「ふぎゃっ」という声が耳に入り、俺は自分が歩いていたことを思い出した。
ぼうっとしてしまっていたらしい。
空は夕焼け。左に川とそれにかかる小さな石橋、右に丘。肩には学生鞄がふたつ。ひとつはもちろん俺のだが、もうひとつはジャンケンで負けて嫌々持たされたものだ。
振り返ると後輩――
前のめりにである。もしかしたら鼻血が出ているかも知れない。
「ふぅん」と俺は納得して。
そのまま歩き出した。
「ちょ、待ってくださいよ先輩」
「なぜ」
後輩は憤慨したようにする。
「かわいい後輩が転んでるのに手のひとつも差し伸べないんですか! そんなだからモテないんですよ先輩は」
「別にモテたくねー」
仕方なく近づいて、八重子が押さえていた脚を確認してみる。膝を軽くすりむいたようだ。
冷えてきたというのにストッキングも何も履かないからなこいつ。
よし、と俺は頷く。
「全然大丈夫そうだな。そら、いくぞ」
しかし八重子は納得しない。
「いやいや大丈夫じゃないです痛いです。先輩おぶってくださいよ!」
などと駄々をこねる。
「えーやだよ。血ぃつくだろ汚え」
「乙女の血液を汚いとか言うな!」
「うっさ」
しぶしぶ背を向けてしゃがんでやると、八重子は嬉々として俺の背中におぶさった。動けるじゃん、と俺は溜息をつく。
にしたって鞄ふたつを持ったままこいつ自身もおぶるというのは結構重い。大丈夫だろうか俺の脚。
と、俺は八重子が動いた拍子に、変なものが見えた気がした。ふさふさした毛のついた、それは何かの動物のようだった。不思議に思う、というほどの感情の動きもなく、なんとなくそれをよく確認しようとして、振り返ると八重子の顔が目の前に現れた。黒い長髪からふわりとシャンプーの香りがする。
「え、えっと、先輩?」
何やら急に慌てた様子になる後輩が邪魔で、結局ちらりと見えたそれが何なのかはわからなかった。ま、いいかと前を向いて立ち上がる。
「動くぞー」
「おっ、なんかエロいっすねその台詞」
「次近しいこと言ったら落とす」
「そんなことしたら今度はお尻怪我しちゃいますよ」
「バカお前水があるから大丈夫だよ」
「……え、川に? 川に落とす気なんですか!?」
なははー、と笑う八重子だが、背中に回した俺の手がちょっと足首に触れてしまったようで「あう」と笑い止んだ。背中の体重にぐっと力が入るのがわかる。
「おい、なんだ。そんな強くぶつかったかいま?」
「いや、そんなことは……あててて。えー、さっきまでそんな痛くなかったんだけどな?」
「帰ったら湿布はっとけよ」
「うー、すんません……」
八重子が痛がっている左脚を、ちらりと見てみる。
赤い痣が出来ていた。
だがその痣は一般的な打ち身のそれではなく――
なんだか、何かの動物の噛み跡のように俺には見えた。
◆
結局そのまま後輩を家まで届けた。よくぞもった俺の脚。
八重子は家の数メートル手前で、
「あ、先輩もういいです。降ろしていただいて。大丈夫なんでもうほら、早く早く降ろしてください早く」
とか言い出したので意地でもおぶったまま玄関まで届けた。インターホンを押す頃には後輩はぎゃあぎゃあ悲鳴を上げていたが、いい気味である。高校一年にもなって転んで足捻って先輩に家までおぶってもらったなど不名誉極まりあるまい。家から出てきた弟さんが口を押えて笑いをこらえていたところを見るに、いまごろ部屋でいじられ倒していることだろう。
「さて」
ということで、俺は件の石橋のところまで戻ってきていた。空は夜にさしかかりつつある。姉貴の飯もつくらなきゃならないことを考えると、あまり時間はない。
「ふぅ」
早歩き気味に戻ってきたせいで外気温の割に少し暑い。ワイシャツの首のとこをつまんでパタパタさせながら、周囲にさっと視線を巡らす。さっきと逆の道から来たから、左手に丘。右手に川と小さな石橋。後輩が転んだのはちょうど石橋の前くらいだ。よく見れば地面に血痕らしき跡がある。
「んー?」
特段怪しいものはない。試しに橋を渡ってみることにする。川は流れが緩やか――というかそもそもそんなに水がなく、橋もそれに合わせて簡素な造りだ。手すりすらないコンクリートの緩いアーチ型。車が通れるくらいの幅はあるが、俺が免許を持っていたなら絶対に渡らないだろう。崩れたらと思うとぞっとしない。
橋を渡った先も別段何の変哲もない。左右は畑になっていて見晴らしがよく、遠くの林まで視界が開けている。林の右側に最近できたショッピングモールが。左側には駅が見えた。
「ふむふむ、なるほどなー」
と棒読みで口に出してみる。もちろん何もわかってなどいない。ふと思い出してハンカチを取り出し、ちぎって捨ててみたりもしたが、ゴミになるだけで何の変化もおこらなかった。
「はぁ、帰ろ」
特に何もないと判断。後輩がドジ踏んで転んだだけと解釈し、俺は踵を返す。ああ時間の無駄だった。ウェイスティング・ターイム。
漫画でも買って帰ろう。ああでも食材も買わなきゃか? そんなことを考えながら戻ろうとして、つま先が石橋の表面につっかかった。
「……っとと」
体勢を整える。さすがに転びはしなかったが、これでは後輩のことを馬鹿にできない。危ない危ないと思いながら再び歩き始めると、背後から唸るような獣の声がした。
ハッとして振り向く。さっきと同じ風景。何もいない。気のせいか? だが直後、カチャカチャという音がする。ひづめの音を咄嗟に連想し、急いで首を戻すがやはり何もいなかった。
「おー、こりゃお前あれだわ……」
今日中に解決すっかなーこれ、と考えながら、俺はため息交じりに呟いた。
「