、少し離れて倒れていた青髪の少年も、すぐに目に入った。
「シン。やはりここに」
相手がすぐ襲ってこないのはこれ幸いということで、すぐ彼のそばに行く。
容態を確認すると、意識はないものの命に別状はなさそうだ。私は安堵した。
同時に。
現時点では、彼を失ったバクが悲しむような事態にはならない、ということにも安堵した。
「おれは知っているぞ。その服は人間族では召使が着るものだ」
「よくご存じで」
「敵を勉強しなければ戦えないからな。こっちの長老会議はそれすらも理解できんらしいが……ああ、それはどうでもいいか。召使なら戦闘要員でもなんでもないだろ。戦場になんの用だ」
「この子が無事に戻れないと、こちらの英雄様が寝込んでしまうそうですので。持ち帰るために来ました」
「なんの話だか知らんが、捕虜にする価値があるのが明らかなら、『どうぞ』とは言えんな」
そう言って、相手が曲刀を構える。
「今回、私は敵と戦うことまでは許されていません」
「あ? 意味わからんぞ」
上がった切っ先が、ふたたび下がった。
「そのとおりの意味です。私はこの子を連れて帰ります。そして戦うつもりはありません。ただし、そちらがそれを妨げ襲ってくるなら私も戦わざるをえませんので、戦うのか、戦わないのかは、この場ではあなたが選べることになります」
「頭がおかしいのか? まあ、おれは兵士でもない女を好んで殺す趣味もないんでな。とっとと刀背打ちで眠ってもら……ん?」
ふたたび曲刀を構えた彼に合わせて私も剣を構えると、彼の言葉が止まった。
「前言撤回だ。その構え、頭がイカレてフラフラ出てきた非戦闘要員なわけがない」
「恐縮です」
「戦う前に油断を戒めてくれたことに感謝するぜ。遠慮なく殺させてもらう」
力強い踏み込みとともに、爬虫人のリーダーらしき男が斬ってきた。
それを受けると、大きな金属音がした。
矢継ぎ早に斬撃を繰り出してくる。
私がそれらを受け続けると、彼はいったん距離を取ってきた。
「やっぱりな。少なくとも並の人間以上にはできる。顔と格好で油断させようという作戦か。正体は兵士だろ? 人間が考えそうではある策だ」
「……」
不正確な煽られかたをしたが、それには言い返さなかった。
少し、自身の体の中がゾワっとする感じがあり、そちらのほうに驚いていたからだった。
胸や上腹部から背中に抜けるような、悪寒。そんな感じだった。記憶が確かならば、初めて経験する感覚だ。
これは……恐怖心というものなのだろうか。
狼人族は種族皆兵。自分も両親や族長のもとで幼少のころから厳しい鍛錬を積んでいる。訓練の経験は豊富だった。
さらに私の場合、断片的に存在した前世の記憶の影響で、幼少期の重要性に気づいていた。そのため、こなした訓練の量も質も、他の誰をも凌駕できていたと思う。その成果により、能力的には同世代で一番という評価を受けていた。それは自分でもそのとおりだろうという自覚がある。
だから、今のほんの少しの戦いでも、わかった。
この目の前の爬虫人に、自分はおそらく戦闘能力で劣らないだろう、と。
しかし、それでもなお、このゾワっとするような、訓練では感じたことがないような感覚が消えない。
なぜか?
行軍中にこの感覚――怖さを感じることはなかったように思う。
休憩中にバクが狙撃されたあのときにも、この感じはなかった。
……ああ、なるほど。
わかった。
明確に自分へと向けられる殺意、だ。
今までそれを経験したことがないから、怖いと思うことがなかったのだ。
今感じているもの。それは訓練などではけっして体感することができないものだ。
幼少の頃、稀に前世の記憶が蘇っていた自分ではあるが、これについては一度も蘇らなかったか。もしくは、前世でも殺意を向けられる経験をしていなかったので元々蘇りようがなかったか。どちらなのかはよくわからない。
いずれにせよ、これが実戦の怖さ。
そういうことなのだ。
ただ――。
この恐怖心を抱えたうえでも、この爬虫人には勝てると思った。
おそらく技術のある相手なのだろうが、それでも戦って負けることは想像できなかった。すさまじいであろう経験値の違いを差し引いても、だ。
よほどのことがない限りは、ここで相手を退け、シンを救うことは現実的であると感じた。
そして、それがけっして私の自信過剰からくるものではないとも思った。狼人族の中にこの者以上の強さの者がいたかと言われれば、自分の知る限りでも数名いる。だが、自分はどの者からも一本を取られたことがない。
いける。今度は自分から攻める。
そう思い、地面を蹴ろうとした。
「お、シンかな? 助けに来たよ……って、あっ! ケイ!?」
と、そこに、聞き覚えがありすぎる声がした。
「おや? バク」
救国の英雄様は、私のところに飛ぶようにやってきた。
「いや『おや?』じゃないでしょお!? なああんで戦場に出てきちゃってるのおお!?」
「取り乱しすぎです」
「めちゃくちゃ取り乱すよ!? 俺言ったよね? 部屋の中にいてって! なああんでフラフラ出歩いちゃうのおっ!?」
「敵がいますので、説教している場合ではないかもしれません。後でゆっくり叱られますよ」
「あああそうだ! あとは俺に任せて! ケイは戦わないようにね! 絶対! 頼むよ!」
「しかし、そういうわけにも」
バクはすでに血まみれだった。
返り血もありそうだが、例によって彼自身の血も多そうである
「ダメ! こ・れ・は! 命令! めいれい!! メイレイ!! いいね!?」
「……はい」
「あ? やっぱりフラフラ出てきた従軍の民間人だったのか?」
そこでようやくバクは爬虫人のほうへと向き、立派な剣を構えた。
かがり火が暗めなので仕方がないが、離れて倒れているシンにはまだ気づいていないようだ。
「ケイは民間人! 俺が代わりに戦う!」
「そうは見えんかったけどな。まあ、いいか。やっと狙いの奴が来た。近くで見ると想像以上に子供だが……お前が人間族の英雄、バク。間違いないな?」
「そうだ! 俺がバクだ!」
「夜襲をかけて、砦をめちゃくちゃにすれば、お前がきっとおれのところまで来ると思っていた」
爬虫人はニヤッと笑った。
「おれは爬虫人族の戦士長代理、フィルーズ。お前さえいなくなれば、しばらく人間族は脅威にならないとみている。ここで倒させてもらうぜ」
彼は隣にいたオークに「激しくなるかもしれん。巻き込まれないように離れていてくれ」と指示すると、バクに向かって突進してきた。